☩教皇、次回の枢機卿会議を6月に、毎年開催も。”シノドスの道”の仕上げの教会会議2028年10月開催も確認

(2026.1.8 Vatican News    Salvatore Cernuzio )

 臨時枢機卿会議が8日夜、2日間の討議を終えた。終了後、教皇レオ14世はこの方針を継続する意向を表明された。これは「継続性」を保ちつつ、昨年5月の教皇選挙前の枢機卿総会で求められた内容に沿うものであり、この線に沿って、今年6月、聖ペトロと聖パウロの祝日に近い時期に、臨時枢機卿会議が再び招集されることも決まった。また会議では、教皇フランシスコが”シノドスの道”の仕上げとして昨年3月に発表された2028年10月の教会会議の開催も確認した。

 6月の第二回臨時枢機卿会議の開催は、8日午後の第三回全体会議の締めくくりの挨拶で、教皇が発表された。会議には選挙権を持つ枢機卿と持たない枢機卿、計170名が参加。教皇は、この二日間の会議が「昨年5月の教皇選挙前の枢機卿会議で求められた内容と連続性を持っていた」とされ、今後も毎年、3日ないし4日間の枢機卿会議を開く意向を示された。教皇は7日の挨拶でも、今回の臨時枢機卿会議が「私たちの未来の旅路の前兆」とされ、継続の方針を示しておられた。

 あいさつで教皇は、会議出席者への参加と支援への感謝を表明、特に高齢の枢機卿たちには、出席の労をねぎらう言葉をおくられた。そして、「皆さんの証言は貴重だ」とされると同時に、会議に出席できなかった枢機卿たちにも、「私たちは皆さんと共にあり、皆さんのそばにいます」と言葉をかけられた。

 教皇は、この二日間の会議で体験した「非技術的なシノダリティ(共働性)―深い調和と交わり」について語られ、「これは、各人の背景や経験の多様性を踏まえ、相互理解を深めるために選ばれた方法論によって可能になったもの」とされ、教会の歩みと刷新の礎である第二バチカン公会議に言及し、また、7日の会議初日に教皇ご自身が提案された四つの討議テーマ候補のうち採決されなかった二つ—典礼と『福音宣教』—は、「公会議と密接に関連しており、忘れてはならないこと」と指摘された。

 最後に、教皇と枢機卿団全員の双方から、世界の全体的な状況への注意深い視線が向けられた。それは教会の対応を「一層緊急のもの」であり、戦争と暴力に苦しむ地方教会に寄り添う教会だ。

ベネズエラへの思い

 枢機卿会議で扱われた二つのテーマは、そうした流れの中で、まったく異なる「『福音の喜び』に照らした共働性」と「宣教」だったが、ラテンアメリカ出身の枢機卿たちからは、ベネズエラの状況に対する特別な思いが示された。

 コロンビアのボゴタ大司教であるルイス・ホセ・ルエダ・アパリシオ枢機卿は会議後の記者団への説明で、劇的な出来事の翌日にあたる1月4日の正午の祈りで教皇が語られた言葉を取り上げ、「教皇は、ベネズエラで起きている事態への深い懸念を示され、対話と合意形成の促進に尽力すると約束された。平和を呼びかけ、武装せず武装を解く平和を築くこと。それは人権と主権を尊重しつつ、人々を結びつける平和です」と語った。

 そして、「あの教皇のメッセージが、この数日間の私の考察の基調となりました。今回の枢機卿会議の密会議の公式テーマではなかったが、枢機卿団のメンバーが現状を憂慮し、進むべき方向について自問し、ラテンアメリカの地政学がどう変化しているか、教会がどのように民衆に寄り添えるかについて考えることは、避けられないことでした。ベネズエラ問題は、私たちの心に刻まれ、皆を悲しませている。近い将来の最善の展開を願っています」と説明した。

「旅路の伴侶」として生きる共議制

 その後、三人の枢機卿が記者団に対し、8日の午前から午後にかけて行われた討議と全体的な雰囲気について報告した。討議は、聖歌と祈りの時間もあり、パウロ6世ホールのアトリウムで昼食休憩を挟みながら進められた。教皇が同席し、参加者一人ひとりに自身の在位記念メダルを授与された。

 言語グループごとの分科会での議論は、シノダリティ(共働性)に焦点が当てられ、「旅路の伴侶」として実践する必要性、権威の行使や養成、教皇大使の職務に反映されること、そして「より一層の国際化」をもってバチカンで実践されることなどが話し合われた。また、教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』が再読された。この勧告は、教皇フランシスコが亡くなり、在位が終わったことで「期限切れ」になったわけではなく、今も教区やローマ教皇庁、教皇自身に課題を与え続けている。

 バチカン報道局のマッテオ・ブルーニ局長によると、分科会では20のグループが設けられ、うち11グループは教皇選挙権を持たない枢機卿、9グループは選挙権を持つ枢機卿で構成された。

「教皇はメモを取り、非常に注意深く聞いていた」

 会見の3人の説明者の一人、ブリスリン枢機卿は、この経験を「非常に豊かなものだった。多様な視点が、世界が必要としていることへの理解を深めることを可能にし、互いを知り、理解し合う機会となったからです。6月に次回会合が予定されることになったのは、教皇が、ペトロの後継者としての役割を私たちが助けることを非常に真剣に受け止めておられる証しです」と語った。

 ルエダ枢機卿は「教皇選挙から8か月、教皇は私たち意見を聞くために会議を招集された。これは、教会の使命において私たちを力づけるもの」と述べ、デイビッド枢機卿は”時差ぼけ”や会議の素晴らしい会場について冗談を交えつつ、討議の進め方を称賛し、次に「誰もが発言できた」聖霊による対話を評価。さらに教皇が「話すより多く聴いておられたこと」を高く評価して、「教皇はメモを取られ、非常に注意深く聞いておられました。その意見は私たち我々全員にとって非常に豊かなものでした」と述べた。

互いを知ることの重要性

 ある記者が、「既に2023年、2024年の二度にわたるシノドス(世界代表司教会議)総会で広く議論されたテーマが、今回も討議されたが、今回の枢機卿会議での新たな要素が何でしょうか」と質問したのに対し、ブリスリン枢機卿は「新しさは、議論の中だけに求めるべきではなく、互いを知り、互いの声に耳を傾ける機会そのものにありました。このことは重要です。私たちは世界の様々な地域から集まり、新たに枢機卿となった者もいれば、長年その地位にある者もいるからです」と答えた。

 さらに、「教皇は、共働的な姿勢を示され、耳を傾け、世界各地から集う枢機卿たちの経験と知見を汲み取りたい、と考えておられる。それが教会の導きに役立つからです。枢機卿たちの経歴は異なるが、討議は、画一的ではない調和の中で進められました」とルエダ枢機卿は結論づけた。

信徒と女性の役割

 

  記者団からは、「信徒の参加や教会における女性の役割が議論にどう影響した」とも質問もなされた。

 デイヴィッド枢機卿は「教会における女性の役割と奉仕を認めないわけにはいきません。女性の問題は常に念頭にある」としし、女性助祭職研究委員会の結果を想起させた。また「聖職者主義」に言及し、第二バチカン公会議に由来する「民全体の司祭職」という考え方を改めて提示。「私たちは、教会の”体”について語る。教会の”頭”は存在するが、それだけではありません。”体”も存在する。人々は教会の生活と使命に参加する力を持っているのです」と強調した。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年1月9日

☩「教会に『命』はあるか?神を愛し、福音を述べ伝えているか?大胆に、創造的に『歩むべき道』を拓こう」教皇、臨時枢機卿会議の初日の最後に

Pope Leo XIV speaking at the conclusion of the first session of the extraordinary Consistory in the Vatican's Paul VI Hall Pope Leo XIV speaking at the conclusion of the first session of the extraordinary Consistory in the Vatican’s Paul VI Hall   (@Vatican Media)

 

2026年1月9日

☩「あなたがたは、個人的、集団的な思惑を推し進めるのではなく、聖体の光のもとで識別するよう招かれている」教皇、枢機卿会議のミサで

 

2026年1月9日

☩「人々を惹きつけるのは教会ではなくキリストだ」-教皇、初召集の臨時枢機卿会議でバチカンの優先事項討議を求める

Pope Leo XIV addresses the Opening of the Extraordinary Consistory of Cardinals in the VaticanPope Leo XIV addresses the Opening of the Extraordinary Consistory of Cardinals in the Vatican  (@Vatican Media)
2026年1月8日

◎教皇連続講話「第二バチカン公会議の恵み」①「公会議の教えは今も教会を導く星、諸文書を学び直そう」

 

2026年1月7日

☩「平和の技が戦争の業に取って代わるように!」教皇「主の公現」祭日の正午の祈りで

(2026.1.6 Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

 教皇レオ14世は6日、「主の公現」の祭日の正午の祈りに先立つ説教で、幼子キリストにひれ伏す三賢者を思い巡らせながら、信者たちを「希望を紡ぐ者」となるよう招かれ、「不平等が公平に変わり…戦争の業が平和の技に取って代わられますように」と願われた。

 「三賢者の贈り物には、私たち一人ひとりが分かち合えるもの、もはや自分だけのものとして留めておくのではなく、他者に与えるべきものが示されています。そうすることで、イエスの御存在が私たちの間に広がっていくのです」と語られた教皇は、「三賢者の旅立ちと、幼子イエスへの貴重な贈り物は、私たちが、計り知れない宝であるイエスに、自分自身と持っているものすべてを捧げねばならない、という力強い戒めです」と説かれた。

 そして、「ベツレヘムの幼子の前に三賢者たちのようにひざまずくことは、私たちもそうすることで、『神の栄光が輝き出る真の人間性を見出した』と告白することを意味します。イエスにおいて、真の命が現れます。生ける人間、すなわち自己のために存在されるのではなく、開かれ、交わりの中におられる方。その方が私たちに『天におけるように地の上にも』(マタイ福音書6章10節)と祈ることを教えてくださるのです」と指摘。

  「このように、神の命は私たちの手の届くところにあり、それが明瞭に示されるのは、私たちがその力強い自由の中に招き入れられるためです。その自由は恐怖の束縛を解き放ち、私たちが平和に出会うことを可能にするのです。これは”可能性”であると同時に”招き”でもある。交わりは制限されるものではありません。これ以上に私たちが望むべきものは何でしょうか?」と信者たちに問いかけられた。

 マタイ福音書の記述と、主の降誕の場面に見られる光景を思い浮かべながら、教皇は三賢者が幼子イエスに捧げた貴重な贈り物、すなわち金、乳香、没薬に注意を向けられ、「乳児には役に立たないように思えるかもしれませんが、『大いなる贈り物』とは、自分の持ち物をすべてを与えること、という、聖年が終わろうとする今、深く考えさせられる願いを表しているのです」とされ、別の視点から同じ点を示すため、教皇は「イエスに認められた貧しい未亡人」を取り上げ、「彼女は、神殿の献金箱に、持っていた最後の二枚の銅貨、つまり、”すべて”を捧げたのです」と語られた。

 また、東方から来た三賢者の所有物については何も分からないことを認めつつ、「彼らの旅立ち、危険を冒す覚悟、そして贈り物そのものが、私たち自身と所有する全て、まさに全てを、私たちの計り知れない宝であるイエスに捧げる必要があることを示唆しています」と述べられた。

  続いて教皇は、この日、聖ペトロ大聖堂の聖なる扉を閉じることで閉幕した「希望の聖年」に言及され、「この聖年は、無償の恵みに根ざした正義、すなわち平和的な生活の統合、土地とその資源の再分配、そして『人が持つもの』と『人があるもの』を、私たちのものよりも偉大な神の計画に回復することを求める、本来の聖年の規定を私たちに思い出させてくれました」と語られた。

 そして、「私たちが宣べ伝える希望は、現実に根ざさねばなりません。なぜなら、イエスは天から降りてこられ、この地上で新たな物語を創り出すためであったからです… したがって、三賢者の贈り物を思い起こすにあたって、私たちもまた、キリストの臨在を顕すために、他者と分かち合えるものは何か、を自問する必要があります。そうすることで御国は広がり、御言葉は私たちの中で成就し、見知らぬ者や敵は兄弟姉妹となるのです」と強調。

 「不平等が存在する場所に公平が訪れ、平和の技が戦争の業に取って代わように。『希望を紡ぐ者』としてと結ばれ、『別の道』を通って共に未来へと歩みを進めましょう」と信者たちに呼びかけられた。

宣教児童の日を祝う

 教皇は信者たちに使徒的祝福を授けた後、聖ペトロ広場に集まった全ての人々にあいさつされ、「復活されたキリストの光のもとでの新年への祝福」をなさった。

 また、6日の「主の公現」の祭日が、「宣教児童の日」でもあることを取り上げ、世界中で活動する宣教師のために祈り、恵まれない仲間を助けることに尽力する子供たちと若者たちにあいさつと感謝を述べられた。

 最後に教皇は、ユリウス暦に基づき1月7日にクリスマスを祝う東方教会共同体にも言及され、「主イエスが、東方教会の皆さんに安らぎと平和をお与えくださるように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2026年1月6日

☩「私たちが共に希望の巡礼者であり続けることは、素晴らしい」-教皇、「主の公現」ミサで「聖なる扉」を閉じ、「希望の聖年」を閉幕

(2026.1.6 Vatican News)

 6日の「主の公現」の祭日、教皇レオ14世は聖ペトロ大聖堂で約5800人の信者を前に聖なるミサを司式され、「聖なる扉」を閉じられた。これにより、2025年「希望の聖年」が正式に終了した。

 ミサの冒頭、教皇は聖ペトロ大聖堂の「聖なる扉」を閉じられた。これで聖年のために世界の主要聖堂で開かれてた「聖なる扉」はすべて閉じられた。そして、数えきれないほどの男女、希望の巡礼者たちが聖堂の敷居を越え、教皇が「門が常に開かれている新しいエルサレム」とされた場所へと向かう歩みは、終わりを告げた。

 ミサ中の説教で教皇は、マタイ福音書から採られたこの日の福音を取り上げ、三賢者の喜びとヘロデ王の恐怖に焦点を当て、「聖書が、神の公現に伴う緊張を決して隠さないこと』に注意を向けられ、「聖書は、神の公現について語るとき、喜びと動揺、抵抗と服従、恐怖と憧れという対照的な反応を隠しません。そして、主の公現の祭りは、神の臨在が、現状をそのままに放置しないことを示しています… 今日、主の公現を祝うこの時、私たちは、主の臨在の前では、何も変わらないままではいられないことを自覚します」と語られた。

 教皇は続けて、「この神の公現は、希望の始まりを告げるものでもあります。神の臨在は『太陽の下に新しいものはない』と人々が延々と繰り返すような、憂鬱な自己満足に終止符を打ちます。現在と未来を決定づける新たな何かが始まります。預言の約束-『起きよ、光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に昇った』(イザヤ書60章1節)が成就されるのです」と説かれた。

 だが、「啓示に慣れ親しんだ都エルサレムこそが、三賢者の探求に動揺しています。聖書を知り『答えは全て持っている』と考える人々は、疑問を投げかけ、憧れを育む能力を失っているように見えます… 希望に動かされて訪れる者たちに、この都は動揺し、喜びの源であるべきものに脅威を感じます。このような反応は、教会としての私たちにも問いを投げかけています」と注意された。

 そのうえで、教皇は、この聖年の一年を振り返りつつ、信者たちに、「現代の人々の霊的な探求について考えるように」と求めるとともに、「三賢者たちは、はいったい誰であり、何に駆り立てられたのでしょうか?何を見つけたのでしょうか?心には何があり、どんな疑問や感情を抱いていたのでしょうか? 三賢者と同じように、今もなお多くの人が”旅立つ”ことを強いられています」と語られた。

 そして、「三賢者は今も存在します。彼らは、『旅に伴う危険を受け入れつつ、外に出て探求する必要性を感じる人々』。たとえ世界がしばしば”不快で危険”であっても、そうしようとする人々です」とされ、「福音は、教会に対し、このように探求する人々の動きを恐れるのではなく、評価し、私たちを支える神へと導くように、と呼びかけているのです。神は、金や銀の偶像のように私たちの手にしっかりと留まる方でなく、私たちを不安にさせる方。マリアが腕に抱き、賢者たちが拝んだ幼子のように、生きておられ、命を与える方なのです」と説かれた。

 「ですから、聖地は、命を伝えるものでなければならない。聖年の巡礼地は、命の香りを放ち、新たな世界が始まったという忘れがたい実感をもたらさねばなりません」と強調された。

 そして、信者たちに「私たちの教会には『命』がありますか? 新たなものが生まれる余地がありますか? 私たちを旅へと導く神を愛し、宣べ伝えていますか?」と問いかけられたうえで、「ヘロデ王は権力喪失への恐怖から、神の御業への応答を歪めてしまった。彼は王座が奪われるのを危惧し、自らの支配を超えた、と感じる事柄に動揺しました… 恐怖は、確かに私たちの目を曇らせます」と警告。

 このような恐怖に対して、「福音の喜びは、私たちを解放し、慎重でありながら、大胆で、注意深く、創造的な者とし、これまで歩んできた道とは異なる道を開くのです」と述べられた。

 教皇は説教の締めくくりに、「主の公現の祭の核心には、金で買えず、支配することもできない贈り物が存在します。三賢者が拝む幼子は、計り知れぬ尊き善そのもの。その啓示は、華やかな場所ではなく、ひっそりとした場所でなされます。それでもベツレヘムは『あなたは決して最も小さい者ではない』とされました」とされた。

 そして、「希望の巡礼者となることができるのは、素晴らしいことです。私たちが共に巡礼者であり続けることは、素晴らしいことです」と巡礼者たちを称えられ、「教会が”記念碑”となることに抵抗し、”家”であり続けるなら、教会は『新たな夜明けの世代』となり得ます。常に『明けの明星』のマリアに導かれ、全能者の幻想によってではなく、愛ゆえに肉となった神によって変容された、非凡なる人間性へと向かうのです」と強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年1月6日

☩「主は人となられ、全ての人の不可侵の尊厳を認め、互いの愛をもって自らを捧げることを私たちに求める」ー降誕節第二主日正午の祈りで

(2026.1.4 Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

 教皇レオ14世は4日、降誕節第2主日の正午の祈りに先立つ説教で、信者たちを幼子キリストに近づくよう招くとともに、「真の神への礼拝には人類への配慮が不可欠」と強調された。

 説教で「主の降誕の喜びが、私たち歩みを支え続ける力となることをを願います」と、聖ペトロ広場に集まった人々に改めて主の降誕の祝福をされるとともに、6日の「主の公現の祝日」に聖ペトロ大聖堂の聖なる扉が閉じられることで「希望の聖年」が幕を閉じることを確認された。

 続けて教皇は、「私たちが今も経験している主の降誕の神秘は、私たちの希望の基盤が神の受肉にあることを改めて思い起こさせます」と述べられ、この日のミサで読まれた聖ヨハネの言葉「御言葉は肉となり、私たちのうちに宿られた」(ヨハネ福音書1章14節)を引用する形で、「キリスト教徒の希望は楽観的な予測や人間の計算に基づくのではなく、神が私たちの歩みを共に歩むことを決めたこと、つまり『人生の旅路は、決して独りでたどることがない』という確信に根ざしている」と強調。

 「これが神の働きです。イエスにおいて、神は、私たちの仲間の一人となり、私たちと共に留まることを選ばれ、永遠に『私たちと共にいる神』であることを望まれたのです」と語られた教皇は、さらに、「私たちの希望は、人間の弱さの中に現れたイエスの到来によって、再び燃え上がります」とされた。

 さらに、「それは私たちに神と隣人に対する『二重の責務』を託します… 神が肉となり、私たちの弱さを住まいとされた以上、私たちは抽象的な教義からではなく、イエスの肉体から、神について考える方法を再考するよう求められているのです」と説かれた。

 「だからこそ、私たちの霊性と信仰表現の在り方を絶えず検証し、それらが『真に受肉したもの』だということを確かめねばなりません…これは、イエスにおいて私たちと出会う神を正しく黙想し、宣べ伝え、祈ることを必要とします」と指摘。 「神は、私たちの頭上に存在する『完璧な天界の遠い神』ではありません。むしろ近くにおられ、私たちの脆い地上に住まわれ、兄弟姉妹の顔に現れ、『日常生活の状況の中で自らを現される神』なのです」と強調された。

 また教皇は、「全ての男女に対する私たちの献身もまた、一貫していなければなりません… 神が私たちの仲間の一人となられた以上、全ての人間は、神を映し出し、神の像を帯び、神の光の火花を宿している。そして、これは、あらゆる人の不可侵の尊厳を認め、互いの愛をもって自らを捧げることを、私たちに求める。それは兄弟愛と交わりの促進への具体的な取り組みを必要とし、連帯があらゆる人間関係の基準となることを可能にするのです」と訴えられた。

 そして、「神は肉となられた。ですから、人類への配慮なくして、真の神への礼拝はありえません」と言明された。

 説教の最後に「主の生誕の喜びが、私たちが旅路を歩み続ける励みとなりますように」と祈られ、聖母マリアに、「神と隣人への奉仕に、私たちがますます備えることができるように」と願われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年1月5日

☩「暴力を克服し、国の主権を守り抜くように!」-教皇、米国によるベネズエラ攻撃、大統領逮捕に

Pope Leo XIV appeals for Venezuela on SundayPope Leo XIV appeals for Venezuela on Sunday  (@Vatican Media)
2026年1月4日

☩「光も音楽もないクリスマスを過ごした子供たちの叫びを、主が聞かれ、正義と平和をくださるように」—システィナ礼拝堂合唱団のコンサートで

Sistine Chapel Choir ConcertSistine Chapel Choir Concert  (@Vatican Media)
2026年1月4日

☩「平和の年を築く—今日から始めよう!」-教皇、新年初めの正午の祈りで

(2025.1.1 Vatican News   Kielce Gussie

 教皇レオ14世は1日、新年最初の正午の祈りに続くあいさつで、「心の武装を解き、あらゆる形態の暴力から遠ざかることで、平和の年を築いてください」と訴えられた。 

 あいさつの冒頭で教皇は、1968年に聖パウロ6世教皇の意向で制定された「世界平和の日」が、これまで58年の間、毎年1月1日に祝われてきたことに注意を向け、ご自分が出された世界平和の日メッセージで、教皇に選出された際の第一声、主の言葉にならった「あなたがたに平和があるように!」を思い起こされ、「この平和は、武装せず、武装解除をもたらすものであり、神から来る、無条件の愛の賜物であり、私たちの責任に委ねられています」と語られた。

 そして、「この責任をもって、キリストの恵みにより、今日から、平和の年を築き、私たちの心を武装解除し、あらゆる暴力から遠ざかるように」と世界のすべての人に訴えられた。

 教皇は、世界中で多くの人々や組織が暴力の終結に努め、平和構築のための数えきれないほどの取り組みを進めていることを指摘。特に、12月31日の夜にイタリアのカターニアで行われた全国行進と、サンテギディオ共同体のメンバーによる行進を挙げられた。

 あいさつされ最後に、教皇は米ニュージャージー州リッチランドの生徒と教師たちにあいさつされたが、その中でアッシジの聖フランシスコの没後800年を取り上げ、聖人の祝福の言葉をもって締めくくられた—「主があなたを祝福し、守られますように。主が御顔をあなたに向け、恵みを与えますように。主が御顔をあなたに向け、平安を与えますように」。そして、神の母マリアが「新年の旅路において私たちを導いてくださいますように」とのご自身の願いを添えられた。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2026年1月2日

☩「新たな年の始まりに、平和の場として、祝福の場として、主の降誕の場に近づこう」-元旦、神の母聖マリアの祭日ミサで

(2026.1.1  カトリック・あい)

 2026年1月1日、教皇レオ14世が「神の母聖マリアの祭日」を言わるミサを聖ペトロ大聖堂で捧げられた。バチカン報道局による、ミサ中の説教の全文は以下の通り。

・・・・・・・・・・・

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 本日、神の聖なる母マリアの祭日にあたり、新たな暦年の始まりに、典礼は私たちに美しい祝福の言葉を与えてくれます。「主があなたを祝福し、守られますように。主が御顔をあなたに向け、恵みを与えますように。主が御顔をあなたに向け、平安を与えますように」(民数記 6:24-26)。

 民数記において、この祝福はナジル人の奉献に関する指示に続いて記されており、神とイスラエルの民との関係における捧げ物の聖なる実り豊かな側面を浮き彫りにしています。人間は創造主に受けたすべてのものを捧げ、創造主はそれに応えて、創造の始まりにそうされたように(創世記1章31節参照)、慈愛に満ちた眼差しを彼らに注がれます。

 さらに、この祝福が向けられたイスラエルの民は、解放された民でありました。長い奴隷生活の後、神の介入と、その僕であるモーセの寛大な応答によって、新たに生まれ変わった男女の民であったのです。

 エジプトでは、彼らは一定の安楽を享受していました。食糧も、住居も、ある程度の安定も得られていました。しかし、それは自由を代償として得たものでした。奴隷として、彼らはますます多くを要求しながら、ますます少なく与える専制政治に圧迫されていたのです(出エジプト記5:6-7参照)。

 今や荒野において、かつての安楽の多くは失われました。しかしその代わりに得られたのは自由であり、それは「未来へと開かれた道」として形を成し、知恵の律法の賜物と、束縛や鎖なしに生き成長できる地の約束の中に現れました。要するに、それは「再生」であったのです。

 新年を迎え、典礼は、私たち一人ひとりに、神の豊かな愛と憐れみ、そして私たちの自由な応答によって、毎日が新たな人生の始まりとなり得ることを思い起させます。新たな年をこのように捉えることは、まさに素晴らしいことです。それは発見されるべき「開かれた旅路」なのです。確かに、恵みによって、私たちはこの旅路を確信を持って歩み出せます―自由であり自由をもたらす者として、赦され赦しをもたらす者として、常に私たちに寄り添う主の近さと良き御心に信頼して。

 私たちは、聖母マリアの「神的な母性」という神秘を祝う中で、この真理を思い起こします。彼女の「はい」によって、すべての慈悲と慈愛の源であるイエスの御顔に、人間的な表情が与えられたのです。幼子として、青年として、そして成人として、イエスの目を通して、父なる神の愛は私たちに届き、私たちを変容させてくださいます。

 私たちを待ち受ける新しく唯一無二の日々へと歩み出すにあたり、主が、私たちの周囲に、そして私たち自身の上に、父なる神の温かな抱擁と慈愛に満ちた眼差しの光を、あらゆる瞬間に体験させてくださるよう、お祈りいたしましょう。

 そうすることで、私たちは自らの存在意義と、目指すべき驚くべき運命(第二バチカン公会議の『教会憲章』41項参照)をより深く理解し、常に心に留めることができるでしょう。同時に、祈りと聖なる生活、そして互いに「神の善の鏡」となることによって、神に栄光を帰しましょう。

 聖アウグスティヌスは、マリアにおいて「人の創造主が人となられた」と教えました。

 「星々を支配する方が、女性の乳房で乳を飲むため。パン(ヨハネ福音書6章35節参照)である方が、飢えるため(マタイ福音書4章2節参照)…私たちを解放するため。たとえ私たちが値しない者であっても」(『説教集』191, 1.1)。

 このようにして、アウグスティヌスは神の御顔の根本的な特徴の一つ、すなわち神の愛の完全なる無償性を想起させました。私が1月1日「世界平和の日」のメッセージで強調したように、神は、私たちに「無防備で、人を武装解除させる姿」「揺りかごの中の赤子のように裸で無防備な姿」で、お現れになります。神は、剣を研ぐことによっても、兄弟姉妹を裁き、抑圧し、排除することによっても、世界は救われないことを私たちに教えられるために、そうなさるのです。計算も恐れもなく、すべての人を理解し、赦し、解放し、受け入れるために、たゆまず努力することによって、世界は救われるのです。

 これが、マリアが御自身の胎内で形を成し、成長することを受け入れた神の御顔であり、彼女の生涯を完全に変容させた御顔です。それは、御子を胎内に宿しながら、喜びに満ちながらも繊細な眼差しで輝かせた御顔であり、幼子から少年、青年へと成長するイエスを家庭で日々見つめ続けた美しき御顔であり、十字架と復活に至る使命の道を歩まれる御姿を、謙虚な弟子としての心で追い続けた御顔です。

 そのために、マリアもまた、あらゆる防御を捨て、期待や主張、安楽を放棄しました。母たちが往々にしてそうするように、恵みによって授かった御子に、惜しみなく生涯を捧げたのです。そうして、今度は彼女自身が、御子を世界へと返すためでした。

 かくして聖母マリアの神的な母性において、私たちは二つの計り知れない「無防備な」現実の出会いを見ます。一つは、神性が持つあらゆる特権を捨てて肉体に生まれようとした神の現実(フィリピの信徒への手紙2章6-11節参照)、もう一つは、信頼をもって神の御心を完全に受け入れた一人の人間の現実です。完璧な愛の行為において、彼女は自らの持つ最大の力、すなわち「自由」を神に捧げたのです。

 この神秘を省察し、聖ヨハネ・パウロ二世は、ベツレヘムで羊飼いたちが見出したもの、すなわち「幼子のもつ心を打つような優しさ、その驚くべき貧しさ、そしてマリアとヨセフの謙虚な簡素さ」を黙想するよう、私たちに呼びかけられました。これらの現実は彼らの人生を変え、「救いの使者」としました(2001年1月1日「神の母聖マリアの祭日」ミサ説教)。

 教皇は2000年大聖年の締めくくりに、今日の私たちの考察にも響く言葉でこう語られました。

 「大聖年は、信徒たちにどれほどの賜物、どれほどの非凡な機会をもたらしたことでしょう。赦しを受け、また与える経験の中で、殉教者たちの記憶の中で、世界の貧しい人々の叫びに耳を傾ける中で…私たちもまた、歴史における神の救いの御臨在を垣間見ました。私たちは、いわば、地上の姿を新たにする神の愛を、肉体をもって感じたのです」(同上)。

 そしてこう結ばれています。「キリストは、御自身を拝むために急いだ羊飼いたちに求めたように、御自身との出会いの喜びを与えられた信者たちにも、古くして常に新しい御自身の福音を再び宣べ伝えるための勇気ある準備を求めておられます。キリストは彼らを遣わし、御自身の救いのメッセージをもって私たちの人類の歴史と文化を活気づけられるのです」(同上)。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、この祝日に、新たな年の始まりに、そして希望の聖年の終わりに近づく今、信仰をもって降誕の場面に近づきましょう。そこを「無防備で人を武装解除させる」平和のpar excellence(最も優れたもの)の場として、祝福の場として近づきましょう。主が救いの歴史と私たち自身の人生においてなされた驚異を思い起こす場所として。そして、洞窟の謙虚な証人たちのように、私たちが見聞きしたすべてのことについて「神を崇め、賛美した」(ルカ福音書2章20節)ように、改めて歩み出しましょう。これが、これからの数か月、いや、私たちのキリスト者としての生涯全体における、私たちの誓いと決意でありますように。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2026年1月1日

☩「過去への感謝と赦しを願い、新年の旅路を神の慈悲に委ねよう!」教皇、2025年最後の一般謁見で

(2025.12.31 Vatican News)

 教皇レオ14世は31日、2025年最後の水曜恒例一般謁見での講話で、教皇レオ14世は世界の信者たちに、「過去への感謝を捧げ、赦しを求め、これからの旅路を神の慈悲に委ねるように」と呼びかけられた。

 講話で教皇は、「この数か月は、対照的な意義を持つ出来事によって特徴づけられた月日でした」とされ、まず一つ目に「聖年の機会に多くの信徒が巡礼したような喜びに満ちた出来事の一方で、故フランシスコ教皇の逝去や、地球を揺るがし続ける戦争の光景といった痛ましい出来事があったことです」と指摘。

「喜びと悲しみ-この数か月の対照的な出来事で教会が呼びかけているのは」

 そして、「まさにこのような対照的な出来事で、教会は信者たちに呼びかけていますー『喜びも苦しみも、全てを神に捧げ、これからの日々において、私たち自身と私たちの周囲に、神の恵みと慈悲の驚異を新たにしてください』と祈るように」と求められた。

 このような受け止め方にもとづいて、教皇は31日の夕べに荘厳に歌われる『テ・デウム』の古来の伝統に注意を向けられ、「この流れの中にこそ、今夜、私たちが受けた祝福に対して主に感謝を捧げる『テ・デウム』の荘厳な歌唱の伝統が位置づけられるのです」と説かれた。

 そして、「教皇フランシスコは、この祈りに満ちた感謝の心を、いわゆる世俗的な態度と対比され、『世俗的な感謝と世俗的な希望は明らかですが…それらは自己とその利益に焦点を当てています。この典礼では…全く異なる雰囲気が感じられる。賛美と驚嘆と感謝の雰囲気です』と語られました」と述べられた。

 続けて教皇は、「この感謝の心は、心の真実さも求めます。そうした態度をもって、私たちは、この一年間に主が私たちのために成し遂げてくださったことを振り返るよう招かれているのです…良心を正直に省みること、そして、主の導きを大切にせず、主が託された才能を最善の方法で活かせなかった全てについて赦しを請うように」と信者たちに求められた。

「私たちの人生の旅は、神との完全で永遠の交わりで成就する旅」

 教皇が語られた聖年を特徴づけたものの二つ目は、「旅」だ。

 「今年、世界中から無数の巡礼者が、ペトロの墓で祈り、キリストへの帰依を確かなものとするためにローマを訪れました。巡礼の旅は人間の存在のより深い真実を映し出しています」とされた教皇は、「そして、私たち人生そのものが旅であり、その最終目的地は時空を超越している…それは『神との出会い、そして神との完全かつ永遠の交わりにおいて成就する旅』なのです」と説かれた。

 そして「この希望は、教会が『テ・デウム』で祈る時に声となります—聖徒たちと共に、永遠の栄光へと導きたまえ」と」と語られた。

「聖なる門をくぐって…」

 永遠の光の中で浮かび上がる三つ目は、「聖なる門をくぐること」だ。

 「多くの信者がこの行為を行い、自らと愛する者たちのために祈り、赦しを懇願しました・・・ 敷居を越えることは、神への『イエス』の表明。 神は赦しを通して、私たちを、恵みに満たされ、福音に倣った新たな人生の敷居を越えるよう、招いておられるのです」と教皇は強調。

 教皇パウロ6世の言葉を引用する形で、「このような人生は、『隣人への愛に燃えている』のです。そして、その隣人には、あらゆる人が含まれる。たとえ個人的に知らない人、煩わしく敵対的な人であっても、常に兄弟としての比類なき尊厳を帯びている。これが私たちの『イエス』です」と言明。

 さらに、「これが、今この瞬間に献身的に生き、永遠に向けられた人生への私たちの『はい』なのです」と語られた。

「真の命への旅路で、主は私たちの伴侶となられた」

 これらのしるしを主の降誕の光に照らして考察された教皇は、「聖レオ教皇は、主の降誕を普遍的な喜びの宣言とされ、聖人は喜びなさい。報いが近づいているから。罪人は喜びなさい。赦しが与えられるから、異教徒は勇気を持て。命へと招かれているから、と語られました。 この招きは、今日、私たちすべてに向けられています」と述べられた。

 続けて教皇は、「それは、神が、真の命への旅路で私たちの伴侶となられたからであり、罪人は、赦され、神の恵みによって立ち上がり、再び歩み出せるから、また貧しく弱い者には、主がその弱さを自らのものとし、それを贖われたからです」と説かれた。

「神は愛、慈悲、赦し、救いそして命!」

 最後に教皇は1975年の聖年を回想し、教皇パウロ六世がこの年のメッセージを「愛」の一言で表現されたことを回想されるとともに、主に祈られた。

 「『神は愛です!」とパウロ六世はその謁見で語られました。『神は私を愛しておられます!神は私を待ち、私は神を見つけられた!神は慈悲!神は赦し!神は救い! 神は、そう、神は命です!』と… このような思いが、旧年から新年への移り変わりに、そしてその後も常に、私たちの生活に寄り添いますように」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2025年12月31日

☩「平和のために、戦争で苦しむ家族、最も弱い立場にある人々のために祈り続けよう」-「聖家族の祝日」の正午の祈りで

Pope Leo XIV during the AngelusPope Leo XIV during the Angelus  (@Vatican Media)
(2025.12.28  Vatican News  Isabella H. de Carvalho)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2025年12月29日

☩「私たちも、『光』へ向かうように求められている」最初の殉教者、聖ステファノの祝日の正午の祈りで

教皇レオ14世 2025年12月26日のお告げのいのり教皇レオ14世 2025年12月26日のお告げのいのり  (ANSA)

(2025.12.26  バチカン放送)

 教皇レオ14世は26日、初代教会の助祭、教会の最初の殉教者聖ステファノの祝日に、正午の祈りの集いを持たれ、イエスにおいて啓示された神の愛を反映した、聖ステファノの姿をテーマに説教された。

 教皇の説教の要旨は次のとおり。

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 今日は聖ステファノの「誕生日」です。「人は一度だけ生まれるのではない」と確信していた初期のキリスト教徒たちは、そのように呼んでいました。殉教は、「天国における誕生」です。信仰の眼差しは、実際、死の中に闇だけを見ているわけではありません。

 私たちは自分で決めることなく、この世に生まれてきますが、その後、多くの経験の中で、常により意識的に「光」へ向かうように、「光」を選ぶように、求められていきます。

 使徒言行録は、ステファノが殉教に向かう姿を見た者たちが、彼の顔に輝く光と、その言葉に驚いた様子を語っています。

 「席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた」(使徒言行録6章15節)。それは、無関心に歴史から立ち去ることなく、むしろ愛をもってそれに立ち向かう者の顔です。ステファノの言動のすべては、イエスにおいて啓示された神の愛、私たちの闇に輝いた光を再現するものでした。

 親愛なる皆さん、神の御子が私たちの間にお生まれになったことは、私たちを「神の子」としての生き方へと、招くものです。それは、ベツレヘムの夜から、マリアや、ヨセフ、羊飼いたちのような謙遜な人々が体験した、一種の惹きつけられる動力によって可能となるのです。

 しかし、イエスとイエスのように生きる者たちの素晴らしさは、拒絶を受ける素晴らしさでもあります。まさにその惹きつける力こそが、自分の権力のために恐れを抱く者たち、心にある思いをあらわにする善によって自らの不正を暴かれた者たちの反発を最初から招いたのです( ルカ福音書2章35節参照)。

 それでも、今日まで、神の御業に勝る力など存在しません。世界のどこにでも、犠牲を払ってでも正義を選ぶ人々、自分の恐れよりも平和を優先する人々、自分自身にではなく、貧しい人に奉仕する人々が存在します。そうして希望は芽吹き、いかなる状況であろうと、「祝うこと」の意味が生まれるのです。

 現在の世界が抱える不確実性と苦悩の中で、喜びは不可能に見えるかもしれません。今日、平和を信じ、イエスや殉教者たちの非暴力の道を選んだ人々は、しばしば嘲笑され、公の議論の外に排除され、敵や反対者を助長していると非難されることさえあります。

 しかし、キリスト者に敵はいません。たとえ理解し合えなくても、彼らの兄弟姉妹であり続けます。主の降誕の神秘は、私たちに喜びをもたらします。それは、兄弟愛をすでに生き、自分のまわりの人々、敵の中にさえも、神の子としての消えることのない尊厳をすでに認めている人々の粘り強さから来る喜びです。

 それゆえに、ステファノは、イエスのように、赦しながら亡くなりました。それは武器の力よりも真実な力のためでした。それは、すべての人がすでに心に持っている、無償の力です。誰かが隣人をこれまでと違う目で見つめ、関心と認識を示すようになる時、再び目覚め、抗しがたい形で伝わり始める力です。そう、これこそが「再生」です。それは再び光へと戻ること、これこそが、私たちにとってのクリスマスなのです。

 さあ、マリアに祈り、マリアを観想しましょう。マリアは、命に仕え、横暴には、いたわりを、不信には、信仰をもって立ち向かうすべての女性たちの中で祝福されています。マリアが私たちをその同じ喜びへと導いてくださいますように。その喜びとは、太陽が雪を溶かすように、あらゆる恐れや脅威を溶かす喜びです。

(編集「カトリック・あい」)

2025年12月27日