◎教皇連続講話『第二バチカン公会議を学び直す』⑨教会憲章ー教会は「平和と一致」の預言であり、すべての人を受け入れる場だ

(2026.3.11 Vatican News   Isabella H. de Carvalho)

 教皇レオ14世は11日の水曜恒例一般謁見で、『第二バチカン公会議を学び直す』の連続講話を続けられ、公会議が出した「教会に関する教義憲章『Lumen gentium』」を引き続き取り上げ、「神が民と結んだ契約と、それが教会及び全てのキリスト教徒にとって意味するもの」を考察。その中で「キリストに結ばれた神の民から成る教会の使命」を強調された。

 教皇は、「分裂と緊張に満ちたこの世界で、教会はキリストへの信仰とキリストの愛によって信徒を結びつけ、すべての人々に手を差し伸べる使命を持ちます」とされ、「あらゆる男女の主であり救い主であるキリストに結ばれた教会は、決して内向きになることはなく、すべての人々に開かれ、すべての人々のための存在なのです」と強調。

 そして、「特に、多くの紛争や戦争が横行する現代において、教会が異なる国籍、言語、文化を持つ男女が信仰の中で共に生きる民であることを知ることは、大きな希望のしるとなります。それは人類の核心に置かれたしるしであり、父なる神がすべての子らを招く一致と平和への思いであり、預言です」と説かれた。

 さらに、「教会には、あらゆる人のための場所があり、またあるべきです。全てのキリスト教徒は、自らが生きて働くあらゆる環境において、福音を宣べ伝え、証しをするよう招かれているのです」と付け加えられた。

*キリストは民を一つに結ぶ

 また教皇は、「神は、あらゆる人を救いたい、と望んでおられ、そのために、実際に生きている民を選び、その中に住まわれることで、歴史における救いの業を成し遂げられます」と述べ、旧約聖書で、神がアブラハムを召し、数多くの子孫を約束し、その後その子孫を奴隷状態から解放し、彼らと契約を結ばれたことを強調。「民のアイデンティティは、神の御業と神への信仰によって与えられます。彼らは、あらゆる民族、全人類を自らに引き寄せる灯台のように、他の諸国民への光となるよう召されているのです」と語られた。

 そして、「第二バチカン公会議は『ルメン・ゲンティウム』において、この使命が『キリストにおいて確認される新たな完全な契約』と『御言葉ご自身が肉となって現れた完全な啓示』の光のもとで、より深い意味を持つと説明しています。そして、御自身の体と血をお与えになることによって、この民を御自身に、そして決定的な方法で結びつけるのはキリストです」と言明された。

 

*キリストに結ばれた神の民からなる教会

 この点に関して教皇は、「これが今日の教会の真のアイデンティティです… キリストの体から存在を得る神の民であり、それ自体がキリストの体。それは言語や文化、民族性ではなく、イエスによって結ばれた、地上のあらゆる民族の男女で構成されています。また、教会に属する者は、功績や称号を誇りにするのではなく、『キリストにおいて、キリストを通して、神の娘や息子』という賜物だけを誇りにするのです」とされた。

 さらに「教会におけるいかなる職務や役割よりも本当に重要なのは、『キリストに接ぎ木されること』であり、『恵みによって神の子供であること』。それが、キリスト者として求めるべき唯一の栄誉ある称号なのです」と強調。したがって「教会における民の関係を活気づける法則は、私たちがイエスにおいて受け、経験する愛。そして、教会の目標は神の王国であり、そこへ向かって教会は全人類と共に歩むのです」と説かれた。

*教会は一つだが、すべての人を含む

 

教皇は続けて、「教会はキリストによって結ばれ、選ばれた神の民で構成されています… ですから、教会と信徒一人ひとりの使命は、すべての人に福音を伝えることなのです」と強調。「公会議は『教会憲章』を通じて、すべての人が新しい神の民に属するよう招かれていることを思い起させます。これは、神の民が『唯一無二でありながら、全世界とあらゆる時代へと広がらねばならないこと』を意味し、それは、神の『すべての子供たち』を集める意図が成就するためです」と語られた。

そして、「教会は、あらゆる場所、あらゆる人々に福音を伝えるよう招かれています。そうすることで、あらゆる人がキリストと接触できるようになるのです」とされた教皇は、「これは教会が、すべての人々に開かれることを求められており、異なる文化を受け入れつつ、そうした人々をも清め、高めるために福音の新しさを提供する必要があることを意味します」と語られた。

最後に教皇は、「この点において、教会は一つでありながらすべての人を含みます」とされ、フランスのイエズス会士アンリ・ド・リュバック神父の言葉を引用しつつ、「唯一の救いの箱舟は、その広大な身廊にあらゆる人間の多様性を受け入れねばならないのです」と講話を締めくくられた。

 

“In this regard, the Church is one but includes everyone,” the Pope concluded, citing also French Jesuit Father Henri de Lubac, who said, “The unique Ark of Salvation must welcome all human diversity into its vast nave.”

 

2026年3月12日

☩「中東での犠牲者、特に子供たち、レバノンで殺された司祭を悼み、あらゆる敵対行為の即時停止を祈る」教皇が声明で

(2026.3.9 Vatican News) 

    バチカン報道局が9日、声明を発表し、教皇レオ14世が中東での米、イスラエルとイランの砲爆撃の応酬による犠牲者、特に子供たちとレバノンで殺されたマロン派のカトリック司祭、ピエール・エル・ラーヒ神父に対して深い悲しまれるとともに、中東での敵対行為の停止を祈っていることを強調した。

 声明は「教皇レオ14世は、中東でこの数日間に起きた爆撃の全犠牲者、多くの子供を含む無実の人々、そして彼らを助けていた者たち、例えば9日午後クラーヤで殺害されたマロン派司祭ピエール・エル・ラーヒ神父に対して深い悲しみを表明されている。教皇は懸念を持って事態の推移を見守り、あらゆる敵対行為が一日も早く終息するよう祈っておられる」としている。

 レバノン・メディアの報道によれば、エル・ラーヒ神父は9日午後、レバノンの山岳地帯、クラーヤで、イスラエル軍戦車による砲撃を受けた家に住む教区民を助けようと、数人の若者たちと現場に駆けけた際、戦車の再砲撃で命を落とした。

File photo of Fr. Pierre El-Rahi
(右写真はFile photo of Fr. Pierre El-Rahi)

 Vatican Newsの取材に対して、ティール・デイルミマス教区のラテン典礼司祭トゥフィック・ブー・メルヒ神父は、「エル・ラーヒ神父は教区のキリスト教徒にとって真の牧者でした。イスラエル軍が繰り返し避難命令を出していたにもかかわらず、エル・ラーヒ神父は信徒たちのために留まり続けたのです」と述べた。教区はエル・ラーヒ神父の死に続いて、別の司祭の家が直接攻撃されており、信徒たちは強い恐怖に襲われていると、いう。

「これまでキリスト教徒の村では人々は家を出ようとしなかった。家を離れることは路上生活か別の場所に移ることを意味するが、特に国の経済状況が既に深刻な中、人々に移住のための金銭的余裕はありません。だが今、状況は全て変わりました」。

 メルヒ神父によると、聖地を管区するフランシスコ会は現在、ティールにある修道院で200人の避難民(全員がイスラム教徒)を受け入れている。また30万人以上が安全を求めてレバノン南部を離れているといい、「私たちが決して失ってはならないのは、常に努力する力を与えてくださる主への希望。もう戦争は十分です。暴力も十分です。教皇が言われたように、武器は平和を生むのではなく、虐殺と憎しみを生む。私たちが求めるのは、少しばかりの尊厳を持って生きることだけなのです」と訴えている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年3月11日

☩「イエスは私たちの霊的な渇きを癒される」教皇、四旬節第3主日の正午の祈りで

 

(2026.3.8 Vatican News )

 教皇レオ14世は8日、四旬節第3主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれたヨハネ福音書の箇所を取り上げ、注意深い奉仕、真の弟子としての歩み、霊的な刷新を呼びかけられた。教皇は、

 井戸の傍でのイエスとサマリアの情勢の対話の場面で、教皇は「イエスが人間の霊的渇きにどう応えるか、また信者たちに真の弟子としての生き方を求めるか」を示しておられる、とされ、「イエスとの出会いは、各人の心の奥底に、永遠の命へと湧き上がる泉を呼び覚ますのです」と強調された。

命の源としてのイエスとの出会い

 そして、四旬節が「神の恵みの体験を妨げる障害」から、私たちの心を解放する特別な時である、とされ、オランダ系ユダヤ人作家エティ・ヒレスムが記した言葉-「神が石や砂の下に埋もれているように見える時、神は再び掘り起こされねばならない」-を取り上げ、弟子たちがサマリアの女と語るイエスに驚いた様子に注目、彼らが当初イエスの使命を受け入れるのをためらっていたことを指摘された。

自覚と奉仕への呼びかけ

 はまた、イエスがサマリアの女と話すことへの弟子たちの反応について考察され、彼らの驚きと消極性を指摘。「周囲を見渡す必要があります。畑が収穫期を迎えているのが見えるでしょう」として、神の恵みがすぐには見えなくても、それを認識する必要性を強調。そしてキリスト教徒の模範として、イエスの注意深さ、敬意、そして判断をしない姿勢を示された。

女性伝道者としての役割

 教皇はまた、多くの女性伝道者の先駆けとなったサマリアの女性の役割について考察され、彼女の証言は共同体を信仰へと導き、「出会った人に時間を忘れて注意を向けることの素晴らさ、を示したのです」と述べられた。

平和と一致への呼びかけ

 そして、教皇は説教の結びで、信者たちに「真理と正義を渇望する者たち」に仕えるにあたり、教会の母マリアの取り次ぎを求めるよう促された。そして「この奉仕は分断を超越しなければなりません」と、「私たち」対「彼ら」という思考を戒められ、「神を礼拝する者は、霊と真理をもって神を礼拝する平和の人となることを求めるのです」と強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年3月8日

☩「爆弾の轟音が止み、武器が沈黙し、対話の空間が開かれるように祈ろう」-教皇、米・イスラエルとイランの爆撃応酬で

Explosions erupt following strikes at the Tehran Oil RefineryExplosions erupt following strikes at the Tehran Oil Refinery  (AFP or licensors)

(2026.3.8 Vatican News)

 教皇レオ14世は8日、年間第3主日の正午の祈りに続けて、米、イスラエルとイランの爆撃の応酬を取り上げ、聖ペトロ広場に集まった人々に対し、「爆弾の轟音が止み、武器が沈黙し、人々の声が聞かれる対話の空間が開かれるように」と祈るよう呼びかけられた。

 イランと周辺地域での「暴力と破壊、憎悪と恐怖が蔓延する状況」について、教皇は「深い憂慮を招く知らせが絶えず届いています」と嘆かれ、この戦争が「愛するレバノン」のような近隣諸国を再び「不安定に陥らせる」恐れがある、と指摘。

 広場に集まった人々に対し、「爆弾の轟音が止み、武器が沈黙し、対話の空間が開かれ、民衆の声が聞かれるよう祈るように」と促され、平和の女王マリアに祈りを託し、「戦争で苦しむ人々のために、当事者たちを和解と希望の道へと導いてくださるように」と願われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年3月8日

◎ 教皇連続講話『第二バチカン公会議を学び直す』⑧教義憲章ー教会の人間性と神性は調和している

(2026.3.4 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

 教皇レオ14世は18日の水曜恒例一般謁見で『第二バチカン公会議を学び直す』をテーマとする連続講話で、第二バチカン公会議の神の啓示に関する教義憲章『Lumen Gentium』についての考察を続けられ、今回は、この憲章が、「教会の人的側面と神的な側面という神秘をどのように提示しているか」に注意を向けられた。

 そして、「教会の人間的側面と神的側面の間に矛盾はない。理想的で純粋な教会が、この世から切り離されて存在するわけではなく、歴史の中に体現されるキリストの唯一の教会が存在する」ことを強調された。

*私たちが問うべきは、「教会の複雑さ」が何から成り立っているかだ

 

 教義憲章は第一章で、主に「教会とは何か」という問いに答え、教会を「複雑な現実」と描写しているが、教皇は「私たちが問うべきは、この複雑さが何から成り立っているかです」と指摘。「この憲章は、教会が人間的側面と神的側面が分離も混同もなく共存する、よく組織された体であることを確認しています」とされた。

 そして、「教会は、キリスト者としての喜びと苦闘を、長所と短所と共に分かち合う男女の共同体であり、福音を宣べ伝え、人生の旅路に同行するキリストの臨在のしるしとなる存在です」とされたうえで、「しかし、この側面だけでは、教会の真の本質を説明するには不十分です。それは、教会には神的な次元も存在するからです」と述べられた。

 続けて、このことは、「教会を構成する人々の理想的な完全性や霊的優越性にあるのではなく、教会がキリストにおいて実現された、人類に対する神の計画によって生み出されたという事実にあります… したがって、教会は『地上の共同体』であると同時に『キリストの神秘的な体』であり、『見える集会』、『霊的な神秘』、『歴史の中に存在する現実』、そして『天へと向かう民』なのです」と説かれた。

 

*教会は”逆説”の中に生きている

 

 さらに、教皇は「人間的次元と神的な次元は、互いを覆い隠すことなく、調和し、統合されています。教会は、逆説の中に生きています。罪深い人間を受け入れ、神へと導く、人間的かつ神的な現実なのです」と強調。

 「『教会憲章』は、この教会の状態を照らすためにキリストの生涯に言及しています… パレスチナの道でイエスに出会った人々は、その人間性、その眼差し、その手、その声の響きを経験しました。彼に従うことを決めた者たちは、まさにその受け入れの眼差し、祝福の手、解放と癒しの言葉の体験に動かされたのです… 同時に、イエスに従うことによって、弟子たちは神との出会いへと自らを開いきました。なぜなら、キリストの肉体、その顔、その身振り、その言葉は、見えない神を目に見える形で現しているからです」と語られた。

*理想的で純粋な”地上”から切り離された教会など存在しない

 また、教皇は、イエスの現実の光の中で教会を考察され、「教会を注意深く見ると、現実の人々から成る人間的な側面が明らかになります。彼らは時に福音の素晴らしさを現し、時に他の人々と同じように苦闘し過ちを犯します。しかし、まさに教会の成員と、その限界のある地上的側面を通して、キリストの臨在と救いの業が示されるのです」と述べられた。

 そして、ベネディクト16世教皇が在位初期にスイス司教団に語った言葉-「福音と制度の間に対立など存在しません… 教会の構造こそが、現代における福音の実現と具体化に奉仕するのです」を引用され、「理想的で純粋な教会、地上から切り離された教会など存在しません。歴史の中に具現化された、キリストの唯一の教会があるだけ。これこそが教会の聖性を構成するのです。キリストが教会に宿り、教会の成員の小ささや脆さを通して自らを与え続けている、という事実こそが、です」と説かれた。

 このような、教会で起こる永遠の奇跡を見つめることで、「私たちは、神のなさり方を理解できる。すなわち、神は被造物の弱さを通して自らを現し、今もなお現れ続け、働き続けることで、現代の私たちに『教会を築く』ことを可能にするのです。それは目に見える形態を整えるだけでなく、相互の交わりと愛によって、キリストの体である霊的な建造物を築くことです」と語られた。

 講話の最後に教皇は、信者たちに対して、「キリストの愛の真の証人」となるよう努めるように呼びかけられ、「そうすることで、すべての人々が私たちの中、そして私たちの間に、真のキリスト者を特徴づけ、教会を築き上げる慈善を見いだせるようにするためです」と説かれた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

*英語全文以下の通り。

LEO XIV GENERAL AUDIENCE St Peter’s Square Wednesday, 4 March 2026

Catechesis. The Documents of Vatican Council II. II. Dogmatic Constitution Lumen gentium. 2. The Church, a Visible and Spiritual Reality

 

Dear brothers and sisters, good morning and wecome!

Today, we will continue our exploration of the Conciliar Constitution Lumen gentium, a dogmatic Constitution on the Church.

In the first chapter, which is primarily intended to answer the question of what the Church is, she is described as a “complex reality” (no. 8). Now we ask ourselves: what does this complexity consist of? Some might answer that the Church is complex in that she is ‘complicated’ and therefore difficult to explain; others might think that her complexity derives from the fact that she is an institution steeped in two thousand years of history, with characteristics that differ from any other social or religious group. In Latin, however, the word ‘complex’ indicates rather the orderly union of different aspects or dimensions within the same reality. For this reason, Lumen gentium can affirm that the Church is a well-organized body, in which the human and divine dimensions coexist without separation and without confusion.

The first dimension is immediately perceptible, in that the Church is a community of men and women who share the joy and struggle of being Christians, with their strengths and weaknesses, proclaiming the Gospel and becoming a sign of the presence of Christ who accompanies us on our journey through life. Yet this aspect – which is also evident in its institutional organization – is not sufficient to describe the true nature of the Church, because it also has a divine dimension. The latter does not consist in an ideal perfection or spiritual superiority of its members, but in the fact that the Church is generated by God’s plan for humanity, realized in Christ.

Therefore, the Church is at the same time an earthly community and the mystical body of Christ, a visible assembly and a spiritual mystery, a reality present in history and a people journeying towards heaven (LG, 8; CCC, 771).

The human and divine dimensions integrate harmoniously, without one overshadowing the other; thus, the Church lives in this paradox. She is a reality that is both human and divine, which welcomes the sinful man and leads him to God.

To illuminate this ecclesial condition, Lumen gentium refers to the life of Christ. In fact, those who met Jesus along the roads of Palestine experienced his humanity, his eyes, his hands, the sound of his voice. Those who decided to follow him were moved precisely by the experience of his welcoming gaze, the touch of his blessing hands, his words of liberation and healing. At the same time, however, by following that Man, the disciples opened themselves to an encounter with God. Indeed, Christ’s flesh, his face, his gestures and his words visibly manifest the invisible God.

In the light of the reality of Jesus, we can now return to the Church: when we look at her closely, we discover a human dimension made up of real people, who sometimes manifest the beauty of the Gospel and other times struggle and make mistakes like everyone else. However, it is precisely through her members and her limited earthly aspects that Christ’s presence and his saving action are manifested. As Benedict XVI said, there is no opposition between the Gospel and the institution; on the contrary, the structures of the Church serve precisely for the “realization and concretization of the Gospel in our time” (Address to Swiss Bishops, 9 November 2006). An ideal and pure Church, separated from the earth, does not exist; only the one Church of Christ, embodied in history.

This is what constitutes the holiness of the Church: the fact that Christ dwells in her and continues to give himself through the smallness and fragility of her members. Contemplating this perennial miracle that takes place in her, we understand ‘God’s method’: He makes himself visible through the weakness of creatures, continuing to manifest himself and to act. For this reason, Pope Francis, in Evangelii gaudium, exhorts us all to learn “to remove our sandals before the sacred ground of the other (cf. Ex 3:5)” (no. 169). This enables us still today to build up the Church: not only by organizing its visible forms, but by building that spiritual edifice which is the body of Christ, through communion and charity among ourselves.

Indeed, charity constantly generates the presence of the Risen One. “If only we could all just let our thoughts dwell on the one thing, charity! It’s the only thing, you see, which both surpasses all things, and without which all things worth nothing, and which draws all things to itself, wherever it may be” (Sermon 354, 6, 6).

2026年3月4日

☩「憎しみを抑え、武器を用いずに解決策を求めよ」-教皇、米・イスラエルとイラクが続ける爆撃の応酬に

Pope Leo XIV in Castel Gandolfo
Pope Leo XIV gave a brief statement to journalists in Castel Gandolfo, outside the residence of Villa Barberini, once again repeating his appeal to “work for peace” and to “promote dialogue.”

(2026.3.3  Vatican News)

    教皇レオ14世は3日、ローマ郊外の別邸カステル・ガンドルフォで記者団とお会いになり、米・イスラエルとイランの爆撃の応酬で世界的な恐怖と緊張が高まる中、改めて「平和のために働き」「憎しみを抑え」「対話を促進するように」との訴えを繰り返された。

 教皇は当事国指導者たちに、平和の目標を追求するよう促され、同時に、世界のすべての人々に対しても、「真に対話を促進するよう努めること」「武器を持ちいずに解決策を求めること」を呼びかけられた。 1日の日曜の正午の祈りで教皇は、3カ国による爆撃の応酬について、「安定と平和は相互の脅威や、破壊と苦しみと死をもたらす武器の使用によって達成されるものではない。合理的で誠実かつ責任ある対話によってのみ達成されるのです」と強調されていた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2026年3月4日

☩「贖い主は歴史の傷跡を変容させる」-教皇、主の変容の主日の正午の祈りの説教で

(2026.3.1 Vatican News   Christopher Wells)

   教皇レオ14世は1日、四旬節第2主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれた「主の変容の神秘」について考察され、「贖い主キリストは、歴史の傷跡を変容させ、神の救いの賜物を明らかにされるのです」と強調された。

 説教で教皇は、イエスの変容は、「復活の光を予示しています。死と復活、闇と新たな光という出来事であり、鞭打たれ、苦痛に十字架にかけられ、見捨てられたキリストの体が全身で放つ光です」とされ、 イエスに付いて山に登った弟子たちはその栄光を見たが、「彼らが見たことを理解するには時間がかかった。沈黙の中で御言葉を聞く時間、主の交わりを享受するための回心の時間が必要でした」と述べられた。

 また教皇は、弟子たちがモーセとエリヤに象徴される律法と預言者の間に立つ、肉となった御言葉であるイエスを目の当たりにしたことに注意を向けられ、「ヨルダン川での洗礼の時と同様に、父なる神の『これはわが愛する子』という宣言の声が聞こえ、聖霊が『輝く雲』でイエスを包みます… この神の人間としての輝きの顕現により、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは、群衆の見せ物ではなく、厳かな親密さの中で示される謙虚な栄光を仰ぎ見ることができたのです」と語られた。

 そして、世の悪にもかかわらず「神の栄光をもって輝く」イエスの肉体の変容は、「救い主が歴史の傷跡を変容させ、私たちの心と知性に光を当てることを示しています。その啓示は救いの賜物です」と指摘され、「では、私たちはこのことに心を奪われるのでしょうか?驚嘆と愛の眼差しをもって神の真の御顔を見るのでしょうか?」と信者たちに問いかけられた。

 そのうえで、「父なる神が無神論の絶望に与える答えは、救い主である御子の賜物です。聖霊は、永遠の命と恵みの交わりを授けることで、不可知論の孤独から私たちを救い出し、信仰の弱さに応えて、未来の復活の約束が告げられるのです」と説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年3月1日

☩「暴力の連鎖が修復不可能な深みにはまる前に止める道義的責任を果たせ」-教皇、米イスラエルのイラン空爆、イランの反撃で関係国に

 

(2026.3.1  Vatican News  Devin Watkins)

   米国とイスラエルがイランを空爆し、これにイランが反撃するなど、中東地域で緊張が高まる中、教皇レオ14世は1日の正午の祈りで、深い懸念を表明されるとともに、関係国に対して、「平和を求める道義的責任」を果たすよう訴えられた。

 教皇は、「安定と平和は相互の脅威や、破壊と苦痛と死をもたらす兵器によって築かれるものではありません。合理的で真摯かつ責任ある対話によってのみ築かれるのです」と強調。「暴力が制御不能にエスカレートした場合に甚大な悲劇が引き起こされる」と警告された。

 そして、「計り知れない規模の悲劇が起きる可能性に直面する中で、関係諸国に対し、『暴力の連鎖が修復不可能な深みにはまる前に止める』という道義的責任を果たすよう、心からの訴えをかける」と述べて関係国が平和を求める対話に戻ることを祈られ、さらに「外交がその役割を取り戻し、正義に基づく平和的共存を望む人々の利益が促進されますように。平和のために祈り続けましょう」と信者たちに呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2026年3月1日

・「平和な心だけが、公正で永続的な平和を築くことができる」-教皇が著作「Peace Be with You!」英語版に序文

Cover of Pope Leo's book "Peace Be with You!"Cover of Pope Leo’s book “Peace Be with You!” 

(2026.2.24   Vatican News)

     2025年8月にバチカン出版局より刊行された『E pace sia!』の英語版『Peace Be with You!』が24日から、米ハーパーコリンズ社より米国と英語圏の書店で発売され、教皇レオ14世がこの英語版用に新たに寄せた序文を寄せられた。その全文を以下に掲載する。

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教皇レオ14世

 平和は、私たちの時代における大きな課題のひとつであり、贈り物であると同時に責務でもあります。それは、時代を超えて、男性と女性によって築き上げられた、神からの贈り物なのです。

 私たちは、あまりにも多くの紛争によって傷つき、血なまぐさい敵対行為に襲われている世界に住んでいます。過激なナショナリズムは最も弱い立場にある人々の権利を踏みにじります。

 戦場で打ち砕かれる以前に、私たちが利己心や貪欲に屈し、共通の利益を見据える代わりに党派的な利益を優先させる時、平和はすでに人間の心の中で敗北しているのです。

 多くの著述家が指摘するように、他者の物語に耳を傾けることを拒む時、私たちは彼らの尊厳を奪い始めるのです。他者を非人格化することは、あらゆる戦争の第一歩です。一方、他者を理解することは平和の前触れです。しかし理解するためには、まず愛する方法を知らねばなりません。聖アウグスティヌスは「友情なくして人は知られぬ」(『八十三の異論』71)と述べています。

 ここで平和の二重の次元、すなわち垂直的(天より与えられる賜物としての平和)と水平的(各人の責任としての平和)について考察したいと思います。

 平和とは、ベツレヘムにおけるイエスの誕生を通じて、あらゆる時代の男女に神が授けられた賜物です。天使たちが地上の平和を告げたのは、神が人となられたからです。神は人類を深く抱擁され、十字架によって罪の敵意を打ち砕かれました。聖アウグスティヌスはこう記しています。

 「私たちもまた、霊的な身体の復活の後、雲の中に上げられてキリストと出会うとき、この地上において善意をもって平和のために働くことを条件として、天の最も高い所におられる神にさらなる栄光をもたらす源となるでしょう」(『説教集』193)。

 神の栄光は地上に降り、私たちを神の無限の善に参与させるためでした。この賜物は、ヒッポの聖人が記すように、私たちの応答、すなわち「善意」という責任を行動へと駆り立てます。

 さらに、平和とは復活された方が弟子たちに与えられた賜物です。それは十字架の傷によって「傷つけられた」平和です。なぜなら、イエスの平和は、あらゆる時代と場所の苦しみに心を打たれ、愛する心から湧き出るものだからです。「主は復活後、弟子たちに現れ、あなたがたが聞いたとおりに『平安あれ』とご挨拶になりました。これこそ真の平安であり、救いの挨拶であります。なぜなら『挨拶』という言葉そのものが、救いからその名を授かっているからです」(聖アウグスティヌス『説教集』116)。

 しかしながら、平安はまた私たち一人ひとりに課せられた責務であり責任でもあります。平安とは、子どもたちに他者を尊重し、遊びの中でいじめないよう教えることです。平安とは、家庭や職場、スポーツの場において、自らの誇りを乗り越え、他者のための場所を創り出すことです。平和とは、私たちの心と生活が沈黙と瞑想、そして神の声に耳を傾けることで満たされる状態です。なぜなら神は決して暴力を祝福せず、他者を搾取することを認めず、創造主の慈しみである唯一無二の地球を破壊する狂乱的な乱用を決して容認されないからです。

 世界中で繰り広げられる数多くの戦争の前では、無力さを感じるかもしれません。私が「無力さのグローバル化」と呼んだものに対しては、様々な形で応答できます。信者たちは何よりもまず、祈りの声を捧げることができます。祈りは「非武装」の力であり、排除することなく、ただ共通の善のみを求めます。祈ることで、私たちは自我の武装を解き、無償の心と誠実さを持つことができるようになるのです。

 さらに、私たちの心こそが最も重要な戦場です。そこにおいてこそ、死への衝動や支配への傾向に対する、流血を伴わないが不可欠な勝利を学ばねばなりません。平和な心のみが、平和な世界を築くことができるのです。私たちは和解の文化を実践しなければなりません。非暴力のワークショップを創り出し、他者への疑念が出会う機会へと変わる場を設けるのです。心は平和の源です。そこでは、衝突ではなく出会い、不信ではなく信頼、他者への閉ざしではなく傾聴と理解を学ぶ必要があります。

 最後に、政治と国際社会には、対話と外交の技法を用いて紛争の調停を促進する責任があります。「主なる神よ、どうか私たちに御平和をお与えください…安息の平和、夕べのない安息日の平和を」―アウグスティヌスのこの言葉をもって、父なる神に、この世界、すべての人々、特に最も忘れられ、最も苦しむ人々に、公正で永続的な平和という祝福の恵みをお与えくださるようお祈りいたします。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
2026年2月25日

☩5年目に入るロシアのウクライナ侵略戦争、教皇、関係国指導者たちに「即時停戦、和平への対話強化」を改めて訴え

Aftermath of overnight Russian strikes on Kyiv and surrounding districtsAftermath of overnight Russian strikes on Kyiv and surrounding districts  (ANSA)

(2026.2.22 Vatican News  Antonella Palermo) 

 教皇レオ14世は22日、四旬節第一主日の正午の祈りに続けて、 24日で5年目に入るロシアによるウクライナ侵略戦争を念頭に、即時停戦、平和への道を開く対話の強化を、関係国指導者たちに強く訴えられた。

 教皇は、この戦争がもたらしている苦難と荒廃を生き抜こうとしている人々に思いを馳せ、「あまりにも多くの犠牲者、あまりにも多くの命と家族が打ち砕かれ、あまりにも甚大な破壊、あまりにも言葉に尽くせぬ苦しみ!あらゆる戦争は人類全体に刻まれた傷だ。死と荒廃、世代を超えて刻まれる痛みの跡を残します。平和は先延ばしにできません。私たちの心に宿り、責任ある決断へと結実すべき緊急の要請です」と強調。

 そして、全世界の信者たちに「ウクライナの苦難に直面する人々と、この戦争及び世界のあらゆる紛争によって苦しむ全ての人々のために祈りを捧げましょう。待ち望まれた平和の贈り物が、私たちの時代に輝くように」と強く促された。

*繰り返される平和への訴え

 ロシアによるウクライナ大規模侵攻開始から5年目に入ろうとしているこの日の教皇の訴えは、苦い後味を残すものの、それでもなお希望を絶やさぬものとなっている。教皇フランシスコがウクライナの殉教者たちへの深い憂いを伴い、欧州の心臓部における平和を切実に訴え続けてきた事実と一致する。レオ14世が教皇に選出直後に戦争を「無意味」と呼び、「真に公正で永続的な平和を一日も早く達成すること」の緊急性を強調した際にも、同様の訴えが繰り返された。

 教皇の祈りでは、「全ての捕虜解放と子供たちの家族への帰還」が繰り返しテーマとなっている。爆撃による被害を悪化させている厳しい冬の寒さが、特に教皇にとっての懸念だ。「武器の轟音が止み、関係諸国が国際社会の支援と関与のもと、誠実で直接的かつ敬意ある対話に臨む勇気を見いだせますように」と、主の降誕の日のメッセージでも願われていた。

*ウクライナ支援の継続と戦争犠牲者への心からの連帯

 フランシスコ教皇がなさったウクライナ国民への連帯を引き継ぎ、教皇レオはバチカンの援助担当者を通じてウクライナへ人道支援を続けている。ロシアのプーチン大統領とも電話会談をした。戦争被害者と緊密に連携する団体、前線のウクライナ兵士の母や妻、機会を奪われた子供や若者たちを受け入れた。緊急避難所にいる人々とも面会し、ウクライナからの巡礼者とも会われ、「多くの聖人の証し」と「多くの殉教者の血」に富む土地の信仰を称賛され、励まされた。

 昨年12月のウクライナのゼレンスキー大統領との謁見では、聖座が交渉の場を提供する意向を改めて表明。慎重ではあるが、首都キエフ訪問も検討している。ハイブリッド戦争の激化と市民や生活インフラへの甚大な被害が続く中で、欧州とイタリアの関与の重要性も強調されている。昨年8月末には「対話への真剣な取り組み」を望み、ウクライナ独立記念日には「暴力に傷ついた心で」戦没者遺族と避難民に哀悼の意を表明された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年2月23日

☩「四旬節を、私たちの人生を神との協力で『唯一無二の傑作』に創り上げる機会としよう」教皇、四旬節第一主日の正午の祈りで

 (2026.2.22 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

    教皇レオ14世は、四旬節の最初の主日の正午の祈りに先立つ説教で、「四旬節は、信者たちに、主によって清められ、神との協力によって自らの人生を『唯一無二の傑作』に創り上げる機会。主があなたがたを清め、浄化し、唯一無二の傑作へと変えてくださるように」と願われた。

 説教で教皇は、この日のミサで読まれたマタイによる福音書4章1₋11節を取り上げ、イエスが荒野に入り、悪魔に誘惑される場面を振り返って、「キリストは、40日間の断食の後、肉体的には飢えによって、道徳的には悪魔の誘惑によって、人間としての重みを実感された。私たちが人生の旅路で直面する葛藤と同じものを経験されました。そして、悪しき者に抵抗されることで、私たちも悪魔の欺きと罠を克服できることを示されたのです」と説かれた。

*清めと開花への四旬節の光り輝く道

 

 この出来事における個人的体験を通して、主は「四旬節を光り輝く道として捉えるように、促しておられる」とされた教皇は、「私たちは、祈りと断食と施しによって、人生という唯一無二の傑作を主と共に創り上げる協力を新たにします。これは、私たちが人生を素晴らしさの中で開花させ、愛の完全性—真の幸福の唯一の源—に達するまで、主が罪の汚れを清め、傷を癒してくださるようにすることを意味するのです」と強調。

 そして、「これは確かに厳しい旅であり、落胆したり、たやすく満足が得られるような道に引き寄せられたりする危険を常に伴うでしょう… しかし、それは、イエスご自身が遭われた同じような誘惑。単に、私たちが創造された喜びの貧弱な代用品に過ぎません。結局のところ、それらは私たちを、不満で、落ち着かず、空虚なままにしておくのです」と信者たちに注意を与えられた。

*悔い改めは清め

 また教皇は聖パウロ六世の言葉を取り上げ、「『悔い改めは、人間性を貧しくするどころか、愛と神への献身を目標とする地平へ向かう過程で、それを豊かにし、清め、強める』と教えておられます。悔い改めは私たちの限界を自覚させると同時に、限界を克服する力を与え、神の助けによって、神と、そして互いとのより深い交わりの中で生きることを可能にするのです」と説かれた。

*テレビやラジオ、携帯を消し、沈黙の空間を作ろう

 

 さらに教皇は、「(四旬節という)恵みの時に、祈りと慈しみの業と共に、惜しみなく悔い改めを実践しましょう… テレビやラジオ、携帯電話をしばらく消し、沈黙の空間を作りましょう。神の言葉を黙想し、秘跡に近づき、私たちの心に語りかける聖霊の声に耳を傾けましょう」と信者たちに呼びかけられた。

 そして、「家族や職場、地域社会で互いに耳を傾ける必要があります… 特に孤独な人々、高齢者、貧しい人々、病める人々に特別な配慮をするように」と促された。

*四旬節の歩みを聖母マリアに託す

 教皇はまた、「余分なものを断つことで、節約した分を困っている人々と分かち合うことができます… そうすることで、聖アウグスティヌスが教えたように、アウグスティヌス派の教皇が強調したように、このようにして捧げられた祈りは、天に届き、私たちに平安をもたらすのです」と強調。

 最後に、「試練の時、常に子供たちを支える聖母マリアが、四旬節の歩みにおいて私たちを助けてくださいますように」と懇願し、説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年2月23日

☩「現代の”矛盾”の中で、教会と信者は”福音の酵母”とならねばならない」教皇、ローマの中心地区の教会を司牧訪問

(2026.2.22 Vatican News   Edoardo Giribaldi)

 教皇レオ14世は四旬節第一主日の22日、ローマの中心部、カストロ・プレトリオ地区の聖心教会を訪問され、教区民と面談。説教の中で、「多くの困難に直面するこの地域で、”福音の酵母”となるように」と信者たちに促された。

 教皇は説教で「親密さ」と「慈愛」こそが、この地域を特徴づける「蔓延する暴力」に対する防壁であるべきだ、と述べられた。この地域は暗いニュースで頻繁に報道されている。教皇の言葉は、難民や病者、傷を負った男女の物語を想起させる。そして、「ほんの数メートルの距離で、この時代の矛盾に触れられる」と語られた。この地区では、最も困窮する人々のすぐそばで、テルミニ駅で列車に駆け込む人々も存在するのだ。

 おそらく、その”忘れられた充電器”の中にこそ―家を失った者か、一夜だけの宿を見つける者が置き忘れたものかもしれないが―教皇が呼びかける「身近さ」の真の意味が宿っている。教会とは祭壇の傍らの避難所ではなく、食事であり、温かい水であり、数時間だけ繋がれるコンセントなのだ。

*教皇の到着

 22日の早朝。教会のあるマルサラ通りは、駅へと続く広いアトリウムが封鎖されたが、信徒たちの流れは熱心に動き、聖堂前の広場を埋め尽くしている。黄金と白の横断幕―バチカン市国の旗の色―が景観を支配し、「教皇レオ14世ようこそ」と記されている。その隣には、教皇と背景に聖ヨハネ・ボスコを写したクローズアップ写真が額装されたパネルが掲げられた。

 信徒たちの姿は、教皇がバジリカで司式したミサの説教で語った「矛盾」を可視化している。カテキズムの子供たちは大きなジャケットに身を包み、教区の様々な団体や組織の代表者も多数集まっている。例えば「リスニングセンター」は、心の悩みを抱える人々が心理的支援を求める場所だ。あるいは「タレントバンク」というボランティア。グループは、金曜の夜にホームレスに食料や飲み物を配っている。

 教区コミュニティに存在する三つの修道会から修道女たちも参加している。ドン・ボスコのサレジオ会修道女、至聖なる聖体のフランシスコ宣教修道女会、復活のキリスト宣教修道女会だ。

*困窮する者たちの驚嘆

 

 午前8時15分、待ち時間が終わる。即興の拍手が野火のように広がり、携帯電話が空中に掲げられる。教皇レオ14世が大聖堂に隣接する中庭に姿を現した。教皇は手を差し伸べ、人々の視線をとらえる。結婚を控えたカップルが「結婚します。祝福をください」と記した看板を掲げると、教皇はそれに応えられた。教皇は群衆に挨拶され、子供たちや教区が支援する困窮者たちにも微笑まれた。「これほど多くの子供たちが集まっているのは素晴らしい!彼らに拍手を!人生の喜びを生きること、生きていることの美しさ、主が与えてくださるこの命の賜物を感謝しましょう」と。

 教皇は冒頭の挨拶で、2014年に前任者のフランシスコ教皇が同教区を訪問した際に称賛したのと同じ「温かい歓迎」を目の当たりにした、とされ、「主が私たちと出会い、歓迎してくださることを、この教区がそうであるように、私たちは皆知っている!誰もが歓迎される場所にいられるとは、なんと素晴らしいことでしょう!皆さん、この教区に感謝します!」と感謝を述べられた。

*「今朝、私たちをここに集めたのは、イエスの愛、その慈悲である」

 

 中庭の拍手の中、教皇は教会の名そのものに思いを巡らせ、「それは心臓を連想させます… 愛の象徴、慈愛の象徴、主の愛のこの限りない寛大さの象徴です。この寛大さは障壁を知らず、国籍さえも超える。大聖堂の中庭に集まった千人もの人々には、多くの国々が代表されているからです」とされ、「彼らはこの一致、交わり、兄弟愛、この共生を体現しています。それはイエスだけが可能にするものです… イエスの愛、その慈悲こそが、今朝私たちを一つに集めたのです」と強調された。

 続いて教皇は、参列したサレジオ会の共同体を歓迎され、その歴史の価値について考察、「会の歴史は、単に過去を振り返るだけでなく、現在の活動に勢いを与えるものです。奉仕と慈善、若者との協働というこの素晴らしい伝統において」と述べられた。

*自由の再発見

 集まった信徒の中には、復活徹夜祭で秘跡を受ける5人の求道者も含まれていた。教皇はミサ中の説教の初めに、彼らを「すべての人に関わる新たな始まりのしるし」とされ、「特にこの四旬節の季節に、私たちは洗礼の恵みを再発見するよう招かれている。それは私たちの内に宿り、私たちの自由を最大限に尊重しつつ、力強く私たちと共に歩む命の源だからです」と説かれた。

 また教皇は、エデンの園から荒野のイエスに至る古くからの誘惑である「人間の自立」というドラマについて語られ、「福音書は、この永遠のジレンマに答えを示しているようです。神に『はい』と言うことで、私は人生を最大限に生きられるのでしょうか? それとも、自由で幸せになるためには、神から自らを解放しなければならないのでしょうか?」と信者たちに問いかけられた。

*教会は”親密さ”の砦だ

 

 これらの問いは抽象的なままではなく、教区が組織する慈善活動を通じて日々他者に奉仕することを選ぶ人々の具体的な行動の中で、再び形を成す。教皇は「この教会を建設するよう、聖ヨハネ・ボスコに依頼したのはレオ13世でした。『都市の唯一の交差点に、時を経てさらに重要となる運命にある場所』に建てられるべきものだったのです」と指摘された。

 そして、教皇は、カストロ・プレトリオ地区について「信者たちが様々な課題に直面する中で、一人ひとりが、『親密さの砦』であると見ています」とされ、同地区が「数多くの若い大学生、通勤で往来する人々、職を求める移民、そしてサレジオ会の取り組みのおかげでイタリアの同世代と出会い、統合プロジェクトを遂行する機会を得た若い難民たちの住み家」であることを強調。

*地区が抱える”矛盾”

 

教皇はまた「住む家を持たない兄弟たち」にも焦点を当てられた。彼らは、ヴィア・マルサラのカリタス保護施設を訪れ、「ドン・ルイジ・ディ・リエグロ」宿泊所で寝床を得る人々だ。「ほんの数メートルの距離に、この時代の”矛盾”が凝縮されている。快適な生活を送る人々が行き交う一方で、屋根のない人々がいる。善の潜在的可能性と蔓延する暴力。誠実に働きたいという願いと、麻薬や売春といった違法取引です」と述べられた。そして、信者たちに、「この土地という”生地”の中で”福音の酵母”ように」と願われた。

 

 

*教皇への贈り物

 ミサには、ローマ総代理のバルド・レイナ枢機卿、同教区の名誉司教でカトリック教育省元長官のジュゼッペ・ヴェルサルディ枢機卿、サレジオ会総長のファビオ・アッタール神父、中部イタリア管区長のロベルト・コラメオ神父、教区司祭のハビエル・オルティス・ロドリゲス神父らが共同司式の形で参加。

 オルティス神父はミサ後に、教皇に聖心のイコンを贈り、司牧訪問への感謝を述べた。そして、この訪問が地域を苦しめる「社会的傷」への癒しとなるだけでなく、「平和と希望、そして共同体を築くためのキリスト教的献身に満ちた高速列車のような牧会プロジェクトの再始動」となり、すべての人々に届くことを願っていると語った。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年2月22日

☩「世界の現状は、死を実態として直視し、復活の証しを立てることを私たちに求めている」教皇、灰の水曜日ミサで

(2026.2.18  Vatican News   Joseph Tulloch)

 教皇レオ14世は18日夜(日本時間19日未明)、ローマのサンタ・サビーナ聖堂で灰の水曜日のミサを司式された。ミサ中の説教で教皇は、悔い改め、共同体、そして死について考察され、参列者が額に受けようとしている灰は、「燃え盛る世界の重さ、戦争によって破壊された都市全体の重さ」を思い起こさせる、と指摘。「この灰の水曜日は、世界の現状は、私たちに「死をその本質として直視し、その刻印を胸の内に抱くことを求めています」と強調された。

The Basilica of Saint Sabina in Rome during the Mass

*公の罪と私的な罪

 灰の水曜日は四旬節の初日であり、四旬節は復活祭前の40日間の断食と祈りの期間を指す。教皇は「これは共同体にとって力を強める時。現代世界では共同体が希薄化していますが、四旬節は、人々を『自らの罪を認める証人の共同体』として集結させます」と語られた。

 そして、「その罪は個人的なものと共同体のもの。罪は私たちの心を苦しめ、私たちの中に存在しますが、同時に、それはより広範な『罪の構造』の中で生じ、その性質は、経済的、文化的、政治的、さらには宗教的なものとなり得ます」とされ、四旬節は、「悔い改めと変化を通じて、全ての罪から自由になる勇気を持つことを意味するのです」と強調された。

*四旬節の「宣教的意義」

 さらに教皇は、「現代の世俗化された時代に、このメッセージは、特に若者にとって魅力的です… 若者たちは、「教会や世界における不正行為には、(その当事者に)説明責任が求められること」を特に明確に理解しています」とされ、したがって、「私たちキリスト教徒は、四旬節を個人的な信仰行為として捉えるのではなく、人生を真に刷新する道を模索する多くの善意の人たちに四旬節を紹介する方法を模索する必要があります」と説かれた。

 

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教皇の説教の全文は以下の通り。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

 四旬節の始まりに際し、私たちは教会であることの恵み、すなわち神の御言葉に耳を傾けるために集う共同体であることを、喜びをもって再発見します。

 預言者ヨエルの声は私たちに語りかけ、一人ひとりを孤立から解き放ち、常に個人的かつ公的なものである回心の緊急性を示します。「民を集め、会衆を聖別し、長老たちを招集せよ。幼子や乳飲み子を集めよ」(ヨエル書2章16節)。彼は最も脆弱で大規模な集会には不向きな者たち、すなわち欠席を容易に正当化できる者たちを挙げます。

 預言者はさらに夫婦に言及します。夫婦の私的な生活の場から呼びかけ、より大きな共同体の一員であることを自覚させるかのようです。次に祭司たちに目を向けます。彼らはすでに、いわば義務として「神殿の入り口と祭壇の間」(同17節)に立っています。祭司たちは涙を流し、すべての人々の代わりに、このふさわしい言葉を述べるよう、招かれています。「主よ、あなたの民を憐れんでください!」 (同)。

 今日においても、四旬節は共同体にとって力強い時であり続けています。「民を集め、よ。会衆を聖別せよ」(同16節)。私たちは、人々を集め、彼らに共同体としての意識を持たせることが、ますます困難になっていることを知っています。それは、国家主義的で攻撃的な意味ではなく、私たち一人ひとりが自分の居場所を見出す交わりの共同体としての意味です。

 確かに、四旬節の間には、自らの罪を認める民が形成されます。これらの罪は、いわゆる「敵から来た悪」ではなく、私たちの心を苦しめ、私たちの内に存在するものです。私たちは勇気をもってその責任を受け入れることで応える必要があります。さらに、この姿勢が反文化的である一方で、特に燃え盛る世界の前に無力感を抱きやすい現代において、真摯で誠実かつ魅力的な選択肢であることを受け入れねばなりません。まさに教会は、自らの罪を認める証人の共同体として存在するのです。

 当然ながら、罪は個人的なものです。しかしそれは、現実と仮想の両方の生活環境において、互いに影響し合う私たちの相互関係の中で、そしてしばしば、現実の経済的・文化的・政治的、さらには宗教的な「罪の構造」の中で形作られます。

 聖書は教えています。生ける神への礼拝をもって偶像崇拝に対抗するとは、自由であることを敢えて選び、出エジプトの旅路を通じて自由を再発見することであると。そこでは、私たちはもはや自らの立場に麻痺したり、硬直したり、安住したりすることなく、共に集い、動き、変化していくのです。悔い改める大人、過ちを認める個人や企業、機関に出会うことが、なんと稀なことでしょうか。

 本日、私たちはまさにこの悔い改めの可能性について省察しています。実際、世俗化された状況においても、多くの若者が、かつて以上に灰の水曜日の招きに心を開いているのは、偶然ではありません。特に若者は、正義にかなった生き方が可能であること、教会や世界における過ちには説明責任が伴うべきであることを明確に理解しております。ゆえに私たちは、身近な人々から始められるところから着手しなければなりません。

 「今こそ、恵みの時、救いの日」(コリントの信徒への手紙二 6章2節)です。ですから、四旬節の宣教的意義を、個人の努力から目をそらすものではなく、神の王国とその正義の文脈の中で、人生を真に刷新する道を模索する多くの善意ある人々へ、この季節を紹介する手段として受け止めましょう。

 「どうしてもろもろの民に『彼らの神はどこにいるのか』と言わせておかれるのですか」(ヨエル書2章17節)。預言者の問いは警告です。それはまた、特に神の民を外から観察する人々を含む、他者が私たちについてどう考えているかを思い起こさせます。四旬節は、私たちの宣教をより信頼できるものとする方向転換—回心—へと私たちを促すのです。

 60年前、第二バチカン公会議閉会から数週間後、聖パウロ六世は、聖ペトロ大聖堂での一般謁見で、灰の儀式を公に執り行うことを決断されました。それは、本日、私たちが執り行うこの行為が、すべての人々の目に触れるようにするためでした。教皇はこれを「厳しく印象的な悔悛の儀式」(パウロ6世、一般謁見、1966年2月23日)と呼び、「常識に反すると同時に、現代文化の要求に応えるもの」と語られました。「現代において、この教授法がなお理解可能かどうか、自問するかもしれません。私たちは肯定的に答えます。なぜならこれは現実的な教授法だからです。これは厳しい真実の喚起であり、私たちの存在と運命を正確に認識させるものだからです。」

 パウロ六世は、この「悔悛の教授法は、現代人を二つの点で驚かせる」と語られました。第一は「人生の実態とその価値について、現代人が持つ驚くべき幻想・自己暗示・体系的な自己欺瞞の能力」です。第二の側面は、パウロ六世が至る所で発見した「根本的な悲観主義」です。彼はこう言われました。「今日、哲学、文学、娯楽が我々に提供する素材の大半は、あらゆるものの避けがたい虚しさ、人生の計り知れない悲しみ、不条理と無の形而上学を宣言することで、結末を迎える。この素材こそが、灰の使用を正当化するのです」。

 今日、私たちは、彼の言葉が予言的であったことを認めざるを得ません。なぜなら、私たちに課せられた灰の中に、「燃え盛る世界の重み、戦争によって破壊された都市全体の姿」を見出すからです。これはまた、国際法と民族間の正義の灰、生態系全体と民族間の調和の灰、批判的思考と古来の地域の知恵の灰、あらゆる被造物に宿る神聖なる感覚の灰にも、反映されています。

 「彼らの神はどこにおられるのか?」と人々は自問します。そうです、親愛なる友よ、歴史は、そして何よりも私たちの良心は、死をその実態として直視し、その痕跡を内に抱えつつ、復活の証しを立てることを私たちに求めています。私たちは回心するために自らの罪を認めます。これ自体が復活のしるしであり証しなのです。

 つまり、私たちは灰の中に留まることなく、立ち上がり再建するということです。そうして四旬節の旅の頂点として祝う復活祭三日祭は、その素晴らしさと意味を解き放つでしょう。悔い改めを通して、死から命へ、無力さから神の可能性へと移り行く過程に参与するなら、それは実現するのです。

 古代から現代に至る殉教者たちは、復活祭へ向かう私たちの旅路において先駆者として輝いています。四旬節の「ステーション」(stationes)という古代ローマの伝統―本日、(四旬節は)最初のステーションから始まります―は示唆に富んでいます。それは巡礼者として移動することと、ローマのバジリカが建つ殉教者たちの「記憶」の場所に立ち止まること(statio)の両方を指しています。これは、今や世界中に存在する信仰の立派な証人たちの足跡をたどるよう招いているのではないでしょうか。

 祝福の道を自ら選び、その道を最後まで歩んだ人々の場所、物語、そして名を思い起こしましょう。彼らの人生は数えきれない種であり、たとえ散らされたように見えても、大地に埋もれ、私たちが収穫するよう招かれている豊かな実りを準備してきたのです。

 四旬節は、福音朗読で見たように、「何としても人に見られたい」という欲求から私たちを解放し(マタイ福音書6章2,5,16節参照)、代わりに、生まれつつあるもの、成長しているものを見ること、そしてそれに仕えることを、教えてくれます。それは、断食し、祈り、愛する者たちの秘められた中で、命の神、私たちの父でありすべての者の父である方と結ばれる深い調和なのです。慎み深く、喜びをもって、私たちの人生と心のすべてを、神に向け直しましょう。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の翻訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

 

2026年2月19日

◎教皇連続講話『第二バチカン公会議を学び直す』⑦「教会は知覚することのできる神秘」

Pope Leo XIV at General AudiencePope Leo XIV at General Audience  (@Vatican Media)

(2026.2.18 Vatican News   Deborah Castellano Lubov ) 

 教皇レオ14世は18日の水曜恒例一般謁見で『第二バチカン公会議を学び直す』をテーマとする連続講話で、第二バチカン公会議の神の啓示に関する教義憲章『Lumen Gentium』についての考察を続けられ、教会が「知覚することのできる神秘」であることを強調された。

 ここ数週間、教皇は「公会議で最も素晴らしく重要な文書の一つ」とされる教義憲章について考察された。これまで「神の啓示」の様々な側面を考察してきたことを振り返られ、特に「神が自らを啓示される方法を示し、御子イエス・キリストを通して全ての人を御自身に結ぶという神の計画の愛に満ちた神秘を明らかにされたこと」を指摘。

 そして、「この神秘の中にこそ、教会の起源と使命の両方を理解することができるのです」と説かれた。

*『教会憲章』と教会の神秘

 続けて教皇は、第二バチカン公会議が教会を描写しようとした際、まず第一にその起源を説明することに注力したことに注目され、「そのために、1964年11月21日に承認された教義憲章で、公会議は聖パウロの書簡から『神秘』という用語を引用したのです… この言葉を選んだのは、教会が『何か不明瞭で理解不能なものだ』という意味でも、一般的に『神秘』という言葉を聞いて連想するような意味でもありません。聖パウロがこの言葉を使う時、特にエフェソの信徒への手紙で、彼は『かつて隠されていたが、今や明らかにされた現実』を指し示そうとしているのです」と語られた。

 そして、この言葉が神の計画を指すことを強調され、「神の計画には目的があります。すなわち、イエス・キリストの和解の業によって、すべての被造物を一つにすること。この業はイエスの十字架上の死によって成し遂げられたのです」とされたうえで、「このことはまず第一に、典礼の祝典のために集まった共同体の中で体験されます。そこでは、差異は相対化され、重要なのは共にいること。なぜなら私たちは、人と人、社会集団との間の隔ての壁を打ち壊したキリストの愛に引き寄せられているからです」と説かれた。

*キリストは分裂を克服する

 また、「聖パウロにとって、『神秘』とは、神が全人類のために成し遂げようとしたことの顕現であり、それは地域的な経験の中で知らされ、次第に拡大して全ての人類、さらには宇宙までも包含するものです」と指摘され、「人類の状況は今、分裂状態にある。たとえ心に一致への傾向が宿っていても、人間には修復できない分裂ですが、イエス・キリストの御業は聖霊の力によってこの状況に入り込み、分裂の勢力を打ち破るのです…」と強調。

 「福音の宣教を信じて集い、祝うことは、キリストの十字架が及ぼす引力として経験されます。十字架は神の愛の究極の現れであり、神によって『共に呼ばれている』と感じること。だからこそ、教会は『ecclesia』―共に招かれたことを自覚する人々の集まり―と呼ばれるのです。したがって、この『神秘』と『教会』の間には一定の符合があります。『教会』とは、この『神秘』が知覚可能となった姿です」と語られた。

*しるしであり道具である

 この観点から、教皇は、この救いの計画における教会の役割を、「しるし」であり「道具」となること、とされ、「教会共同体は、キリストが十字架と復活によって確立した一致を現代の世界に可視化するための『しるし」であり、また神が『人々を御自身と結び合わせ、一つに集める』という目的を達成される手段であり、『道具』なのです」と説かれた。

 講話の最後に教皇は、「分裂の只中にあるこの世を歩む私たちの教会を、聖化と和解の使命において主が導き続けてくださるよう祈りましょう」と呼びかけられた。

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*講話の全文以下の通り。

II. 教義憲章『諸国民の光』。1. 教会という神秘、神との結合の秘跡、そして全人類の統一性

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。おはようございます。ようこそお越しくださいました。

 第二バチカン公会議(その文書が私たちのカテケージス(教理教育)シリーズの焦点となっています)が教会を描写しようとしたとき、まず第一に、その起源がどこにあるのかを説明することに重点を置きました。そのために、1964年11月21日に承認された教義憲章ルメン・ゲンティウムにおいて、聖パウロの書簡から「神秘」という用語を採用しました。この言葉を選んだのは、教会が何か不明瞭で理解不能なものであると主張するためではありません。むしろその逆です。実際、聖パウロがこの言葉を用いる際、特にエフェソの信徒への手紙において、彼はかつて隠されていたが今や明らかにされた現実を指し示そうとしています。

 それは神の計画を指しており、その目的は、イエス・キリストの贖いの御業によってすべての被造物を一つに結ぶことです。この御業は、十字架上の死によって成し遂げられました。この神秘は、まず典礼の祝典のために集う共同体において体験されます。そこでは差異が相対化され、重要なのは共にいることです。なぜなら私たちは、人と人、社会集団との間の隔ての壁を打ち壊したキリストの愛(エフェソの信徒への手紙2:14参照)に引き寄せられているからです。聖パウロにとって、神秘とは神が全人類のために成し遂げようとしたことの顕現であり、それは地域的な経験の中で知らされ、次第にすべての人類、さらには宇宙全体へと広がっていくものです。

 人類の状態は断片化であり、その修復は人間の力では不可能です。とはいえ、人々の心には一致への傾向が宿っています。イエス・キリストの御業はこの状態に介入し、聖霊によって分裂の力と分裂をもたらす者そのものを打ち破られます。福音の宣教を信じた者たちが集い、祝うことは、神の愛の究極的な現れであるキリストの十字架が及ぼす引力として体験されるのです。それは神によって共に招かれるという感覚です。だからこそ「エクレシア(ekklesía)」という語が使われるのです。すなわち、共に招かれたことを認識する人々の集まりです。したがって、この神秘と教会との間には一定の繋がりがあります。教会とは、この神秘が知覚可能となった姿なのです。

 まさに神によってもたらされるものであるゆえに、この招集は特定の人々の集団に限定されるものではなく、むしろすべての人間の経験となるべく定められているのです。したがって、第二バチカン公会議は、教令『教会憲章』の冒頭で次のように述べています。「教会は、キリストにおいて、神との密接な結合と全人類の統一とを示す、またそれらを実現する秘跡(サクレメント)であり、しるしであり、道具である」(第1項)。「秘跡」という用語とその説明を通じて、人類の歴史において教会が神の御心を現すものであることが示されています。

 したがって、教会を見つめることによって、私たちはある程度、神の計画、すなわち神秘を把握することができるのです。この意味で、教会はしるしです。さらに「秘跡」という用語に「道具」という語が加えられているのは、教会が能動的なしるしであることを示すためです。実際、神が歴史の中で働かれるとき、その御業の受け手である人々を御自身の活動に巻き込まれます。神が人々をご自身と結びつけ、互いに再結合させるという目的を達成されるのは、教会を通してなのです。

 神との結合は、人間同士の結合に反映されます。これが救いの体験です。巡礼の教会における終末論的性質を扱った『教会憲章』第7章第48項が、教会を「救いの」という限定付きで秘跡と描写しているのは偶然ではありません。「キリストは、地上から上げられたことにより、すべての人を御自身のもとに引き寄せられました(ヨハネ12:32参照)。

 死からよみがえられ(ローマ6:9参照)、御自身の命を与える霊を弟子たちにお与えになり、御自身を通して、教会という御体の、すなわち普遍的な救いの秘跡を確立されました。父の右の座に着かれ、御自身に人々を導き、教会を通して御自身と結びつけ、御自身の体と血をもって養い、御自身の栄光のいのちにあずからせるために、御自身は絶えずこの世で活動しておられます」。

 この文章は、受難・死・復活の神秘であるイエスの過越の統一的行為と、教会の同一性との関連性を理解させてくれます。同時に、私たちは、復活したキリストの体であり、歴史の中を巡礼する唯一の神の民である教会に属していることに感謝させられます。教会は、依然として分裂した人類の只中にあって、聖化の現存として、また諸民族の間の統一と和解の有効なしるしとして生きているのです。

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2026年2月18日

☩「紛争で苦しむ世界に、生命と健康を増進させ、共通善を深める努力を」教皇、生命科学アカデミー総会参加者に

Pope Leo XIV meets with members of the Pontifical Academy for LifePope Leo XIV meets with members of the Pontifical Academy for Life  (@Vatican Media)

(2026.2.16 Vaticaqn news   Isabella H. de Carvalho)

 教皇レオ14世は16日、教皇庁生命アカデミーの総会参加者に向けて講話をされ、「紛争に苦しむ世界において、私たちは時間と資源を割いて生命と健康を増進するとともに、共通善への理解を深めることで不平等に対処しなければなりません」と説かれた。

 講話で教皇はまず、「今日、私たちは病院を含む民間施設を標的とする戦争にさらされています。これは人間の手による、生命と公衆衛生に対する最も深刻な打撃です」とされ、「紛争に傷つけられた世界で、武器やその他の軍事装備の生産に膨大な経済的・技術的・組織的資源が費やされています。このような状況の中で、生命と健康を守るために時間と人材と専門知識を捧げることが、これまで以上に重要となっています」と強調された。

 教皇庁生命アカデミーの総会は「すべての人々のための医療:持続可能性と公平性」をテーマに、16日から17日にかけてローマで開かれている。教皇はこのテーマに賛意を示され、「生命と健康は万人のために等しく基本的な価値、と言われることが多い。しかし、不平等を決定づける構造的原因や政策を無視するなら、この主張は偽善的です…反対の宣言や声明があるにもかかわらず、すべての命が等しく尊重されているわけではなく、健康もまた、すべての人に対して同じように保護され、促進されているわけではない」と指摘された。

 そして、「健康と生活の質に関して、コミュニティが置かれている状況は、所得、教育、居住地域といった変数に影響を与える社会的・環境的政策がもたらす結果としてある… 世界のそれぞれの国や社会集団における平均寿命と健康の質を比較すると、甚大な不平等が明らかになります」と語られた。

 教皇はこの点において、「すべての人の健康と個人の健康が結びついていることを認識する重要性」を強調され、新型コロナの世界的大感染がこの現実をいかに示したかを指摘されたうえで、「私たちの責任は、疾病の治療や医療への公平なアクセスを確保するための措置を講じるだけでなく、健康が複合的な要因によって影響を受け促進されることを認識し、その複雑性を検証し対処することにあります」と言明。

 これをモザイクに例え、「医学、政治、倫理、経営など様々な分野が一体となって包括的な課題に立ち向かい、解決策を見出すことが必要」とされ、「目先の利益ではなく、すべての人にとって最善となるもの」に焦点を当てるべき、と語られた。

 さらに、教皇は「ワン・ヘルス」という概念の推進の重要性を強調され、「これは、環境的側面と、様々な生命形態と生態学的要因の相互依存性を重視し、それらの均衡ある発展を可能にするもの。『ワンヘルス』は、健康問題に対する世界的・学際的・統合的アプローチの基盤となり得る。それは、人間の生命が他の生き物なしには理解不能、かつ持続不可能であることを、私たちに思い起こさせるものです」と説かれた。

 また、公衆衛生の観点から、「この概念は、あらゆる政策(交通、住宅、農業、雇用、教育など)への健康配慮の統合を求めるものでもあります」とされた。

 続けて教皇は、「したがって、この概念を推進するためには「共通善への理解と促進を強化する必要がある。そうすることで、特定の個人や国家の利益に屈することがなくなります… 共通善は、カトリック教会の社会教説の基本原則の一つであり、人々の間の緊密な関係や社会成員間の絆の育成に根ざしていることを認識しなければ、抽象的で無関係な概念に留まる危険性があります」と注意された。

 そして、「これが効率性、連帯、正義を統合する『民主的な文化』が育まれる基盤です」と指摘され、すべての人々に向かって、「支援と他者への親密さとしてのケアという根本的な姿勢を再発見するように」と呼びかけられ、「それは、誰かが困窮しているから、あるいは病気だから、という理由だけではなく、すべての人間に共通する脆弱性を経験しているからです」と付け加えられた。

 さらに、「この方法によってのみ、資源が限られている世界において、あらゆる医療ニーズを満たし、科学に対する誤った情報や懐疑論にもかかわらず、医療と医療専門家への信頼を回復できる、より効果的で持続可能な医療制度を発展させることができるのです」と強調された。

 そして、この点に関し、紛争を予防し、いかなる主体も「力による思考」で他者を圧倒することがないよう、国際的・多国間関係の強化を改めて呼びかけられ、「この視点は、健康の保護と促進に取り組む超国家的組織による協力と調整にも適用されます」と結論づけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2026年2月17日