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☩「イエスは、戦争を仕掛ける者の祈りに耳を傾けない!」ー教皇、受難の主日(枝の主日)のミサで
(2026.3.29 Vatican News Devin Watkins )
教皇レオ14世は29日、聖ペトロ広場で、受難の主日(枝の主日)のミサを捧げられ、説教で「戦争を拒み、戦争を仕掛ける者の祈りに耳を傾けない、平和の王」としてのイエスについて語られた。
イエスが「ご自分に暴力が迫る中でも、自らを『平和の王』として示されたこと」を強調された教皇は、「イエスが十字架の道を歩まれたように、私たちもイエスと共に歩み、人類のために愛の賜物として背負われたイエスの受難」を黙想するよう信者たちに求められ、「他者が暴力を煽る中でも、イエスは柔和さを貫き通されます…他者が剣や棍棒を振りかざす中でも、イエスは人類を抱きしめるためにご自身を捧げられるのです」と語られた。
そして、闇と死が自らを飲み込もうとしていたまさにその時、「イエスは、世界に命と光をもたらすために来られました。イエスは世界を父の御腕へと導き、私たちを神や隣人から隔てるあらゆる障壁を取り払おうと望まれていたのです」と指摘された。
また教皇は「平和の王」という言葉を幾度も繰り返されながら、「平和をもたらそうとするご自分の願いを証しする、受難におけるイエスの行い」を強調。ある弟子が大祭司の僕を打ち、その耳を切り落とした時、イエスは「剣で生きる者は剣で死ぬ」と述べ、その弟子に剣を収めるよう命じられた。
「十字架にかけられ、死に至ろうとした時でさえも、イエスは自ら武器を持ったり、身を守ったりすることはなく、屠殺場へ連れて行かれる小羊のように身を委ねられます。イエスは、常に暴力を拒む神の優しい御顔を現された。自らを救うことよりも、十字架に釘付けにされることを受け入れ、人類の歴史を通じてあらゆる時代、あらゆる場所で背負われてきたすべての十字架を受け入れられたのです」と語られた。
教皇はさらに、預言者イザヤの言葉を引用する形で「あなたがたがいくら祈りを捧げても、私は聞き入れない。あなたがたの手は血にまみれているからだ」(イザヤ書1章15節)と述べられ、「イエスは平和の王であり、戦争を拒絶する方。誰もイエスを戦争を正当化するために利用することはできません… イエスは戦争を仕掛ける者たちの祈りに耳を傾けることはなく、それらを拒絶するのです」と言明。
そして、教皇は、今日の世界における人類の家族の多くの傷を嘆かれ、「暴力に抑圧され、戦争の犠牲となっているすべての人々が、痛ましい呻きをもって、神に叫び求めているのです」とされ、「平和の王であるキリストは、十字架の上から再び叫ばれます―『神は愛である!憐れみよ!武器を捨てよ!あなたがたは兄弟姉妹であることを思い出せ!』と」と語られた。
説教の最後に教皇は、御子の十字架の足元に立たれた聖母マリアに注意を向けられ、神の僕トニーノ・ベッロ司教の言葉を引用して、次のように祈られた。
「聖母マリアよ、どうか私たちに確信を与えてください。いかなることがあっても、もはや死は私たちを支配しないこと、人々の受ける不正には終わりが来ること、戦争の閃光は黄昏へと消え去ること、貧しい人々の苦しみは息絶えようとしていることを。そして、暴力と苦痛のすべての犠牲者の涙が、春の太陽の下で霜が溶けるように、まもなく乾くとの確信を、お与えください」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
◎教皇連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」⑪「教会の位階的構成は、福音を宣べ伝えるためにキリストから生まれた」
(2026.3.25 By Devin Watkins)
教皇レオ14世は25日の水曜恒例一般謁見での連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」で、引き続き、教会憲章『Lumen gentium』を取り上げられ、今回は第3章に書かれた、「福音を宣べ伝える」という教会の使命における教会の位階的構成の本質について考察された。
この日の連続講話で、教皇は、教会憲章が第3章「教会の位階的構成、特に司祭職について」で、教会の階層的形態に言及する前に、まず教会を「神の民」としての本質として捉えていたことを指摘。「教会の位階制は「神の民に次ぐ要素」ではなく、「教会の誕生に付随する根本的な側面です」と述べられた。
そして、「イエスの最初の弟子たち―使徒たち―は、キリストの過越の神秘によって贖われた人々の共同体を形成し、それゆえに(教会は)キリストによって『世界のための救いの手段』として確立されたのです」とされ、「第二バチカン公会議は、位階的構成が、社会的な組織として教会の内部運営に機能する人間による構築物ではなく、世の終わりまでキリストが使徒たちに与えた使命を永続させることを目的とする神の制定だ、と教えているのです」と語られた。
さらに、カトリック教会が「すべての構成員の統一、宣教、聖化に奉仕する位階的構成」を有していることを指摘。「使徒たちは、主の救いの教えを忠実に守り続けるよう召されています… それゆえ、彼らは自らの務めを、キリストの再臨に至るまで、司牧職の後継者たちを通じて教会を聖化し、導き、教え続ける人々に引き継ぐのです」と強調された。
また、第二バチカン公会議は、「単に教会の外形的形態を示すだけでなく、その根本的な構造を説明しようとした」とされ、「教会憲章は、奉仕的あるいは位階的な司祭職に焦点を当てており、これは信徒の”一般的な司祭職”とは、本質的にも程度においても異なるもの… 洗礼を受けたすべてのキリスト教徒はキリストの唯一の司祭職に参与していますが、奉仕的司祭職を委ねられた者たちは、教会の奉仕のために『sacra potestas(神聖な権能)」を授けられている。司教、司祭、助祭はそれぞれ、すべての人が救いに至るよう、独自の方法で神の民に仕えるための任務―ラテン語でmunera―を担っているのです」と説かれた。
教皇は、「教会の位階制は、奉仕という使徒的使命の内的現実であると同時に、その外的表現でもあります。(そのように受け止めることで)私たちは、なぜ聖パウロ6世が、位階制を『キリストの愛から生まれ、キリストが御自身の教会に遺された信仰の富、模範、戒律、そしてカリスマを全うし、広め、その完全かつ実りある伝承を保証するために存在する』現実として提示されたのか、を理解できるのです」と講話を締めくくられた。
そして最後に、「福音的な愛に満ち、世界のあらゆる場所で勇敢な宣教師となることを望む奉仕者たちが、主によって教会に遣わされますように」と祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「戦争の狂気の中にあって、私たちはあらゆる段階の生命を守らねばならない」教皇、水曜恒例の一般謁見で

教皇レオ14世は25日、神のお告げの祝日と重なるポーランドの「生命の尊厳の日」に際し、戦争の狂気が蔓延する今の時代にあって、受胎から自然な死に至るまで生命を守ることを強調された。
25日の水曜恒例一般謁見で、ポーランド語を話す信者たちへの挨拶の中で「生命の尊厳の日」に言及し、 「戦争の狂気が蔓延するこの時代において、受胎から自然な死に至るまで生命を守ることが重要です」と述べられた。ポーランドでは、毎年3月25日に「生命の尊厳の日」が祝われる。教会の「神のお告げの祝日」と重なるように、2004年に制定された。
また教皇は、フランス語を話す信徒への言葉の中で、教皇は教会の司牧者に対し、「熱意をもって福音を宣べ伝え、キリスト者が平和な世界を築くことに積極的に取り組めるよう助けてほしい」と呼びかけた。そして、この呼びかけをすべての信徒に広げ、アラビア語を話す信徒に対し、「すべてのキリスト者は、愛に満ちた弟子であり、世界中に福音を宣べ伝える勇気ある使者となるよう招かれています」と述べられた。
最後に、教皇は、今日の神のお告げの祝日を念頭に置き、「この日が、すべての人にとって、聖母マリアの模範に従い、常に神の御心を行う準備が整っているようにするための招きとなりますように」と祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「祈りと沈黙の中で神との絆を築くことで『召命という賜物』を生きる可能性が開かれる」‐4月26日「世界召命祈願日」へ教皇メッセージ
(2026.3.25 バチカン放送)
4月26日のカトリック教会「世界召命祈願日」に向けて、教皇レオ14世が25日、「神の賜物の内的な発見」をテーマにメッセージを発表された。この日は、神が一人ひとりを招いておられる「召命」について考え、特に司祭、修道者への招きに一人でも多くの人が応えることができるように祈願する日だ。
メッセージの中で教皇は、「善き牧者の日」とも呼ばれる復活節第4主日に記念されるこの召命祈願日に、「『一人ひとりの心の奥深くで花開く、神からの無償の賜物の内的発見』としての召命について共に考えるよう招いておられる。
*素晴らしさへの道
教皇は「善き羊飼い」イエスを見つめることで、「イエスに従う人生の本当の素晴らしさに気づくことができます」とされ、「イエスの弟子になることで、イエスの美しさによって私たちが変容され、私たちの人生そのものが、素晴らしいものとなります」と述べられた。
そして、「キリストの命に与り、キリストの使命を分かち合い、キリストご自身の素晴らしさで輝くこと」を、キリスト者の深い召命として示され、聖アウグスティヌスが自身の魂の最も奥深い部分に神の存在を見出し、それをイエスとの絆を育てるための場所としたこと、神の美しさと善を体験するために、自分の内面を大切にすることの重要性を理解・実践していたことに、触れられた。
さらに、「神との絆を祈りと沈黙の中で築く」ことで、「召命という賜物を受け入れて生きる可能性が開かれる。召命は押し付けられたり、ただ従うだけの既成の筋書きではなく、愛と幸福の計画です」とされ、「内面性への配慮。召命司牧と福音宣教において、ここから常に再出発することが必要であり、私たちの環境が、生きた信仰、絶え間ない祈り、兄弟愛に満ちた寄り添いによって輝いてこそ、神の呼びかけは花開き、熟し、各自と世界にとって幸福と救いの道となるのです」と説かれている。
*神を知り、自らの召命を知る
また教皇は、「あらゆる召命は、愛である神への認識と体験からのみ始まります」とされ、「私たちを深くご存じであり、頭の毛までも数えておられる神(マタイ福音書10章30節)は、私たちのために、各自に特有の聖性と奉仕の道を考えてくださいました。しかし、その一方で、神が私たちをご存じのように、私たちも、神を知る必要があります。祈りや、御言葉に耳を傾けること、秘跡、教会生活、兄弟姉妹へたちへの献身を通して、私たちは神を知るよう招かれているのです」と述べておられる。
*召命に必要な信頼
続けて教皇は、「神を知ることから、召命を貫くために必要な信頼が生まれます… 人生とは、神に信頼し、寄り頼むことの連続。それは、神のご計画が私たちの計画を覆す時も同様です」と語られ、ナザレのヨセフを、神のご計画に対する完全な信頼の象徴として示され、「ヨセフは、まわりのすべてが闇のように否定的に見え、物事が思っていたことと反対の方向に進んでいるかに見えても、神に信頼し続けました」とされた。
教皇は、「希望の聖年」が教えてくれたように、「神の約束における揺るぎない固い信頼を育み、絶望に負けることなく、主の復活に確信を置きながら、恐れや不安を克服するように」と召命を受けた人々を励まされ、「神は最も暗い最中にも私たちを見捨てられず、ご自身の光をもって、私たちのすべての闇を散らしてくださる」と語られた。
*召命の成熟
教皇はまた、「召命」とは「固定された目標ではなく、主との親密さによって育まれる、ダイナミックな成熟のプロセス」とされ、「召命において成長する」とは、「イエスと共にいて、心において、また人生の様々な局面において、聖霊の働きに委ね、受け取った賜物に照らしてすべてを読み取ること」と強調。
「召命とは、ただちに得られるものでも、一度にすべて与えられるものでもありません。それは、人生と同じように発展していく歩みであり、そこで受け取った賜物は、守るだけでなく、成長させ、実を結ばせるために、神との日々の絆によって養われねばなりません」と説かれている。
教皇は、「日々の祈りと御言葉の黙想を通して、神との個人的な絆を深めるように」と勧められ、「立ち止まり、耳を傾け、信頼することで、召命の賜物は成熟し、皆さんを幸せにすると共に、教会と世界に豊かな実りをもたらすでしょう」と記しておられる。
(編集「カトリック・あい」)
*メッセージの英語公式訳全文は以下の通り。
MESSAGE OF HIS HOLINESS POPE LEO XIV FOR THE 63rd WORLD DAY OF PRAYER FOR VOCATIONS
4th Sunday of Easter – 26 April 2026
The Interior Discovery of God’s Gift
Dear brothers and sisters, dear young people!
Guided and protected by the Risen Jesus, we celebrate on the fourth Sunday of Easter — also called “Good Shepherd Sunday” — the 63rd World Day of Prayer for Vocations. It is an occasion of grace in which we share some reflections on the interior dimension of vocation, understood as the discovery of God’s free gift that blossoms in the depths of our hearts. Let us explore together the truly beautiful path of life along which the Shepherd guides us.
The way of beauty
In the Gospel of John, Jesus describes himself as the “good shepherd” (ὁ ποιμὴν ὁ καλός) ( Jn 10:11). This expression refers to a shepherd who is perfect, authentic and exemplary, inasmuch as he is ready to give his life for his sheep, thus revealing God’s love. He is the Shepherd who draws us to himself, whose gaze reveals that life is truly beautiful when one follows him. Neither the eyes of the body nor aesthetic sensibilities alone are sufficient to recognize this beauty; rather, contemplation and interiority are required. Only the one who pauses, listens, prays and welcomes the Shepherd’s gaze can say with confidence: “I trust him; life with him can truly be beautiful. I want to walk this path of beauty.” What is most extraordinary is that, in becoming his disciple, one truly becomes “beautiful”; his beauty transforms us. As the theologian Pavel Florenskij wrote, asceticism does not produce a merely “good” person, but a “beautiful” one. [1] Indeed, more than goodness, the distinctive trait of the saint is the luminous spiritual beauty that radiates from his or her life in Christ. In this way, the Christian vocation reveals itself in all its depth as a participation in the life of Jesus, by sharing in his mission and reflecting his beauty.
This interior experience of life, faith and meaning was also that of Saint Augustine, who, in the third book of the Confessions, while acknowledging the sins and errors of his youth, recognizes God as “more inward than my most inward part.” [2] More than self-knowledge, Augustine discovers the beauty of the divine light that guides him in the darkness. Perceiving God’s presence in the innermost recesses of his soul, he came to understand the importance of caring for the interior life as a place of encounter with Christ, which is the way to experience the beauty and goodness of God in our own lives.
Such a relationship is based on prayer and silence, and when cultivated opens us to receive and actively respond to the gift of vocation. It is never an imposition or a one-size-fits-all model to which one merely conforms; instead, it is an adventure of love and happiness. Thus, on the basis of caring for the interior life, we must urgently recommence our vocational ministry and renew our commitment to evangelization.
In light of this, I invite everyone –– in families, parishes and religious communities, as well as bishops, priests, deacons, catechists, educators and all the faithful –– to commit themselves more fully to creating conditions that allow this gift to be embraced, nourished, protected and accompanied, so that it may bear abundant fruit. Only when our surroundings are illumined by living faith, sustained by constant prayer and enriched by fraternal accompaniment can God’s call blossom and mature, becoming a path of happiness and salvation for individuals and for the world. By embarking on the path that Jesus, the Good Shepherd, shows us, we come to know more deeply both ourselves and the God who calls us.
Mutual awareness
“The Lord of life knows us and enlightens our hearts with his loving gaze.” [3] Indeed, every vocation begins with the awareness and experience of a God who is love (cf. 1 Jn 4:16). He knows us profoundly; he has counted the hairs of our head (cf. Mt 10:30) and has envisaged for each person a unique path of holiness and service. Yet this awareness must always be reciprocal. We are invited to know God through prayer, listening to the Word, the Sacraments, the life of the Church and works of charity for our brothers and sisters. Like the young Samuel, who unexpectedly heard the voice of the Lord during the night and learned to recognize it with the help of Eli (cf. 1 Sam 3:1–10), we too must create a space for interior silence in order to hear what the Lord desires for our happiness. This is not a matter of lofty ideas or scholarly learning, but of a personal encounter that transforms one’s life. [4] God dwells in our hearts. A vocation entails an intimate dialogue with the One who calls and invites us to respond, despite the deafening noise of the world, with true joy and generosity.
Noli foras ire, in te ipsum redi, in interiore homine habitat veritas –– “Do not go outside yourself. Return within yourself. Truth dwells in the inner person.” [5] Once again, Saint Augustine reminds us how important it is to learn to pause and to create space for interior silence, so that we may hear the voice of Jesus Christ.
Dear young people, listen to this voice! Listen to the voice of the Lord who invites you to a full and fruitful life, calling you to put your talents to use (cf. Mt 25:14-30) and to unite your limitations and weaknesses with the glorious cross of Christ. Make time, then, for Eucharistic adoration; meditate faithfully on the word of God, so that you may put it into practice each day; and participate actively and fully in the sacramental and ecclesial life of the Church. In this way, you will come to know the Lord. Through the intimacy of his friendship, you will discover how to give of yourselves, whether through marriage, the priesthood, the permanent diaconate, or consecrated life. Every vocation is an immeasurable gift for the Church and for those who receive it with joy. To know the Lord means above all learning to entrust oneself to him and to his providence, which is abundant in every vocation.
Trust
Knowledge leads to confidence, a mindset that arises from faith and is essential both for welcoming one’s vocation and for persevering in it. Indeed, life reveals itself as a continual act of trusting in the Lord and abandoning ourselves to him, even when his plans unsettle our own.
Let us consider Saint Joseph, who, despite the mysterious and unexpected pregnancy of the Virgin, trusted the divine message revealed in a dream and welcomed Mary and her child with an obedient heart (cf. Mt 1:18-25; 2:13-15). Joseph of Nazareth is an example of complete trust in God’s designs. He trusted even when everything around him seemed shrouded in darkness and uncertainty, when events appeared to diverge from his own plans. He trusted and abandoned himself to God, certain about the goodness and fidelity of the Lord. “In every situation, Joseph declared his own ‘fiat’, like those of Mary at the Annunciation and Jesus in the Garden of Gethsemane.” [6]
As the Jubilee of Hope reminded us, it is necessary to cultivate firm and steadfast trust in God’s promises, without ever yielding to despair. We must overcome fears and doubts, confident that the Lord of history — both of the world and of our own personal story — is risen. He does not abandon us in our darkest hours, but comes to dispel every shadow with his light. Through the light and strength of his Spirit, even amid trials and crises, we can see our vocation grow and mature, reflecting ever more fully the beauty of the One who has called us — a beauty shaped by fidelity and trust, despite our wounds and failures.
Maturation
Indeed, a vocation is not a fixed point, but a dynamic process of maturation sustained by intimacy with our Lord. To grow in one’s vocation means being with Jesus, allowing the Holy Spirit to act in our hearts and in the circumstances of life, and reinterpreting everything in light of this gift.
Like the vine and the branches (cf. Jn 15:1-8), our whole lives must be rooted in a strong and vital bond with the Lord, so that we may more wholeheartedly respond to his call through our trials and necessary “pruning.” The “places” where God’s will is most manifest, and where we experience his infinite love, are often the authentic, fraternal bonds we establish throughout our lives. How precious it is to have a true spiritual guide to accompany us in the discovery and growth of our vocation! How important it is to discern and test the promptings of the Holy Spirit, so that a vocation can be brought to fruition in all its beauty!
A vocation, therefore, is not an immediate possession — something “given” once and for all. Instead, it is a path that unfolds much like life itself. The gift we have received must not only be protected but also nourished by a daily relationship with God in order to grow and bear fruit. “This is helpful, since it situates our whole life in relation to the God who loves us. It makes us realize that nothing is the result of pure chance but that everything in our lives can become a way of responding to the Lord, who has a wonderful plan for us.” [7]
Dear brothers and sisters, dear young people, I encourage you to cultivate your personal relationship with God through daily prayer and meditation on the Word. Pause, listen and entrust yourselves. In this way, the gift of your vocation will mature, bringing you happiness and yielding abundant fruit for the Church and the world.
May the Virgin Mary, model of the interior acceptance of divine gifts and expert in prayerful listening, always accompany you on this journey!
From the Vatican, 16 March 2026
LEO PP. XIV
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[1] “Asceticism produces not a ‘good’ or ‘kind’ man but a beautiful one, and the distinguishing feature of the saintly ascetics is not their ‘kindness,’ which even people of the flesh, and very sinful ones, can possess, but spiritual beauty, the blinding beauty of a radiant, light-bearing person, a beauty wholly inaccessible to the man of flesh” (P. Florenskij, The Pillar and Ground of the Truth, Princeton 1997, 72).
[2] Saint Augustine, Confessions, III, 6, 11: CSEL 33, 53.
[3] Apostolic Letter A Fidelity that Generates the Future (8 December 2025), 5.
[4] cf. Benedict XVI, Encyclical Letter Deus Caritas Est (25 December 2005), 1.
[5] Saint Augustine, On True Religion, XXXIX, 72: CCSL 32, 234.
[6] Francis, Apostolic Letter Patris Corde (8 December 2020), 3.
[7] Francis, Post-synodal Apostolic Exhortation Christus Vivit (25 March 2019), 248.
☩「武器ではなく、対話で、全ての人のための解決策を求めよ!」教皇、中東やウクライナの戦闘停止を当事国指導者に訴え

(2026.3.24 Vatican News)
教皇レオ14世は24日、カステル・ガンドルフォの教皇別邸を離れる際に、記者団に対し短い声明を発表し、中東、ウクライナなどでの戦争当事国指導者たちに「武器ではなく、平和のために働くように」と改めて呼びかけ、憎しみ、暴力、死の増加を非難された。
「停戦への呼びかけを改めて行いたい。平和のために働くこと、しかし武器ではなく、対話によって、真にすべての人々のための解決策を模索することだ」。
教皇は、現在の危機的な国際情勢について、「憎悪は増大し、暴力はますます悪化し、100万人以上が孤立し、多くの死者が出ている」とされ、「私たちは平和を祈るだけでなく、すべての関係国指導者たちに対し、対話を通じて真に問題解決に取り組むよう強く求める」と強調された。
教皇は22日の主日の正午の祈りの説教でも、中東や、ウクライナなど「戦争と暴力によって引き裂かれた世界の他の地域」における状況に「愕然としている」と述べられた。
そして、「これらの紛争の犠牲となっている、あまりにも多くの無防備な人々の苦しみに対し、我々は沈黙を保つことはできません… 彼らを傷つけるものは、全人類を傷つける。これらの戦争によって引き起こされる死と苦痛は、人類全体にとっての不名誉であり、神へと響き渡る叫びです!」と訴えられ、「敵対行為が終息し、誠実な対話とすべての人間の尊厳への尊重に基づいた平和への道がようやく開かれるよう、祈りを続けるように」と世界の信者たちに強く呼びかけておられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「彼らを傷つけるものは、全人類を傷つける」ー教皇、中東地域はじめ世界各地の戦闘終結を改めて訴え

22日の正午の祈りに続いて、教皇レオ14世は世界中で起きている暴力の終結を呼びかけ、「無実の犠牲者である多くの人々の苦しみに対し、私たち沈黙を保つことができません」として世界のすべての人に祈りを続けるよう促された。
教皇は中東における現在の状況に加え、ウクライナなど「戦争と暴力によって引き裂かれている」世界の他の地域についても深い懸念を表明され、、「これらの紛争の無実の犠牲者である多くの人々の苦しみに対し、私たちは沈黙を保つことはできません。この絶え間ない暴力はすべての人を傷つける。彼らを傷つけるものは、全人類を傷つけるのです」と強く批判された。
そして、これらの戦争がもたらす痛み、死、そして苦しみは「全人類に対するスキャンダルであり、神への叫びです。敵対行為が止み、誠実な対話とすべての人間の尊厳への尊重に基づく平和への道が速やかに開かれるように」と、すべての人に祈りを続けるよう求められた。
教皇が報復の応酬中止を繰り返し訴える間にも、中東での死者数は増え続け、攻撃の応酬は既に23日目に突入している。レバノンでは1000人以上が死亡したとみられ、22日の早朝には、イスラエルの町々を襲ったイランのミサイル攻撃では少なくとも160人が負傷した。また、湾岸地域では、サウジアラビアとバーレーンが自国の空域に多数のドローンやミサイルが侵入したと報告している。イランでは、死者が1444人、負傷者は1万8千人を上回っていると報じられている。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「ラザロのように、私たちも主の呼びかけを聞き、新しい命へと導かれますように」-教皇、四旬節第5主日の正午の祈りで
(2026.3.22 Vatican News)
教皇レオ14世は22日、四旬節第5主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれたラザロの復活に関するヨハネ福音書の箇所について考察され、「私たちを命の充満へと招き、神の恵みによって新たにされ、愛の光の中を歩み、神の限りない慈愛を映し出すように、と求めておられることを示している」と語られた。 主によるラザロの復活について、教皇は「キリストの死に対する勝利と、洗礼を通じて私たちが受ける永遠の命の賜物を語るしるし」とされ、「イエスはラザロの姉妹マルタに語られたのと同じように、今日、私たちに「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて、私を信じる者は、決して死ぬことがない、と語られているのです」と説かれた。
そして、「聖週間前の最後の主日の福音朗読は、主の受難の出来事―エルサレムへの入城、最後の晩餐、裁判、十字架刑、埋葬―を再び体験する聖週間の備えでもあります」とされ、「こうして私たちは、自らを準備し、一連の出来事の重要性と意味をより深く理解し、それらがもたらす恵みの賜物に心を開くことができるのです」と強調。「これらの出来事は、死を打ち破り、私たちの救いと命の充満のために、洗礼を通して私たちの内に生きておられる復活のキリストにおいて成就するのです」と語られた。
*世界を照らす恵み
教皇はまた、「神の恵みが世界を照らしている」ことを信者たちに思い起こさせ、にもかかわらず、「私たちは、決して永続的な幸福をもたらさないものを追い求め、迷いがちです。時間やエネルギー、他者への配慮を消耗させる絶え間ない新らしさ、珍しさの追求など。まるで名声や物質的な富、娯楽、そして束の間の人間関係が、私たちの心を満たしたり、私たちを不死にするかのように、です」と注意された。
そして、「私たちは皆、心の中に『無限への渇望』を抱いている。それは、過ぎ去り、満たされることのない欲求です… 聖アウグスティヌスが語ったように、私たちは神のために造られており、神に安らぐまで平安を見出すことはない、のです」と述べられた。
*巨岩を動かす
結論として、教皇は、「ラザロの復活の物語が、聖霊の助けと力によって、いかにして私たちを招いているか」を理解するよう信者たちを促され、「そうすることは、”巨岩”のように私たちを利己主義、物質主義、暴力、そして表層的な世界の墓に閉じ込めてしまう習慣、条件付け、思考様式から、私たちの心を解き放つこと」と説かれた。。
「イエスもまた、私たちに向かって『出て来なさい』と叫ばれています。その恵みによって刷新され、愛の光の中を歩むために、これらの窮屈な空間から抜け出すよう促しているのです。損得勘定もなしに、希望し、愛することができる、新しい男女として、イエスの無限の慈愛の模範に従って」。
そして説教の最後に教皇は、聖母マリアの助けを求め、「彼女の信仰、信頼、そして忠実さをもってこの聖なる日々を生き、復活された御子との出会いの栄光に満ちた体験が、日々私たちの中で新たになるように」と願われた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
◎教皇連続講話「第二バチカン公会議を学び直す」⑩「すべて洗礼を受けた者は、キリストに対して一貫した証しをするよう召されている」

(2026.3.18 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇レオ14世は18日の水曜恒例一般謁見で「第二バチカン公会議を学び直す」を主題とする連続講話をお続けになり、今回も引き続き教会憲章について考察され、「すべて洗礼を受けた者は福音宣教の主体であり、キリストに対して一貫した証しをなすよう召されている」と強調された。
今回、教皇は、教会憲章の第2章、「神の民としての教会」に捧げられた章に再び触れられ、救い主の到来を信じる民はキリストから、「その救いの使命が遂行されるための司祭的、預言的、王的な務めへの参与」を授かっていることに注目された。
*聖職者と信徒を結びつける共通の使命。
そして、第二バチカン公会議に参加した人々が、主イエスが新しい永遠の契約を通じて司祭の王国を確立し、弟子たちを「王なる司祭職」として構成された、と教えていることを思い起され、信徒に共通の司祭職が洗礼によって与えられることを強調。「それによって、私たちは、霊と真理をもって神を礼拝し、教会を通じて神から受けた信仰を人々の前で告白することができるのです」と説かれた。
さらに、堅信の秘跡を通じて、すべての洗礼を受けた者は「教会により完全に結びつけられる… そして聖霊は彼らに特別な力を授け、キリストの真の証人として、言葉と行いの両方で信仰を広め、守る義務をより厳格に負わせます。この奉献こそが、聖職者と信徒を結びつける共通の使命の根源にあります」と述べられた。
この点に関して、教皇は、フランシスコ教皇が「神の民を見つめることは、私たち全員が信徒として教会に入っていくことを思い起こすこと。私たちのアイデンティティを永遠に刻印し、常に誇りとするべき最初の秘跡は、洗礼です」と語られたことを取り上げ、、「洗礼と聖霊の塗油によって、信徒は『霊的な家であり、聖なる祭司職として奉献』され、それによってすべての人が神の聖なる民を形作るのです」と語られた。
*私たちの聖化を目指して
教皇は、王的な祭司職の行使は多くの形で行われるが、「そのすべてが私たちの聖化を目指しており、何よりもまず聖体の奉献への参加を通じて行われること」を想起され、「祈り、修練、そして実践的な愛を通じて、私たちは、こうして神の恵みによって刷新された人生を証しする… 公会議が要約するように、秘跡と徳の実践を通じてこそ、司祭共同体の神聖な性質と有機的な構造が機能するようになるのです」と言明された。
また、公会議の参加者たちが、「神の聖なる民もまたキリストの預言的使命に参与すると教えていること」にも注意を向けられた。
*「信仰の感覚」と「信徒の合意」
教皇は、この文脈において、「信仰の感覚」と「信徒の合意」という重要なテーマが導入されることを指摘され、第二バチカン公会議の教義委員会が、このsensus fidei(信仰の感覚)について、「それは教会全体の能力のようなものであり、それによって教会は、信仰において、伝えられた啓示を認識し、信仰の問題において真偽を見分け、同時にそれをより深く理解し、生活の中でより完全に適用する」と規定したことに注意を向けられ、したがって、信仰の感覚は、「個々の信徒が独自に持つものではなく、神の民全体の一員として持つものなのです」と強調された。
さらに教会憲章は、「この後者の側面に焦点を当て、それを教会の無謬性との関係に位置づけていると教皇は説明した。教皇の無謬性は、教会の無謬性に内在し、それによって支えられるもの」とされ、教会憲章の次の箇所を引用された―「聖なる方によって油注がれた信徒の全体は、信仰の事柄において誤ることはない。彼らは、司教から一般信徒の末端に至るまで、信仰と道徳の事柄において普遍的な一致を示すとき、民全体による信仰に関する超自然的な識別力を通じて、この特別な特性を現すのだ」。
これを踏まえ、教皇は「したがって、信徒の交わりとしての教会―そこには当然、牧者たちも含まれる―は、信仰の事柄において誤ることはない。聖霊の油注ぎに基づいてこの真理が守られる器官は、神の民全体の『超自然的な信仰の感覚』であり、それは『信徒の合意』の中に現れるのです」と説かれた。
*神の民としての私たちの責任
教会の教導権が守り抜くこの一致について、教皇は。「したがって、すべての洗礼を受けた者は、福音宣教の能動的な担い手であり、主が教会全体に授ける預言の賜物に従って、キリストに対して一貫した証しを立てるよう召されています」とされ、聖霊が「あらゆる階層の信徒の間に特別な恵みを配分する」ことに注意を向けつつ、聖霊がこれらの賜物を通じて「教会の一新と建設に寄与する様々な任務や職務を遂行するにふさわしく、準備を整えた状態にする」と述べられた。
そして、「このカリスマ的な活力の特筆すべき現れが、恵みの働きによって絶えず芽生え、花開く奉献生活にあります」とされ、「教会共同体もまた、『神の民』の啓発のための霊的実りの多様性と豊かさにおける輝かしい模範となります」と語られ、次のような信者たちへの呼びかけで、講話を締めくくられた。「神の民の一員であるという賜物を受け取ったことへの自覚と感謝、そしてそれに伴う責任を、私たち自身の中で再び燃え上がらせましょう」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「未成年者・弱者の保護は教会の使命にとって不可欠の構成要素だ」-教皇、バチカンの保護委員会総会で

教皇レオ14世は16日、バチカンの未成年者・弱者保護委員会の総会であいさつされ、「教会内での虐待を確実に防止する」という委員会の使命を果たすよう励まされるとともに、「ケアの文化」を築くためには、「そのような責任を他者に任せず、被害者と具体的に向き合わねばならない」と強調された。
*「未成年者や弱者の保護は『ケアの文化』を築くのに不可欠」
教皇は、委員会のメンバー全員に対して、「子供や青少年たち、そして脆弱な立場にある人たちを守るための活動」に努めていることを感謝されたうえで、「あなたがたの使命は、虐待が防止されるよう努めること。『予防』とは決して、単なる一連の規定や手順ではない。それは、教会全体を通じて『ケアの文化』を形成する手助けをすることです。未成年者や弱い立場にある人々の保護は、外部から課された義務ではなく、信仰の自然な表現として捉えるべきものです」と指摘。
「それは、時に沈黙を伴い、しばしば重荷になる厳しい奉仕となりますが、教会の使命にとって、また真のケアの文化を築くために不可欠なものなのです」と説かれた。
*「委員会の年次報告は、真実と責任、希望と慎重さの極めて重要な手段だ」
そして、フランシスコ教皇が同委員会を教皇庁に恒久的な組織として設けたのは、「虐待の防止が、任意に選べる課題ではなく『教会の使命を構成する不可欠な部分』であることを、全教会に認識させるため」だった、とし、「このことを念頭に、他者の苦しみに耳を傾ける回心の道が、被害者の経験を不可欠な指針として、行動を起こす原動力であり続けねばなりません」と強調。
性的虐待を受けた体験が痛ましく、聞くに堪えないものであるとしても、「そうした体験は、真実を力強く明らかにし、被害者を支援しようと努める私たちに謙虚さを教えてくれます… そして、痛みを認めることによってこそ、希望と刷新への信頼できる道が開かれるのです」と念を押された。
また教皇は、委員会のメンバーたちに、教皇庁の一員として学ぶこと、教皇庁と協力すること、そして同様に自らの経験をもって教皇庁を豊かにするよう励され、そのうえでも、委員会の年次報告書は、極めて重要な手段です。なぜなら、年次報告書は、それは真実と責任、そして希望と慎重さの実践を表しており、教会の益のために、これらは両立されねばならないからです。これらのバランスをとることで、『希望が落胆に屈すること』を防ぎ、『慎重さが、虐待防止に取り組む際の即興的対応や表面的な対応』から私たちを守ります」と強調。
*「被害者の声に耳を傾け、寄り添うことは、あらゆる教会共同体で具体的な形をとる必要がある」
さらに、「管区長や主要修道院長らの責任は、他者に委譲することができません」と言明された。
教皇は続けて、「被害者の声に耳を傾け、彼らに寄り添うことは、あらゆる教会共同体や機関において具体的な形をとらねばなりません」と強調され、委員会のメンバーたちに、「教会のいかなる共同体もこの任務において孤独を感じないように、支援を続けるように、特に資源や専門知識が不足している地域において、現地の教会を支えるように」と促された。
そして、今年秋に予定される第3回年次報告書で、これまでの(性的虐待の防止などに関する)心励まされるような進展状況に加え、さらなる取り組みが必要な分野に関する追加情報が得られるとこを期待します」と述べられた。
*「未成年者・弱者ほどの普遍的ガイドラインの最終案を待ち望んでいる」
教皇はまた、委員会が教会のあらゆるレベル、被害者、その家族、そして市民社会のパートナーと関わりを持つことで、保護対策に関連する二つの研究分野-虐待に関連する「脆弱性」の概念と、デジタル空間における技術を利用した未成年者への虐待の防止―で大きな進展が見られたことを評価された。
さらに、委員会が、特に「普遍的ガイドラインの枠組み」の策定を通じて、教会が保護の課題に勇気を持って取り組み、司牧明快さと構造的刷新をもって対応できるよう支援したことを、称えられるとともに、「ガイドラインの最終案の提出を待ち望んでおり、適切な検討と見極めを経て公表されること」に期待を表明。
委員会のすべての取り組みは、その使命が「単なる形式的なプロセスの確立ではなく、交わりと共有された責任のしるし」にあり、「未成年者や脆弱な立場にある人々の保護は、教会生活における孤立した領域ではなく、司牧、養成、統治、規律のすべてに関わるもの」だということを、改めて強調された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
*おことわり*
:バチカンの教理省に属する上記の委員会の英語表記は「The Pontifical Commission for the Protection of Minors」です。「カトリック・あい」は日本語表記を「未成年・弱者保護委員会」としています。一部には、「未成年者保護委員会」と訳しているケースも見られますが、「minor」には、「未成年者」という意味以外に、広く「軽視されている人、弱い立場にある人」などの意味に使われることが少なくありません。実際、この記事の中でも、教皇は委員会のメンバーたちに「子供や青少年たち、そして脆弱な立場にある人たちを守るための活動…」と明確に語られています。日本の司教団では、「未成年」あるいは「女性と子供」というように性的虐待の保護の対象を限定する印象を与える表現が目立ちますが、保護や被害者のケアをそのような限定をすべきではないし、教皇もバチカンの委員会もそのような減退に仕方をしていません。そのような表現が、一部みられるような聖職者の性的虐待の”責任回避”に使われるようなことがあってはならないのです。
☩「善意ある全ての男女の名において呼びかける、停戦せよ!対話の道を開け!」-教皇、米・イスラエルとイランの指導者たちに
(2026.3.15 Vatican News Linda Bordoni and Nathan Morley)
教皇レオ14世は15日の四旬節第4主日の正午の祈りで、米国・イスラエルとイランの間で続く攻撃の応酬の責任者たちに対し、「中東のキリスト教徒、そして善意あるすべての男女の名において呼びかけます―停戦せよ!対話の道を開け!」と強く訴え、「暴力は決して、人々が待ち望む正義、安定、そして平和をもたらすことはない」と言明された。
と強く呼びかけられた。
正午の祈りに続けて教皇は、「中東の人々は2週間にわたり、戦争という凄惨な暴力に苦しめられてきました… 何千人もの罪のない人々が殺害され、さらに多くの人々が家を離れることを余儀なくされています。学校や病院、住宅地を襲った攻撃で愛する人を失ったすべての方々に対し、祈りを込めて、寄り添う気持ちを改めて表明します」と語られた。
また、レバノンの情勢についても強い懸念を示され、「現在進行中の深刻な危機に対し、レバノン国民全体の公益のために、同国当局が永続的な解決策を実行できるよう支える対話の道が開かれるように」と願われた。
多くの民間人が子供たちも含めて犠牲になっている
米国・イスラエルとイランの攻撃の応酬は中東全域に波及しており、イランとレバノンの民間人が最も深刻な被害を受けている。13日のイスラエルによる空爆で、レバノン南部の医療センターが直撃され、医師や看護師など12人が死亡した。世界保健機関(WHO)のトップはこの攻撃を非難し「容認できない」と述べた。レバノン保健省によると、戦闘が激化して以来、イスラエルの空爆により800人以上が死亡し、80万人以上が自宅から避難を余儀なくされている。
イスラエルは、「ヒズボラが武器を貯蔵し、攻撃を調整している」と非難する地域を標的にしていると主張。ヒズボラは、紛争が始まって間もなく、イランを支援するためイスラエル北部に向けてロケット弾の発射を開始した。
イランでは14日、中部イスファハン州の工業地帯への空爆で少なくとも15人が死亡したと報じられた。イラン当局、イラン赤新月社、および複数の人権団体は、米・イスラエルによる軍事作戦開始以来、1230人から1300人の民間人が死亡した、と推定している。最も犠牲者の多かった事件の一つは、紛争初日の2月28日に発生したミナブの女子小学校へのミサイル攻撃。イランメディアによると、168人から180人が死亡し、その大半が子供だった。
中東地域の緊張はさらに高まり続けている。サウジアラビア国防省は、リヤドおよび東部地域上空でドローン7機を迎撃・撃墜した。と発表。ドバイとカタールの当局も日曜日、防空システムによる迎撃を報告したほか、クウェートはドローン攻撃により国際空港のレーダーシステムが損傷した、と述べた。イスラエル軍は、8日未明にイランから発射されたミサイルを迎撃したと発表したが、この一斉攻撃はイスラエル中部を狙ったものだったという。
バグダッドの米国大使館は、7日に大使館敷地内にミサイルが着弾したのを受け、在イラク米国人に対し、イラクからの即刻退去を求める新たな警告を発している。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「信仰は、神が見ておられるように苦しむ人類を見る目を開く」教皇、四旬節第4主日の正午の祈りで
教皇レオ14世は15日、四旬節第4主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれたヨハネ福音書の、生まれつき目の見えない人を癒されたイエスの物語(9章1-41節)について考察され、「信仰は、神が見ておられるように人類とその苦闘を見ることを教えてくれます」と語られた。
教皇は「ここで書かれた出来事には『救いの神秘』が示されています。人類が闇の中に住んでいた時、神の御子が私たちの目を開くために来られたからです」とされたうえで、「この物語に登場する男性と同じように、私たちもまた、その深さを理解する能力をはるかに超えた『命の神秘』に対して、生まれつき盲目でした。だからこそ、神はイエスにおいて肉となったのです」と指摘。
「それは、神の恵みの息吹によって形作られた私たち人間という”土”が、新たな光を受け入れられるようにす
るためでした。その光は、私たち自身や他者、そして神を真実のうちに見ることを助けてくれるものなのです」と説かれた。
また教皇は、信仰は「暗闇の中への飛躍」のようなものだ、という言葉を思い起こされ、「これは、信仰が、実際には目を閉じて、”盲目的”に信じることを意味することを示唆しています。キリストとその愛との触れ合いこそが、私たちの目を、かつてないほどに開かせてくれるのです… 信仰とは、盲目的な行為でも、理性の放棄でも、あるいは世界から目を背けさせるような、ある種の宗教的確信への逃避でもありません。信仰は、私たちが物事を『イエスご自身が、ご自身の目で見ているように』見られるよう助けてくれるのです」と強調された。
そして、「他者の苦しみや人類を傷つける苦難が見えるよう、キリスト教徒に目を開くよう呼びかけた。
「暴力がいっそう世界に蔓延する中、キリスト教徒は、周囲の不正や暴力、苦しみにあってもなお、『警戒し、注意深く、預言的な信仰』を証ししなければなりません。世界の闇に、私たちの目を開かせるべきです。そして、平和、正義、連帯への献身を通じて、他者に福音の光をもたらすべきです」と説かれた。
説教の最後に教皇は、聖母マリアが取り成し、キリストが私たちの心を開き、私たちが単純さと勇気をもってキリストを証しできるよう助けてくださるように、と祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「武力紛争で重大な責任を負うキリスト教徒たちは、真摯に良心を問い正しているだろうか」教皇、バチカン内赦院主催のセミナーで

(2026.3.13 バチカン放送)
教皇レオ14世が13日、「赦しの秘跡」をめぐるバチカンの内赦院主催のセミナー参加者たちとお会いになり、挨拶で、「聖ヨハネ・パウロ2世の司牧的熱意で始められ、後継の教皇たちによって支えられてきたこのセミナーが、さらに深化・拡大されるように」と励まされた。そして、それによって、「赦しの秘跡を深く理解し、適切にとり行い、信者たちがそれに効果的にあずかること」を望まれた。
挨拶で教皇は、「洗礼を受けた人たちが赦しの秘跡を積極的に求めないことは、教会の限りない慈しみの宝が使われずに残っているのと同じこと」と指摘。
「信者たちが信仰と心の素直さをもって告解室に向かい、復活された主の賜物を受け入れることをせずに、長い間罪の状態に留まっていることがない」ように、1215年の第4ラテラノ公会議で制定され、第2バチカン公会議で確認された「年に最低1度は赦しの秘跡にあずかる」という信者の義務を改めて示された。
そして、「自分の罪を認め、それを非難する者は、すでに神と一致している」という聖アウグスティヌスの言葉を引用され、「赦しの秘跡は、いわば”一致の工房”であり、それは、罪の赦しと聖化の恵みを注がれることを通して、神との一致を再建し、個人の内的な一致と教会との一致を生み出し、さらには人類家族における平和と一致を育むものです」と説かれた。
教皇はまた、「武力紛争において重大な責任を負うキリスト教徒たちは、真摯に良心を問い正し、告解を行う謙虚さと勇気を持っているでしょうか」、「小さく単純な存在である人間は、創造主との『一致を壊す』ことが本当にできるのでしょうか」とセミナーの参加者たちに問いかけられ、「キリストご自身から教会を通して託された『崇高な使命』である赦しの秘跡を行うことを通して、人間と神との一致を再構築する使命を、深く認識するように」と願われた。
そのうえで、 「神との、教会との、そして私たち自身の『内なる一致』というこのダイナミズムは、人々と民族間の平和の基盤となるもの。和解した者だけが、武装しない生き方、武装を解かせる生き方ができるのです」と強調。
「『うぬぼれ』という武器を捨て、神の赦しによって、絶えず自らを新たにする人は、日々の生活の中で和解を築く者となり、アッシジの聖フランチェスコが願われたとされる『主よ、私をあなたの平和の道具としてください」という言葉を、自らの中で実現することができます」と励まされた。
・・・・
内赦院は、特に良心問題や免償(教会の与える有限の罰の償いの免除)に関する問題を扱う、教皇庁の裁判所の一つ。復活祭を前にした祈りと回心の時である四旬節に、叙階後間もない司祭たち、また叙階を前にした助祭たちを対象に、「聴罪司祭」としての養成を目的にしたセミナーを毎年開かれている。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
◎教皇連続講話『第二バチカン公会議を学び直す』⑨教会憲章ー教会は「平和と一致」の預言であり、すべての人を受け入れる場だ
☩「中東での犠牲者、特に子供たち、レバノンで殺された司祭を悼み、あらゆる敵対行為の即時停止を祈る」教皇が声明で
(2026.3.9 Vatican News)
バチカン報道局が9日、声明を発表し、教皇レオ14世が中東での米、イスラエルとイランの砲爆撃の応酬による犠牲者、特に子供たちとレバノンで殺されたマロン派のカトリック司祭、ピエール・エル・ラーヒ神父に対して深い悲しまれるとともに、中東での敵対行為の停止を祈っていることを強調した。
声明は「教皇レオ14世は、中東でこの数日間に起きた爆撃の全犠牲者、多くの子供を含む無実の人々、そして彼らを助けていた者たち、例えば9日午後クラーヤで殺害されたマロン派司祭ピエール・エル・ラーヒ神父に対して深い悲しみを表明されている。教皇は懸念を持って事態の推移を見守り、あらゆる敵対行為が一日も早く終息するよう祈っておられる」としている。
レバノン・メディアの報道によれば、エル・ラーヒ神父は9日午後、レバノンの山岳地帯、クラーヤで、イスラエル軍戦車による砲撃を受けた家に住む教区民を助けようと、数人の若者たちと現場に駆けけた際、戦車の再砲撃で命を落とした。
