☩「世界の現状は、死を実態として直視し、復活の証しを立てることを私たちに求めている」教皇、灰の水曜日ミサで

(2026.2.18  Vatican News   Joseph Tulloch)

 教皇レオ14世は18日夜(日本時間19日未明)、ローマのサンタ・サビーナ聖堂で灰の水曜日のミサを司式された。ミサ中の説教で教皇は、悔い改め、共同体、そして死について考察され、参列者が額に受けようとしている灰は、「燃え盛る世界の重さ、戦争によって破壊された都市全体の重さ」を思い起こさせる、と指摘。「この灰の水曜日は、世界の現状は、私たちに「死をその本質として直視し、その刻印を胸の内に抱くことを求めています」と強調された。

The Basilica of Saint Sabina in Rome during the Mass

*公の罪と私的な罪

 灰の水曜日は四旬節の初日であり、四旬節は復活祭前の40日間の断食と祈りの期間を指す。教皇は「これは共同体にとって力を強める時。現代世界では共同体が希薄化していますが、四旬節は、人々を『自らの罪を認める証人の共同体』として集結させます」と語られた。

 そして、「その罪は個人的なものと共同体のもの。罪は私たちの心を苦しめ、私たちの中に存在しますが、同時に、それはより広範な『罪の構造』の中で生じ、その性質は、経済的、文化的、政治的、さらには宗教的なものとなり得ます」とされ、四旬節は、「悔い改めと変化を通じて、全ての罪から自由になる勇気を持つことを意味するのです」と強調された。

*四旬節の「宣教的意義」

 さらに教皇は、「現代の世俗化された時代に、このメッセージは、特に若者にとって魅力的です… 若者たちは、「教会や世界における不正行為には、(その当事者に)説明責任が求められること」を特に明確に理解しています」とされ、したがって、「私たちキリスト教徒は、四旬節を個人的な信仰行為として捉えるのではなく、人生を真に刷新する道を模索する多くの善意の人たちに四旬節を紹介する方法を模索する必要があります」と説かれた。

 

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教皇の説教の全文は以下の通り。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

 四旬節の始まりに際し、私たちは教会であることの恵み、すなわち神の御言葉に耳を傾けるために集う共同体であることを、喜びをもって再発見します。

 預言者ヨエルの声は私たちに語りかけ、一人ひとりを孤立から解き放ち、常に個人的かつ公的なものである回心の緊急性を示します。「民を集め、会衆を聖別し、長老たちを招集せよ。幼子や乳飲み子を集めよ」(ヨエル書2章16節)。彼は最も脆弱で大規模な集会には不向きな者たち、すなわち欠席を容易に正当化できる者たちを挙げます。

 預言者はさらに夫婦に言及します。夫婦の私的な生活の場から呼びかけ、より大きな共同体の一員であることを自覚させるかのようです。次に祭司たちに目を向けます。彼らはすでに、いわば義務として「神殿の入り口と祭壇の間」(同17節)に立っています。祭司たちは涙を流し、すべての人々の代わりに、このふさわしい言葉を述べるよう、招かれています。「主よ、あなたの民を憐れんでください!」 (同)。

 今日においても、四旬節は共同体にとって力強い時であり続けています。「民を集め、よ。会衆を聖別せよ」(同16節)。私たちは、人々を集め、彼らに共同体としての意識を持たせることが、ますます困難になっていることを知っています。それは、国家主義的で攻撃的な意味ではなく、私たち一人ひとりが自分の居場所を見出す交わりの共同体としての意味です。

 確かに、四旬節の間には、自らの罪を認める民が形成されます。これらの罪は、いわゆる「敵から来た悪」ではなく、私たちの心を苦しめ、私たちの内に存在するものです。私たちは勇気をもってその責任を受け入れることで応える必要があります。さらに、この姿勢が反文化的である一方で、特に燃え盛る世界の前に無力感を抱きやすい現代において、真摯で誠実かつ魅力的な選択肢であることを受け入れねばなりません。まさに教会は、自らの罪を認める証人の共同体として存在するのです。

 当然ながら、罪は個人的なものです。しかしそれは、現実と仮想の両方の生活環境において、互いに影響し合う私たちの相互関係の中で、そしてしばしば、現実の経済的・文化的・政治的、さらには宗教的な「罪の構造」の中で形作られます。

 聖書は教えています。生ける神への礼拝をもって偶像崇拝に対抗するとは、自由であることを敢えて選び、出エジプトの旅路を通じて自由を再発見することであると。そこでは、私たちはもはや自らの立場に麻痺したり、硬直したり、安住したりすることなく、共に集い、動き、変化していくのです。悔い改める大人、過ちを認める個人や企業、機関に出会うことが、なんと稀なことでしょうか。

 本日、私たちはまさにこの悔い改めの可能性について省察しています。実際、世俗化された状況においても、多くの若者が、かつて以上に灰の水曜日の招きに心を開いているのは、偶然ではありません。特に若者は、正義にかなった生き方が可能であること、教会や世界における過ちには説明責任が伴うべきであることを明確に理解しております。ゆえに私たちは、身近な人々から始められるところから着手しなければなりません。

 「今こそ、恵みの時、救いの日」(コリントの信徒への手紙二 6章2節)です。ですから、四旬節の宣教的意義を、個人の努力から目をそらすものではなく、神の王国とその正義の文脈の中で、人生を真に刷新する道を模索する多くの善意ある人々へ、この季節を紹介する手段として受け止めましょう。

 「どうしてもろもろの民に『彼らの神はどこにいるのか』と言わせておかれるのですか」(ヨエル書2章17節)。預言者の問いは警告です。それはまた、特に神の民を外から観察する人々を含む、他者が私たちについてどう考えているかを思い起こさせます。四旬節は、私たちの宣教をより信頼できるものとする方向転換—回心—へと私たちを促すのです。

 60年前、第二バチカン公会議閉会から数週間後、聖パウロ六世は、聖ペトロ大聖堂での一般謁見で、灰の儀式を公に執り行うことを決断されました。それは、本日、私たちが執り行うこの行為が、すべての人々の目に触れるようにするためでした。教皇はこれを「厳しく印象的な悔悛の儀式」(パウロ6世、一般謁見、1966年2月23日)と呼び、「常識に反すると同時に、現代文化の要求に応えるもの」と語られました。「現代において、この教授法がなお理解可能かどうか、自問するかもしれません。私たちは肯定的に答えます。なぜならこれは現実的な教授法だからです。これは厳しい真実の喚起であり、私たちの存在と運命を正確に認識させるものだからです。」

 パウロ六世は、この「悔悛の教授法は、現代人を二つの点で驚かせる」と語られました。第一は「人生の実態とその価値について、現代人が持つ驚くべき幻想・自己暗示・体系的な自己欺瞞の能力」です。第二の側面は、パウロ六世が至る所で発見した「根本的な悲観主義」です。彼はこう言われました。「今日、哲学、文学、娯楽が我々に提供する素材の大半は、あらゆるものの避けがたい虚しさ、人生の計り知れない悲しみ、不条理と無の形而上学を宣言することで、結末を迎える。この素材こそが、灰の使用を正当化するのです」。

 今日、私たちは、彼の言葉が予言的であったことを認めざるを得ません。なぜなら、私たちに課せられた灰の中に、「燃え盛る世界の重み、戦争によって破壊された都市全体の姿」を見出すからです。これはまた、国際法と民族間の正義の灰、生態系全体と民族間の調和の灰、批判的思考と古来の地域の知恵の灰、あらゆる被造物に宿る神聖なる感覚の灰にも、反映されています。

 「彼らの神はどこにおられるのか?」と人々は自問します。そうです、親愛なる友よ、歴史は、そして何よりも私たちの良心は、死をその実態として直視し、その痕跡を内に抱えつつ、復活の証しを立てることを私たちに求めています。私たちは回心するために自らの罪を認めます。これ自体が復活のしるしであり証しなのです。

 つまり、私たちは灰の中に留まることなく、立ち上がり再建するということです。そうして四旬節の旅の頂点として祝う復活祭三日祭は、その素晴らしさと意味を解き放つでしょう。悔い改めを通して、死から命へ、無力さから神の可能性へと移り行く過程に参与するなら、それは実現するのです。

 古代から現代に至る殉教者たちは、復活祭へ向かう私たちの旅路において先駆者として輝いています。四旬節の「ステーション」(stationes)という古代ローマの伝統―本日、(四旬節は)最初のステーションから始まります―は示唆に富んでいます。それは巡礼者として移動することと、ローマのバジリカが建つ殉教者たちの「記憶」の場所に立ち止まること(statio)の両方を指しています。これは、今や世界中に存在する信仰の立派な証人たちの足跡をたどるよう招いているのではないでしょうか。

 祝福の道を自ら選び、その道を最後まで歩んだ人々の場所、物語、そして名を思い起こしましょう。彼らの人生は数えきれない種であり、たとえ散らされたように見えても、大地に埋もれ、私たちが収穫するよう招かれている豊かな実りを準備してきたのです。

 四旬節は、福音朗読で見たように、「何としても人に見られたい」という欲求から私たちを解放し(マタイ福音書6章2,5,16節参照)、代わりに、生まれつつあるもの、成長しているものを見ること、そしてそれに仕えることを、教えてくれます。それは、断食し、祈り、愛する者たちの秘められた中で、命の神、私たちの父でありすべての者の父である方と結ばれる深い調和なのです。慎み深く、喜びをもって、私たちの人生と心のすべてを、神に向け直しましょう。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の翻訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

 

2026年2月19日

◎教皇連続講話『第二バチカン公会議を学び直す』⑦「教会は知覚することのできる神秘」

Pope Leo XIV at General AudiencePope Leo XIV at General Audience  (@Vatican Media)

(2026.2.18 Vatican News   Deborah Castellano Lubov ) 

 教皇レオ14世は18日の水曜恒例一般謁見で『第二バチカン公会議を学び直す』をテーマとする連続講話で、第二バチカン公会議の神の啓示に関する教義憲章『Lumen Gentium』についての考察を続けられ、教会が「知覚することのできる神秘」であることを強調された。

 ここ数週間、教皇は「公会議で最も素晴らしく重要な文書の一つ」とされる教義憲章について考察された。これまで「神の啓示」の様々な側面を考察してきたことを振り返られ、特に「神が自らを啓示される方法を示し、御子イエス・キリストを通して全ての人を御自身に結ぶという神の計画の愛に満ちた神秘を明らかにされたこと」を指摘。

 そして、「この神秘の中にこそ、教会の起源と使命の両方を理解することができるのです」と説かれた。

*『教会憲章』と教会の神秘

 

 続けて教皇は、第二バチカン公会議が教会を描写しようとした際、まず第一にその起源を説明することに注力したことに注目され、「そのために、1964年11月21日に承認された教義憲章で、公会議は聖パウロの書簡から『神秘』という用語を引用したのです… この言葉を選んだのは、教会が『何か不明瞭で理解不能なものだ』という意味でも、一般的に『神秘』という言葉を聞いて連想するような意味でもありません。聖パウロがこの言葉を使う時、特にエフェソの信徒への手紙で、彼は『かつて隠されていたが、今や明らかにされた現実』を指し示そうとしているのです」と語られた。

 そして、この言葉が神の計画を指すことを強調され、「神の計画には目的があります。すなわち、イエス・キリストの和解の業によって、すべての被造物を一つにすること。この業はイエスの十字架上の死によって成し遂げられたのです」とされたうえで、「このことはまず第一に、典礼の祝典のために集まった共同体の中で体験されます。そこでは、差異は相対化され、重要なのは共にいること。なぜなら私たちは、人と人、社会集団との間の隔ての壁を打ち壊したキリストの愛に引き寄せられているからです」と説かれた。

*キリストは分裂を克服する

 また、「聖パウロにとって、『神秘』とは、神が全人類のために成し遂げようとしたことの顕現であり、それは地域的な経験の中で知らされ、次第に拡大して全ての人類、さらには宇宙までも包含するものです」と指摘され、「人類の状況は今、分裂状態にある。たとえ心に一致への傾向が宿っていても、人間には修復できない分裂ですが、イエス・キリストの御業は聖霊の力によってこの状況に入り込み、分裂の勢力を打ち破るのです…」と強調。

 「福音の宣教を信じて集い、祝うことは、キリストの十字架が及ぼす引力として経験されます。十字架は神の愛の究極の現れであり、神によって『共に呼ばれている』と感じること。だからこそ、教会は『ecclesia』―共に招かれたことを自覚する人々の集まり―と呼ばれるのです。したがって、この『神秘』と『教会』の間には一定の符合があります。『教会』とは、この『神秘』が知覚可能となった姿です」と語られた。

*しるしであり道具である

 この観点から、教皇は、この救いの計画における教会の役割を、「しるし」であり「道具」となること、とされ、「教会共同体は、キリストが十字架と復活によって確立した一致を現代の世界に可視化するための『しるし」であり、また神が『人々を御自身と結び合わせ、一つに集める』という目的を達成される手段であり、『道具』なのです」と説かれた。

 講話の最後に教皇は、「分裂の痕跡が残るこの世を歩む私たちの教会を、聖化と和解の使命において主が導き続けてくださるよう祈りましょう」と呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2026年2月18日

☩「紛争で苦しむ世界に、生命と健康を増進させ、共通善を深める努力を」教皇、生命科学アカデミー総会参加者に

Pope Leo XIV meets with members of the Pontifical Academy for LifePope Leo XIV meets with members of the Pontifical Academy for Life  (@Vatican Media)

(2026.2.16 Vaticaqn news   Isabella H. de Carvalho)

 教皇レオ14世は16日、教皇庁生命アカデミーの総会参加者に向けて講話をされ、「紛争に苦しむ世界において、私たちは時間と資源を割いて生命と健康を増進するとともに、共通善への理解を深めることで不平等に対処しなければなりません」と説かれた。

 講話で教皇はまず、「今日、私たちは病院を含む民間施設を標的とする戦争にさらされています。これは人間の手による、生命と公衆衛生に対する最も深刻な打撃です」とされ、「紛争に傷つけられた世界で、武器やその他の軍事装備の生産に膨大な経済的・技術的・組織的資源が費やされています。このような状況の中で、生命と健康を守るために時間と人材と専門知識を捧げることが、これまで以上に重要となっています」と強調された。

 教皇庁生命アカデミーの総会は「すべての人々のための医療:持続可能性と公平性」をテーマに、16日から17日にかけてローマで開かれている。教皇はこのテーマに賛意を示され、「生命と健康は万人のために等しく基本的な価値、と言われることが多い。しかし、不平等を決定づける構造的原因や政策を無視するなら、この主張は偽善的です…反対の宣言や声明があるにもかかわらず、すべての命が等しく尊重されているわけではなく、健康もまた、すべての人に対して同じように保護され、促進されているわけではない」と指摘された。

 そして、「健康と生活の質に関して、コミュニティが置かれている状況は、所得、教育、居住地域といった変数に影響を与える社会的・環境的政策がもたらす結果としてある… 世界のそれぞれの国や社会集団における平均寿命と健康の質を比較すると、甚大な不平等が明らかになります」と語られた。

 教皇はこの点において、「すべての人の健康と個人の健康が結びついていることを認識する重要性」を強調され、新型コロナの世界的大感染がこの現実をいかに示したかを指摘されたうえで、「私たちの責任は、疾病の治療や医療への公平なアクセスを確保するための措置を講じるだけでなく、健康が複合的な要因によって影響を受け促進されることを認識し、その複雑性を検証し対処することにあります」と言明。

 これをモザイクに例え、「医学、政治、倫理、経営など様々な分野が一体となって包括的な課題に立ち向かい、解決策を見出すことが必要」とされ、「目先の利益ではなく、すべての人にとって最善となるもの」に焦点を当てるべき、と語られた。

 さらに、教皇は「ワン・ヘルス」という概念の推進の重要性を強調され、「これは、環境的側面と、様々な生命形態と生態学的要因の相互依存性を重視し、それらの均衡ある発展を可能にするもの。『ワンヘルス』は、健康問題に対する世界的・学際的・統合的アプローチの基盤となり得る。それは、人間の生命が他の生き物なしには理解不能、かつ持続不可能であることを、私たちに思い起こさせるものです」と説かれた。

 また、公衆衛生の観点から、「この概念は、あらゆる政策(交通、住宅、農業、雇用、教育など)への健康配慮の統合を求めるものでもあります」とされた。

 続けて教皇は、「したがって、この概念を推進するためには「共通善への理解と促進を強化する必要がある。そうすることで、特定の個人や国家の利益に屈することがなくなります… 共通善は、カトリック教会の社会教説の基本原則の一つであり、人々の間の緊密な関係や社会成員間の絆の育成に根ざしていることを認識しなければ、抽象的で無関係な概念に留まる危険性があります」と注意された。

 そして、「これが効率性、連帯、正義を統合する『民主的な文化』が育まれる基盤です」と指摘され、すべての人々に向かって、「支援と他者への親密さとしてのケアという根本的な姿勢を再発見するように」と呼びかけられ、「それは、誰かが困窮しているから、あるいは病気だから、という理由だけではなく、すべての人間に共通する脆弱性を経験しているからです」と付け加えられた。

 さらに、「この方法によってのみ、資源が限られている世界において、あらゆる医療ニーズを満たし、科学に対する誤った情報や懐疑論にもかかわらず、医療と医療専門家への信頼を回復できる、より効果的で持続可能な医療制度を発展させることができるのです」と強調された。

 そして、この点に関し、紛争を予防し、いかなる主体も「力による思考」で他者を圧倒することがないよう、国際的・多国間関係の強化を改めて呼びかけられ、「この視点は、健康の保護と促進に取り組む超国家的組織による協力と調整にも適用されます」と結論づけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年2月17日

☩「真の正義には大きな愛を持つことが求められる」教皇、四旬節第6主日の正午の祈りで

(2026.2.15   Vatican News)

    教皇レオ14世は四旬節第6主日の15日、正午の祈りに先立つ説教で、この日読まれたマタイ福音書(5章17‐37節)について考察され、「福音書が真の正義のために大きな愛を持つべきことを教えている」と説明されました。

 説教で教皇は「イエスは、私たちを神の国の新たな境地へと招いておられます」とされ、マタイ福音書のこの箇所は「『八津の幸せ』を宣言されたイエスが、モーセの律法の戒めが持つ真の意味を明らかにされた場面を記しています… それは私たちを『神と兄弟姉妹との愛の関係』へと招くもの。イエスは、律法を廃止するために来たのではなく、それを成就するために来た、とおっしゃったのです」と説かれた。 「律法は、まさに愛によって成就されるのです。愛こそが律法の深い意味と究極の目的を完成させるのです」。

 そして、「『義』は、戒律の遵守に限定されるものではなく、私たちを愛へと開き、愛することを迫るもの」と指摘され、「イエスはその後、具体的な事例に関わる律法の戒めをいくつか検証され、形式的な宗教的義と神の国の義との違いを示されます… モーセと預言者たちに与えられた律法が、神と、神が私たちと歴史のために定められた計画を知るための道であることを示しているのです」と強調された。

 「神ご自身が、イエスの御姿をもって私たちの間に来られ、律法を完成させ、私たちを父の子とし、私たちを父との関係、そして互いを兄弟姉妹として結ぶ恵みを与えてくださいました…イエスは、真の義とは愛にこそあり、律法のあらゆる戒めの中に、愛への招きを見出すことを学ばねばならない、と教えておられます」。

 教皇はさらに、イエスが示された例を挙げ、「そこでは、最低限の義では不十分であり、『大きな愛』が必要であることが示されており、それは神の力によって可能となるのです」と強調。最後に、聖母マリアが「私たちのために取り成し、神の御国をより深く理解し、その義への招きを生き抜く助けを与えてくださるように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年2月16日

☩「『隣人を傷つける言葉を控えること』も実践すべき”断食”の形」教皇、四旬節を前にメッセージ

(2026.2.13  Vatican News   Devin Watkins) 

 教皇レオ14世は13日、18日からの四旬節のメッセージを発表され、全ての信者に対して、「傾聴と断食、そして共同体へ心を開くように、憎しみの言葉を控え、希望と平和の言葉のための空間を作るように」と促された。

 メッセージで教皇は「四旬節は私たちキリスト教徒に、神の神秘を再び生活の中心に据える機会を与えてくれます」とされたうえで、「私たちの回心の旅は、神の言葉が心に触れることから始まる。そうすることで、私たちはキリストの救いの受難、死、復活という神秘に従う決意を新たにするのです」と語られた。

 そして、「神の声と周囲の人々の声に耳を傾け、真の関係を築くこと」の重要性に焦点を当てられ、「個人の生活や社会に存在する多くの声の中で、聖書は、苦しみ悩む人々の叫びを認識し、それに応える助けとなります… 貧しい人々が教会だけでなく、私たちの生活や経済システムにも挑戦を突きつけているという自覚を深めることで、神のように傾聴する内面の開放性を育むことができるのです」と説かれた。

 また教皇は、断食が正義への深い渇望を開く助けとなる点に言及。「断食は、身体に関わる行為だからこそ、私たちが何に飢えているのか、何が生計に必要だと考えるのかを、認識しやすくします。さらに、私たちの”食欲”を特定し、秩序づけ、正義への飢えと渇きを生き続けさせる助けとなります… 断食は欲望を浄化し、解放し、拡大することで、それを神と善行に向けさせるよう統制することを教えます」と語られた。

 だが、「断食は、信仰と謙遜と主との交わりの中で行わねばならず、高慢につながる方法であってはなりません。断食以外の自己抑制の仕方も、より節度ある生活様式へと導くことができます」とも述べられ、過小評価されがちな禁欲の形態として「人を傷つける言葉を控えること」を挙げて、「皆さんに、非常に実践的で、しばしば見過ごされがちな断食の形をお勧めします。それは『隣人を傷つけ、傷つける言葉を控えること』です」と語られた。

 そして、「まずは、言葉の”武装”を解きましょう。厳しい言葉や軽率な判断を避け、陰口や、その場におらず反論できない人への悪口を慎むこと。言葉に重みを持たせ、家族や友人、職場、ソーシャルメディア、政治討論、メディア、キリスト教共同体において、親切と敬意を育むよう努めましょう。そうすれば、憎しみの言葉は、『希望と平和の言葉』に道を譲るでしょう」と説かれた。

 教皇はさらに、聴くことと断食の共同体的側面を強調。「これらは、教区、家族、宗教共同体で実践できます… 貧しい人たちの叫びに耳を傾け、キリストへの回心の道に心を向けることで、良心を鍛え、人生と人間関係の質を高めることができる。それは現実によって自らを問い直させ、教会共同体内部においても、人類の正義と和解への渇望に関しても、『真に導くものが何か』を、私たちに認識させることを意味するのです」と強調された。

 メッセージの最後に教皇は、「キリスト教共同体が、苦しむ人々が受け入れられる場所となるように」と促され、「言葉の使い方にも及ぶ(広義の)断食から得られる力を求めましょう。そうすれば傷つける言葉が減り、他者の声のためのより大きな空間が生まれるでしょう」と締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年2月13日

☩「緊張を克服し、結束を再び見出すように」教皇、水曜恒例一般謁見で、欧州の人々に呼びかけ

Pope Leo XIV at General AudiencePope Leo XIV at General Audience  (@Vatican Media)

(2026.2.11   Vatican News)

    教皇レオ14世は11日の水曜恒例一般謁見で、欧州の人々に対して、緊張を克服し、結束を再び見出すように呼びかけられ、病者のために祈り、コロンビアの深刻な洪水被害に苦しむ人々を思い、四旬節の準備について助言された。

 説教で教皇は、一般謁見に参加したポーランドからの巡礼者たちに挨拶され、「スラブ人の使徒であり欧州の守護聖人である聖キリルとメトディウスは、欧州大陸の精神的活力を再生させる助けとなり得ます」と語られ、2月14日に典礼記念日を迎えるこの二人の聖人が「スラヴ諸民族のキリスト教、言語、文化の父」であることを指摘された。

 そして、謁見参加者全員に対して、「聖ヨハネ・パウロ二世教皇が奨励された使徒的活動に立ち返り、宗教的・政治的緊張や分裂、対立を乗り越える、新たな欧州の統一構築に貢献するように」と呼びかけられた。

*『世界病者の日』にあたって祈る

 また教皇は、11日が『世界病者の日』であることから、病者とその家族を聖母の加護に委ねられた。謁見に先立ち、教皇は会場のパウロ6世ホールに入られると、この日がルルドの聖母の祭日であることを祈念してルルドの聖母像の前でロウソクに火を灯され、謁見後に、「世界病者の日に特別な思いで記憶する全ての病者のための祈りの印」として、バチカン庭園内のルルドの洞窟へ赴き、ロウソクに火を灯す、と述べられた。

 スペイン語で語られた教皇は、今年の世界病者の日が特に思い入れのある場所、ペルーのチクラヨの平和の聖母聖堂で祝われていることに注意を向けられ、「私はその場所に霊的に共にいます」と述べ、バチカン人間総合開発省長官のミハエル・チェルニー枢機卿を現地に派遣したことを明かされた。

 教皇はまた、コロンビアで発生した深刻な洪水で、犠牲になった人々や被災した全ての人々をマリアに託し、慈善と祈りを通じて被災家族を支援するよう呼びかけられた。

*四旬節は自らの省み、主の愛に再び目を向ける時

 続けて教皇は、来週18日の「灰の水曜日」から四旬節の始まることを英語で確認され、「四旬節は、主への知識と愛を深め、自らの心と生活を省み、イエスと主の愛に再び目を向ける時。祈りと断食と施しの日々が、キリスト教徒が日々十字架を背負いキリストに従う努力をする上での力の源となることを願います」と信者たちに促して、説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年2月12日

☩「聖母マリアは常に私たちと共におられ、多くのことを教えてくださる」-教皇、『世界病者の日』にルルドの洞窟前で共に祈る

Pope Leo blesses sick people at the Lourdes Grotto in the Vatican GardensPope Leo blesses sick people at the Lourdes Grotto in the Vatican Gardens  (@Vatican Media)

(2026.1.11  Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

    11日の『世界病者の日』、ルルドの聖母の祭日にあたって、教皇レオ14世はバチカン庭園のルルドの洞窟前で病人たちのグループを迎え、聖母が苦しみの意味と愛を教えてくださることを思い起こさせられた。

 教皇は、聖母マリアの前で祈りの時を共にしようと努力して集まった人々に対し、感謝の意を表され、「今日は非常に素晴らしい日です。マリアが傍におられることを思い起こさます。私たちの母であるマリアは常に私たちと共におられ、多くのことを教えてくださいます。苦しみの意味、愛の意味、そして人生を主の手に委ねる意味を、です」と語られた。

 そして、彼らに使徒的祝福をお与えになる前に、「今日、そして常に病める方々、そして彼らを支える医師、看護師、その他全ての人々を主が祝福してくださるように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年2月12日

◎教皇連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」⑥神の言葉は、私たちの意味と真実への渇きに応える

(2026.2.11 Vatican News   Isabella H. de Carvalho)
 Pope Leo XIV during the Wednesday General Audience教皇レオ14世は11日の水曜恒例一般謁見で「第二バチカン公会議を学び直す」をテーマにした連続講話をお続けになり、公会議の教義憲章『Dei Verbum(神の言葉)』に再び焦点を当て、神の言葉と教会との「深く本質的な結びつき」を考察、聖書を黙想することが私たちが神との対話に入る助けとなることを強調された。

 講話で教皇は「神の言葉は、私たちの人生の意味や真実への渇望に応えるものです」とされ、「私たちは無数の言葉に囲まれて生きていますが、その多くは空虚です。時には賢明な言葉に耳を傾けることもありますが、究極的な運命に影響を与えません」と語られた。

 そのうえで、第二バチカン公会議は「教会が主の御体を崇敬するのと同じように、常に聖書を崇敬してきたこと、そして教会が神の言葉の価値について絶えず省察を続けていることを、すべての人に思い起こさせます」と説かれた。

 

 

*聖書、キリスト、教会との関係

 そして、「聖書の価値と力は、それがイエスと密接に結びついていることにあります… そして、私たちは、教会の中に生きることで、この結びつきを体験することができます」とされ、「キリストは父なる神の生きている言葉であり、人の子となった神の言葉… 聖書全体が、キリストという方と、私たち一人ひとり、そして全人類のための救いの臨在を告げ知らせているのです」と強調。

 「それゆえ、聖書の、正当な居場所は教会なのです。なぜなら、聖書は、聖霊の導きのもとで神の民の中から生まれ、神の民のために存在しているからです」と述べられた教皇は、さらに、「キリスト教共同体において、聖書は、いわば”生息地″を持ちます… 教会の生活と信仰の中にこそ、その意味を明らかにし、力を示す場を見出すのです」と語られた。

 この点に関して、教皇は「教会は、神の言葉がすべての成員に届き、信仰の歩みを育むことを切に願っています… 同時に聖書は、教会を自らを超えて前進させ、すべての人への使命へと絶えず開かせます」と述べられた。

*聖書を黙想することは、私たちを神との関係へと導く

 教皇は続けて、「教会共同体において、聖書はその固有の任務を果たし、目的を達成する場を見出します… その目的とは『キリストを知らせる』ことと、『主との対話に入ること』です」とされ、聖ヒエロニムスが「聖書を知らないことは、キリストを知らないこと」語ってることを取り上げ、「神の言葉を読み、瞑想する究極の目的は、キリストを知り、キリストを通して神との関係に入ることであり、それは会話、対話として理解できる関係でです」と説かれた。

 そして、教義憲章が、啓示を「神が友人のように人間に語りかける対話」として提示していることを指摘され、「聖書を祈りの心構えをもって読むときにこそ、その対話が実現するのです」強調された。

*司教、司祭、助祭、カテキスタにとって聖書への愛と親しみは特に重要

 

 講話の最後に教皇は、聖書が「教会に託され、教会によって守られ、解釈される中で、積極的な役割を果たすこと」を改めて強調され、「例えばミサや秘跡の執行を通じて、聖書は、キリスト教共同体を支え、活気づけるのです」と語られた。この点に関して、「司教、司祭、助祭、カテキスタなど『言葉の奉仕を行う者』にとって、聖書への愛と親しみが特に重要であること」を強く説かれ、さらに、「聖書学者や聖書科学に携わる者の仕事には、計り知れない価値があり、聖書は、神学の中心的な位置を占めます。神学は神の言葉にその基礎と魂を見出すのです」と語られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

*講話の全文日本語訳は以下の通り*

 

第二バチカン公会議文書。第一部 教義憲章『神の言葉』(Dei Verbum)5. 教会の生活における神の言葉

 本日の連続講話では、神の言葉と教会との間に存在する深遠かつ生命的な結びつきについて考察します。この絆は、公会議の教義憲章『Dei Verbum(神の言葉)』の第6章において表現されています。教会は聖書の正当な住まいです。聖霊の導きのもと、聖書は神の民の中から生まれ、神の民のために定められています。キリスト教共同体において、聖書はいわばその「生息地」を持つのです。実際、教会の生活と信仰の中にこそ、聖書はその意味を明らかにし、その力を示すことのできる場を見出すのです。

 第二バチカン公会議は、次のように私たちに思い出させています。「教会は、聖なる典礼において、特に神の言葉とキリストの体の両方の食卓から、絶えず命のパンを信徒に授け、捧げているように、主の御体を崇敬するのと同じように、常に聖書を崇敬してきました」。さらに、「教会は、聖なる伝統とともに、聖書を信仰の最高規範として、常に守り続けてまいりました」(Dei Verbum, 21)。

 教会は聖書の価値について、絶えず考察を続けています。公会議後、この点において極めて重要な機会となったのは、2008年10月に開催された「教会の生活と使命における神の言葉」をテーマとする世界代表司教会議(シノドス)通常総会でした。

 教皇ベネディクト16世は、その成果を公会議後勧告『Verbum Domini(神の言葉)(2010年9月30日)にまとめ、次のように断言されています: 「みことばと信仰との本質的な結びつきは、真の聖書解釈学が教会の信仰の内においてのみ可能であることを明らかにしています。その模範はマリアの『はい』にあります…聖書解釈の第一の舞台は教会の生活なのです」(29項)。

 したがって、教会共同体においてこそ、聖書はその固有の使命を果たし、目的を達成する場を見出すのです。すなわち、キリストを知らせ、神との対話を開くことです。まさに「聖書を知らぬ者はキリストを知らぬ」[1]という聖ヒエロニムスの有名な言葉は、聖書を読み瞑想する究極の目的を私たちに思い出させます。

 すなわち、キリストを知り、キリストを通して神との関係に入ることであり、その関係は対話、すなわち会話として理解できるものです。そして教義憲章『Dei Verbum 』は、啓示をまさに「対話」として提示しています。そこでは神が、友人のように人間に語りかけられるのです(参照:DV, 2)。これは、私たちが祈りの心構えをもって聖書を読むときに起こります。その時、神は私たちに近づき、私たちと会話を始められるのです。

 教会に託され、教会によって守られ、解き明かされる聖書は、能動的な役割を果たします。その効力と力によって、キリスト教共同体を支え、活気づけるのです。すべての信徒は、まず何よりも聖体祭儀やその他の秘跡の祝典において、この泉から飲むよう招かれています。

 聖書への愛と親しみが、御言葉の奉仕を担う方々―司教、司祭、助祭、カテキスタ―を導かねばなりません。聖書学者や聖書科学に携わる方々の働きは計り知れず、聖書は神学において中心的な位置を占めます。神学は神の御言葉にその基礎と魂を見出すのです。

 教会は、神の言葉がすべての信徒に届き、信仰の歩みを育むことを切に願っています。しかし神の言葉は、教会を自己を超えて前進させ、すべての人への宣教へと絶えず開かせていくものでもあります。確かに私たちは多くの言葉に囲まれて生きていますが、その多くは空虚なものです。時には賢明な言葉に耳を傾けることもありますが、それらが私たちの究極の運命に影響を与えることは稀です。

 それに対して、神の言葉は、私たちの意味への渇き、私たちの命についての真実への渇きに応えてくださいます。それは常に新しい唯一の言葉です。神の神秘を私たちに啓示し、尽きることなく、その豊かさを絶えず与え続けてくださいます。

 親愛なる友人の皆さん、教会に生きる中で、聖書が完全にイエス・キリストに帰属することを学び、その価値と力の深い理由がそこにあることを体験します。キリストは父なる神の生ける御言葉、人となられた神の御言葉です。すべての聖書は、私たち一人ひとりと全人類のために、キリストの人格と救いの臨在を宣言しています。どうか、教会の母マリア様の模範に従い、この賜物を受け入れるために、私たちの心と精神を開きましょう。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2026年2月11日

・7月26日の『祖父母と高齢者のための世界祈願日』テーマは「私はあなたを決して忘れない」

Pope Leo visiting the elderly in Castel Gandolfo (File photo)
Pope Leo visiting the elderly in Castel Gandolfo (File photo)  (ANSA)

(2026.2.10  バチカン放送)

 7月26日の「祖父母と高齢者のための世界祈願日」のテーマが10日、バチカンいのち・信徒・家庭省から発表された。

 教皇レオ14世がこの日のために選ばれたテーマは、「I will never forget you(私はあなたを決して忘れない」(イザヤ書49章15節)。

 このテーマで教皇は、すべての人に対する神の愛は、老いの弱さの中でも、決して、欠けることがないことを強調され、すべての祖父母と高齢者、特に孤独のうちに暮らしている人や、「自分の存在が忘れ去られている」と感じる人への、慰めと希望のメッセージとなるように願っておられる。

 同時に、このテーマは、家族や教会共同体に対して、お年寄りたちを忘れず、その中に尊い存在と祝福を見出すよう呼びかけるものでもある。

 カトリック教会の「祖父母と高齢者のための世界祈願日」は、教皇フランシスコによって、2021年に創設された。7月の4番目の日曜日に記念されるこの祈願日は、高齢者に教会の寄り添いを伝え、家庭や共同体におけるお年寄りたちの貢献の重要性を認識する機会だ。

 第6回目となる今年度の祈願日は、イエスの祖父母、聖ヨアキムと聖アンナの日、7月26日と重なる。教皇は、すべての教区のカテドラルで、この祈願日が記念されることを願っておられる。

(編集「カトリック・あい」)

2026年2月11日

☩2月11日『第34回世界病者の日』の教皇メッセージ「サマリア人の憐み―他者の苦しみを担うことで愛する」

2026年「第34回世界病者の日」教皇メッセージ サマリア人の憐み―他者の苦しみを担うことで愛する

親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 第34回「世界病者の日」は2026年2月11日にペルーのチクラヨで荘厳に祝われます。私はこの機会に、病者をはじめとした困窮する人々、苦しむ人々に注意を向けるために、よいサマリア人の姿を改めて示すことを望みました。それは、愛の素晴らしさと憐みの社会的次元を再発見することにおいて、常に現代的意味をもち、必要とされるからです。

 私たちは皆、聖ルカによる感動的な箇所を、耳にするか、読んだことがあります(ルカ10・25-37参照)。私たちが愛さねばならない隣人とは誰か、と質問したある律法学者に対して、イエスは一つの物語を語ることによって答えます。エルサレムからエリコに向かって旅をしていた人が追いはぎに襲われ、瀕死の状態にされました。祭司とレビ人は道の向こう側を通って行きましたが、あるサマリア人は彼を哀れに思い、傷に包帯をして、宿屋に連れて行き、治療費を払いました。

 私は、敬愛すべき前任者である教皇フランシスコの回勅『兄弟の皆さん』を解釈の鍵として、この聖書箇所について考察したいと思います。この回勅の中で、困窮する人に対する思いやりと憐みは、単なる個人的な努力にとどまらず、さまざまな関係の中で実現されます。すなわち、困窮する兄弟との関係、彼らを世話する人々との関係、私たちにご自身の愛を与えてくださる神との関係です。

 

1.出会いのたまもの――近しさと寄り添いを与える喜び

 私たちはスピードと即時性と性急さの文化の中に浸されていますが、同時に、使い捨てと無関心の文化の中にも浸されています。そのため、周囲にある必要と苦しみに目を向けるために近づき、途中で立ち止まることができません。このたとえ話は、サマリア人が傷ついた人を見たとき、「道の向こう側を通る」ことなく、その人に対して開かれた注意深い眼差しを、すなわちイエスの眼差しを向けたと語ります。この眼差しが、サマリア人を、人間的な連帯をもって寄り添わせました。サマリア人は「足を止め近づいて、自ら手当てをし、懐を痛めて世話しました。この人は何よりも… 自分の時間を差し出したのです」(1)

 イエスは、隣人とは誰なのかを教えるのではなく、どのように隣人になるのか、すなわち、どのように私たち自身が寄り添うのかを教えます(2)。私たちはこのことに関して、聖アウグスティヌスとともに次のようにいうことができます。主が教えたかったのは、だれがこの人の隣人であるかではなく、人が誰の隣人にならなければならないか、ということでした。実際、進んで人に近づかなければ、誰も隣人にはなれません。だから、憐みを示した人が隣人となったのです(3)

 愛は受け身のものではありません。愛は他者へと向かいます。隣人であることは、身体的・社会的に近づくことによるのではなく、愛する決断によります。ですから、キリスト者は、傷ついた人類に近づいてくださった神なるまことのサマリア人、キリストの模範に従って、苦しむ人々の隣人となるのです。それは単なる博愛的な行為ではなく、他者の苦しみに個人的に与ることは自分自身を与えることだ、ということを、そこから感じ取らせてくれるしるしです。

 それは、私たちの人格がたまものの一部となるために、必要を満たす以上のことをすることです(4)。この愛は、必然的に、愛するためにわたしたちにご自身を与えてくださったキリストとの出会いによって育まれます。聖フランシスコはハンセン病患者との出会いについて語りながら、次のように述べて、このことを極めて素晴らしい形で説明しました。「主ご自身が私を彼らの中に導き給うた」(5)。なぜなら、聖フランシスコは彼らを通して愛することの甘美な喜びを見い出したからです。

 出会いの賜物はイエス・キリストとの絆から生まれます。私たちはこの方を、私たちに永遠の救いをもたらし、私たちが傷ついた兄弟に身をかがめるときに仰ぎ見る、よいサマリア人と考えます。聖アンブロジオは次のように述べます。「それゆえ、私たちの傷を癒してくださった方以上に、私たちの隣人である方はいないのだから、この方を主、また隣人として愛そうではないか。実際、頭よりも体の部分に近いものはない。キリストに倣う者をも愛そうではないか。体の一致のゆえに、他者の苦しみのために苦しむ者をも愛そうではないか」(6)。寄り添われ、共にいていただき、愛を与えられ、分かち与えられることによって、一なる方のうちに一つであることが、聖フランシスコと同じように、キリストと出会う甘美さを味わうことです。

 

2.病める人をケアする共通の使命

 聖ルカは続けて、サマリア人が「憐れんだ」と述べています。「憐れむ」とは、行動を促す深い情動を表します。それは内面から湧き起こり、他者の苦しみに関わらせる感情です。このたとえ話の中で、憐みは行動的な愛の際立った特徴です。それは理論でも感傷でもなく、具体的な行動につながります。サマリア人は近寄り、傷を治療し、傷ついた人を引き受け、ケアします。しかし注意しなければならないのは、サマリア人がこれを一人で個人的にしたのではない、ということです。「サマリア人は、あの男の人の面倒を見てくれる宿屋の主人を求めました。私たちも広く呼びかけて、小さな個の集合よりも強力な『私たち』に巡り合うよう招かれています」(7)

 私自身も、ペルーでの宣教者また司教としての経験の中で、多くの人がサマリア人と宿屋の主人が示したような憐みと思いやりを共有しているのを目の当たりにしました。家族、隣人、医療従事者、医療司牧に携わる人々や他の多くの人々が、立ち止まり、近寄り、ケアし、担い、同伴し、自分が持っているものを与えながら、憐みに社会的な次元を与えます。人間関係のネットワークの中でのこの経験は、単なる個人的な取り組みを超えるものです。

 そのため私は使徒的勧告『私はあなたを愛している―貧しい人々への愛について』(Dilexi te)の中で、病者のケアが教会の使命の「重要な部分」であるだけでなく「教会的な行為」(同49)であることを示しました。私は同書の中で、このような次元が私たちの社会の健全さをどのように証明することができるかを示すために、聖チプリアノの言葉を引用しました。「この疫病は恐ろしくて致命的なものと見えはするが、各々の正義や心を吟味するために、これほど適切で、これほど必要なことがあろうか。健康な者が病気の者を世話したかどうか、近親者がその親族を愛情込めて愛したかどうか。主人たる者が使用人の疲労や衰弱に同情したかどうか、医師は懇願する患者を見捨てたりしなかったかどうか」(8)

 一なるかたのうちに一つであることは、私たちが一つのからだの真の部分であると感じることを意味します。私たちはこのからだの中で、自らの召命に応じて、すべての人の苦しみに対する主の憐みをもたらすのです(9)。さらに、私たちの心を動かす苦しみは、見知らぬ人の苦しみではなく、私たちの同じからだの部分の苦しみです。この体の頭であるかたは、私たちがすべての人の善のためにケアを行うように命じます。この意味で、私たちのケアはキリストの苦しみと一致します。そしてそれは、キリスト教的な精神をもって行われるとき、すべての人が一つになることを願う救い主の祈りの実現を早めます(10)

 

3.自分と兄弟とに出会うために、神への愛につねに突き動かされる

 「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10・27)。私たちはこの二つの掟のうちに、神への愛を第一に優先すべきことと、その帰結としての、あらゆる次元における愛し方、人との関わり方を見い出すことができます。「隣人への愛は、神への愛が真実なものであることの具体的な証拠です。使徒ヨハネが証しする通りです。『いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内に留まってくださり、神の愛が私たちの内で全うされているのです。〔……〕神は愛です。愛に留まる人は、神の内に留まり、神もその人の内に留まってくださいます』(一ヨハネ4・12、16)」(11)

 たとえこの愛の対象が異なり―神、隣人、自分自身―、その意味でそれぞれ別の愛と理解することができるとしても、それらは常に切り離すことができないものです(12)。神への愛を第一に優先すべきことは、人間の行為が、個人的な利益や報酬なしに、儀式の枠に留まることなく真の礼拝となる、愛の現れとして行われねばならないことを意味します。隣人に仕えることは、それによって神を愛することです(13)

 このような次元は、私たちが自分を愛することの意味を理解することをも可能にします。それは、自尊心や自己評価を成功やキャリアや地位や家柄といった固定観念に基づかせようとする思いから離れ(14)、神と兄弟の前での自分の位置を再発見することを意味します。教皇ベネディクト十六世は次のように述べます。「霊的な存在として、人間は人間関係を通して自らを実現していきます。人間がこの関係を真正に生きれば生きるほど、自らの個人としてのアイデンティティは成長していきます。人間が自分の尊厳を確立するのは、孤立によってではなく、他者および神との関係に自分を置くことによってです」(15)

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。「人類の傷をいやす真の薬は、神への愛に根ざした兄弟愛に基づく生き方です」(16)。私たちのキリスト者としての生き方が、このような兄弟愛の次元を欠くことがないよう、私は願います。それは、神との一致とイエス・キリストへの信仰に深く根ざした、「サマリア人の」、すべての人に開かれた、勇気ある、参加的で、連帯的な次元です。私たちは、この神への愛によって燃え立たせられるとき、すべての苦しむ人、とくに病者、高齢者、苦難のうちにある兄弟の善のために真に自分を捧げることができるのです。

 病者の救いである聖なるおとめマリアに私たちの祈りをささげたいと思います。すべての苦しむ人、あわれみと傾聴と慰めを必要とする人のためにマリアの助けを求めます。そして、病気や苦しみのうちにある人々のために家庭の中で唱えられてきた次の古くからの祈りをもって、マリアの執り成しを願います。

 甘美なるみ母よ、私から離れず、御目を私からそらさないでください。
 いつも私と共にいて、私を一人にしないでください。
 あなたは常に私の守り 私の誠の母。
 父と子と聖霊が私を祝福してくださるようにお祈りください。

 すべての病者とそのご家族、介助者、医療従事者、医療司牧に携わる人々、特にこの「世界病者の日」に参加する人々に、心から私の使徒的祝福を送ります。

バチカンにて、2026年1月13日

  1. ^ 教皇フランシスコ回勅『兄弟の皆さん(2020年10月3日)』63(Fratelli tutti)。
  2. ^ 同80-82参照。
  3. ^ 聖アウグスティヌス『説教』(Sermones, 171, 2; 179 A, 7)参照。
  4. ^ 教皇ベネディクト十六世回勅『神は愛(2005年12月25日)』34(Deus charitas est)、教皇聖ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『サルヴィフィチ・ドローリス――苦しみのキリスト教的意味(1984年2月11日)』28(Salvifici doloris)参照。
  5. ^ アッシジの聖フランシスコ『遺言』(Testamentum, 2: Fonti Francescane, 110〔坂口昻吉訳、『中世思想原典集成12 フランシスコ会学派』平凡社、2001年、85頁〕)。
  6. ^ 聖アンブロジオ『ルカ福音書注解』(Expositio Evangelii secundum Lucam, VII, 84)。
  7. ^ 教皇フランシスコ回勅『兄弟の皆さん(2020年10月3日)』78(Fratelli tutti)。
  8. ^ 聖チプリアノ『死を免れないことについて』(De mortalitate, 16〔吉田聖訳、『中世思想原典集成4 初期ラテン教父』平凡社、1999年、294頁〕)。
  9. ^ 教皇聖ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『サルヴィフィチ・ドローリス――苦しみのキリスト教的意味(1984年2月11日)』24(Salvifici doloris)参照。
  10. ^ 同31参照。
  11. ^ 教皇レオ十四世使徒的勧告『わたしはあなたを愛している――貧しい人々への愛について(2025年10月4日)』26(Dilexi te)。
  12. ^ 同参照。
  13. ^ 教皇フランシスコ回勅『兄弟の皆さん(2020年10月3日)』79(Fratelli tutti)参照。
  14. ^ 同101参照。
  15. ^ 教皇ベネディクト十六世回勅『真理に根ざした愛(2009年6月29日)』53(Caritas in veritate)。
  16. ^ 教皇フランシスコ「第33回国際ユースフェスティバル(MLADIFEST)(メジュゴリエ、2022年8月1日-6日)参加者へのメッセージ(2022年7月16日)」。

 

(カトリック中央協議会訳・「カトリック・あい」編集)

教皇レオ十四世
2026年2月9日

☩「スポーツは、人類の善、特に平和の促進に重要な役割を果たせる」教皇、冬季五輪を機会にスポーツの価値についての書簡

 書簡の中で教皇は、特に「スポーツと平和構築」の関係を強調され、「先代の教皇たちも繰り返してきたように、スポーツは人類の善、特に平和の促進に重要な役割を果たすことができる」と明言。

 そして、「古代ギリシャで行われていた『オリンピック休戦』は、オリンピック競技の前と、最中、後に、敵対行為を停止する協定であり、それは選手や観客が自由に移動し、競技が中断なく行われることを目的とするものでした… スポーツがこうした精神と条件の下に実践される時、それは共同体の結束と共通善の成熟を促進することになるのです」と述べられた。

 これに対して、戦争は、「意見の相違のエスカレートによって互いの協力を拒否することから生じ、そうした中で、相手は『共存不可能な敵』と見なされ、孤立させ、排除すべき存在にされてしまいます」と指摘。「この死の文化の悲劇的な証拠として、断ち切られた人生、打ち砕かれた夢、生き残った者のトラウマ、破壊された都市などを、私たちは目のあたりにしていますが、攻撃性、暴力、戦争は、常に『人類の敗北』であることを忘れてはなりません」と説かれた。

 また教皇は、「スポーツの育成的な価値」「人生の学び舎としてのスポーツ」「スポーツと人間の発展」などを取り上げる一方で、スポーツの価値を危険にさらすリスクにも触れてられ、「それは主に、誰の目にも明らかな『腐敗』という形をとって生じます… 多くの社会で、スポーツは、経済や金融と密接に結びついています。スポーツ活動支援のために資金が必要なのはもちろんですが、ビジネスが主な、あるいは唯一の動機になった時に問題が生まれ、金銭と成功への過度な追求が優先される時、スポーツがもっているはずの『調和』が崩れるのです」と警告された。

 さらに、「スポーツは、参加するすべての人々が共有できる価値観を持ち、たとえ困難な状況においても人生を人間味あるものにすることができる活動ですが、金銭への過度なこだわりによって、自分自身だけに単純化した形で関心を向けさせることになってしまいます… 『誰も、二人の主人に仕えることはできない』(マタイ福音書6章24節)とイエスが言われるとおりです」と述べられた。

 続けて教皇は、スポーツ競技が人々の団結を促進する上で果たす重要な役割に言及。「競技においては、それぞれの選手あるいはチームが、相手の選手・チームと共に卓越性を追求し合いますが、相手は『憎悪すべき敵』ではありません。競技の前後には、互いに出会い、知り合う機会を持つもの」とされ、「スポーツ競技は、それが真に公正であるならば、共通の倫理的合意を前提とし、ルールを誠実に受け入れ、競技上の真実を尊重すべきものです」と説かれた。

 教皇は関連して、スポーツにおいて、ドーピングやあらゆる形の不正行為を拒む必要を示しつつ、「真のスポーツとは、限界や規範との冷静な関係を育むもの」と強調された。

 「公正な競争と交流の文化が、選手や、観客、サポーターに与える影響」にも言及され、「自分たちのチームへの帰属意識は、多くのサポーターたちのアイデンティティーにとって大変重要な要素となりうるもの。人々はヒーローたちの喜びや失望を共有しながら、他のサポーターたちとの一体感を見出していきます」とされた。

 だがその一方で、「問題が生じるのは、それが言葉や身体的な暴力につながるような分極化の形を帯びる時であり、その時、応援や参加の表現であった熱狂は、狂信に変貌し、競技場は出会いの場ではなく、衝突の場となる可能性があります」と注意。「こうした状況の中では、スポーツは人々を一致させるのではなく、過激化させ、教育ではなく、非教育をもたらすことになります。それは個人のアイデンティティーを盲目的で対立的な帰属意識へと矮小化してしまうためです」とされた。

 そして、特に応援が「政治的、社会的、宗教的な差別と結びつき、より深い怨恨や憎悪を間接的に表現するために利用されること」に危惧を示された。

 このような注意を関係する人々に与えられてうえで、教皇は書簡の最後に、「国際的な競技大会は、多様性に満ちた共通の人間性を体験する絶好の機会です。オリンピックの開会式や閉会式で、選手たちがそれぞれの国の国旗を掲げ、民族衣装を身にまとって行進する姿は、見る者に深い感動を与えます」とされ、「こうした体験は、私たちが一つの人類家族を形作るように求められていることを思い出させてくれます」と述べ、誠実さ、分かち合い、受容、対話、他者への信頼など、スポーツが推進する価値観を「民族、文化、宗教的信条に関わらず、すべての人に共通するもの」と強調された。

(編集「カトリック・あい」)

 

2026年2月9日

☩教皇、ナイジェリアでの武装集団による大殺戮を非難、市民の安全確保を強く求める

 The body of a victim lies on a wooden stretcher following the attack in Woro, Kwara State, on February 5.The body of a victim lies on a wooden stretcher following the attack in Woro, Kwara State, on February 5.  (AFP or licensors)

(2026.2.8  Vatican News   Olivier Bonnel and Valerio Palombaro)

     教皇レオ14世は8日の正午の祈りに続けて、ナイジェリアで数十人の命を奪った一連の致命的な襲撃を取り上げ、悲しみと懸念を表明。信者たちに犠牲者と家族のために祈るよう求められるとともに、同国の治安当局に「全ての市民の安全と生命の確保に断固として取り組み続けること」を求められた。

 2月3日夜、同国中西部のウォロ村で少なくとも160人が殺害されているが、さらに、カドゥナ州の4つの村で過去3日間に発生した襲撃では、少なくとも51人が拉致され、6人が殺害された。AFP通信が引用したナイジェリア治安当局の情報によれば、襲撃はカドゥナ州南部、キリスト教徒が多数を占める地域で発生した。同地域では1月に180人以上が拉致されたが、ここ数日で解放されていた。

 武装集団がカジュル地方政府管轄区域で、司祭を含む11人を拉致し、さらに3人を殺害した。カファンチャン大司教区は、カジュル地区カルクにある聖三位一体教会の主任司祭ナサニエル・アスウェイ神父が拉致された事実を確認した。大司教区の声明によれば、襲撃は土曜未明3時頃に司祭宅で発生し、3名の死亡者も出た。目撃者はこれを「テロリスト集団による襲撃」と表現している。

 ボコ・ハラムなどのジハード主義組織による襲撃から武装集団による襲撃まで、暴力の急増を受けて、連邦政府はボラ・ティヌブ大統領の命令によりカイアマ地区に陸軍大隊を派遣した。

 教皇は、この正午の祈りで、ナイジェリアに加え、人身売買の被害者、そしてスペイン、モロッコ、ポルトガル、シチリアで洪水や土砂崩れの影響を受けた人々のためにも祈りを捧げた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年2月8日

☩「神は決して、私たちをお見捨てにならない」教皇、年間第五主日の正午の祈りで

Pope Leo at Sunday's AngelusPope Leo at Sunday’s Angelus  (@Vatican Media)

(2026.2.8 Vatican News  Kielce Gussie)

    教皇レオ14世は年間第五主日の8日、正午の祈りに先立つ説教で、前の主日で読まれた「八つの幸せ」に続くイエスの言葉について考察。

 「イエスとの出会いが、私たちの日常生活に真の喜び、味わい、光をもたらす」とされ、「たとえ落ち込んでいる時でさえ、父なる神は、私たちの名前と唯一無二の存在を大切にされているのです」と強調された。

 説教で教皇は、「真の喜びが、人生の暗い部分に味わいと光を与えます… この喜びは、望み、選び取らねばならない生き方、すなわち地に住み、共に生きる方法から湧き出るものです」と指摘。

 そして、「この新たな生き方は、イエスとその言葉と行いの中に輝いています… 謙虚で、柔和で、心清く、正義を渇望するイエスに出会った人は、味気なく退屈な生活には戻れません。この出会いによって、変革と和解の力としての慈悲と平和が解き放たれるのです」と説かれた。

 続けて教皇は、預言者イザヤの書の朗読箇所を引用する形で、不正を克服する具体的な方法を列挙され、「飢えた人とパンを分かち合い、貧しい者と宿のない人をわが家に迎え入れ、裸の人に衣を着せ、隣人やわが家の人を見捨てないことです… これらの行いを成し遂げた時、預言者はこう告げます。『そうすれば、あなたの光は夜明けのように輝き、あなたの癒しは速やかに現れる』(58章8節)と」。

 そのうえで、この言葉の二面的な深みを指摘され、「一方では、太陽のように闇を追い払う隠すことのできない光があり、他方では、かつて燃えさかっていた傷が癒やされつつあるのです」と述べられた。

 さらに教皇は、「味わいを失い、喜びを放棄することは、痛ましいことですが、心にこのような傷を負うことはあり得ます」とされる一方、「福音書の箇所では、イエスは聴衆に対し、諦めないよう警告されているように見えます。『味わいを失った塩は、もはや何の役にも立たず、捨てられて人の足で踏みにじられる』と語られます。そして、多くの人々、おそらく私たち自身も、『自分には価値がない』、あるいは『壊れている』と感じているでしょう。まるで自らの光が隠されてしまったかのようです」と語られた。

 「しかし」と教皇は続けられた。「イエスは希望の宣言をなさいます。神は決して私たちを捨てたりはなさらない。神は、私たちの名前をご存じで、一人ひとりの独自性を大切にされているのです。どんなに深い傷を負っていても、主の祝福の言葉を受け入れ、福音の道へと立ち返ることで癒されるのです」と強調された。

 そして、「他者への開かれた姿勢と配慮という具体的な行動が、人生における喜びを再び燃え上がらせる助けとなります。しかし、そうした行為の単純さゆえに、私たちは世の中と対立する立場に立たされることもあるでしょう」とされたうえで、「イエスは、荒野で誘惑に遭われ、異なる道を選び、ご自身の正体を明かすよう迫られましたが、『真の味を失う道』を拒まれた。その真の味とは、毎週日曜日に裂かれるパンの中に私たちが発見するものであり、それは捧げられた命であり、静かな愛なのです」と説かれた。

 最後に、教皇は「イエスとの交わりによって養われ、照らされるように」と信者たちに勧められ、「そうすれば、私たちは、丘の上に築かれた町のように、単に目に見えるだけでなく、他者を招き入れ、歓迎する存在となるでしょう。その町は『神の都』であり、誰もが心の奥底で、そこに住み、平安を見出したい、と願う場所なのです」と語られた。

 そして、聖ペトロ広場に集うすべての人々に、天の門であるマリアに祈りを託し、「御子の弟子となり、そのままでいられるよう助けていただくことを強く願われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2026年2月8日

☩「人身売買は人類に対する重大な犯罪、終結させる決意を」教皇、8日の「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」を前に呼びかけ

File photo of Pope Leo XIVFile photo of Pope Leo XIV  (@Vatican Media)

Pope Leo XIV releases a message to mark the 12th World Day against Human Trafficking, and pledges the Catholic Church’s commitment to confront and bring an end to this “grave crime against humanity.”

(2026.2.6 Vatican News   Devin Watkins)

 2月8日のカトリック教会の「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」を前に、教皇レオ14世は6日、メッセージを発表、この「人類に対する重大な犯罪」に立ち向かい、終結させる決意を表明された。

 「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」は女子修道会の国際総長会議(UISG)が、聖バキータの祝日である2月8日と定めたのが始まり。人身取引についてよく知り、人身取引をなくすために、また被害者たちのために祈るのが狙いで、今回で12目を迎える。

 メッセージで、教皇は、「現代の奴隷制」が招いている惨状を非難、オンライン社会においてさらに不気味な形態を呈していることを指摘したうえで、「この重大な人類に対する犯罪に立ち向かい、終結させるための緊急の呼びかけ」をされた。

 そして、復活されたキリストの「平和があるように」という呼びかけを取り上げ、「この言葉は、新たな人類への道を示しています… 真の平和は、あらゆる人の神から与えられた尊厳を認め保護することから始まります」とされた。

 そのうえで、「しかし、暴力が増大するこの時代において、多くの人々は、自らの支配を確立する条件として、武器による平和を求める誘惑に駆られている… 人間は戦争において、政治的・経済的利益のために犠牲にされる単なる巻き添え被害者と見なされることが多くなっています… そして、同じ人命軽視の風潮が、人身売買を助長している… 武力紛争や地政学的な不安定が、避難中の人々を搾取する機会を人身売買業者に与えるからです」と指摘。

 教皇は、「この壊れたパラダイムの中で、女性と子どもが忌まわしい取引によって最も深刻な影響を受けています」とされ、さらに現在顕著になっている「サイバー奴隷制」の増加に言及。「これは人々が、オンライン詐欺や麻薬密輸、詐欺などの犯罪活動に誘い込まれる現象の一環。被害者は、加害者の役割を強制され、精神的な傷をさらに深めることになっています。こうした暴力は、個別に起きている事件ではなく、『キリストの愛を忘れた文化』がもたらす症状なのです」と語られた。

 そして、こうした苦痛と社会的課題に対して、「キリスト教徒は、『祈り』と『自覚』に向かわねばなりません。『祈り』は不正と無関心に抵抗する力を与える『小さな炎』であり、『自覚』は地域社会やデジタル空間における搾取システムを特定し、克服する助けとなります」と述べ、信者たちに『祈り』と『自覚』を促され、「人身取引の暴力は、あらゆる個人を神の愛する子として見る、新たな視点によってのみ克服することができるのです」と強調された。

 メッセージの最後に教皇は、人身売買の被害者を支援する、自身も被害者である人も含む多くの人々やネットワークに感謝の意を表された。そして8日の「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」を聖バキータの取り次ぎに委ね、「聖バキータの生涯は、最後まで彼女を愛した主への希望の力強い証し」とされたうえで、「平和は、単に戦争の不在ではなく、『武装せず、武装解除する』もの。すべての人の尊厳を完全に尊重することに根ざした世界に向かう旅へ参加しよう」と世界の信者たちに呼びかけられた。

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バチカン発表のメッセージ全文の「カトリック・あい」日本語訳は以下の通り。

教皇レオ14世のメッセージ  第12回「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」に当たって

 

尊厳から始まる平和:人身取引撲滅への世界的な呼びかけ

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 第12回「世界人身取引に反対する祈りと啓発の日」に当たって、この重大な人道に対する犯罪に立ち向かい、終結させるよう、教会が緊急に呼びかけていることを改めて強く表明いたします。

 特に本年は、復活された主の挨拶「平安あれ」(ヨハネ福音書20章19節)を取り上げたいと思います。この言葉は単なる挨拶ではなく、新たな人類への道を示しています。真の平和は、すべての人に神から与えられた尊厳を認め、守ることに始まります。しかし、暴力が増大するこの時代において、多くの人々は「自らの支配を確立するための条件として武器によって」平和を求める誘惑に駆られています(聖座駐在外交団への演説、2026年1月9日)。さらに、紛争状況においては、人命の喪失が戦争推進者たちによって「付随的損害」として軽視され、政治的・経済的利益追求の犠牲となることがあまりにも頻繁に起こっています。

 悲しいことに、この支配欲と人命軽視の論理は、人身取引という惨劇をも助長しています。地政学的不安定と武力紛争は、人身取引業者が最も脆弱な立場にある人々、特に避難民、移民、難民を搾取するための肥沃な土壌を生み出しています。この壊れたパラダイムの中で、女性と子どもたちはこの凶悪な取引によって最も深刻な影響を受けています。さらに、富裕層と貧困層の格差の拡大は多くの人々を不安定な状況に追い込み、勧誘者の欺瞞的な約束に弱くさせます。

 この現象は、いわゆる「サイバー奴隷制」の台頭において特に憂慮すべきものです。これは、個人がオンライン詐欺や麻薬密輸などの詐欺的計画や犯罪活動に誘い込まれるものです。このような場合、被害者は加害者の役割を強要され、精神的傷がさらに深まります。こうした暴力は孤立した事件ではなく、キリストの愛を忘れた文化の症状なのです。

 こうした深刻な課題に直面する中、私たちは祈りと認識に向かいます。祈りは嵐の中で守らねばならない「小さな炎」であり、不正義への無関心に抵抗する力を与えてくれます。認識は、私たちの地域社会やデジタル空間に潜む搾取の仕組みを見抜く力を与えます。結局のところ、人身取引の暴力は、あらゆる個人を神様の愛する子として見つめる新たな視点によってのみ克服できるのです。

 国際的なネットワークや組織を含め、人身取引の被害者に手を差し伸べるキリストの手として奉仕してくださる全ての方々に、心より感謝申し上げます。また、他の被害者を支援する擁護者となられた生存者の皆様にも敬意を表します。彼らの勇気、忠実さ、そしてたゆまぬ献身に、主の祝福がありますように。

 このような思いをもって、本日を記念される皆様を、聖ヨゼフィーヌ・バキタの取り次ぎに託します。彼女の生涯は、最後まで彼女を愛された主(参照:ヨハネ13:1)への希望の力強い証しです。平和が単に戦争の不在ではなく、「武装せず、武装解除する」ものであり、すべての人々の尊厳への完全な尊重に根ざした世界へ向けた歩みを、私たち皆で共に歩みましょう。

 バチカンより 2026年1月29日 レオ14世

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2026年2月7日

☩「世界の子供たちを危険から守る取り組みは依然として進んでいない」-教皇、『子供の権利に関する国際サミット』の参加者たちと会見

Pope Leo XIV meets with the organizing committee of the initaitive "From Crisis to Care: Catholic Action for Children" Pope Leo XIV meets with the organizing committee of the initaitive “From Crisis to Care: Catholic Action for Children”   (@Vatican Media)

(2026.2.5  Vatican News)

2026年2月6日