教皇レオ14世は18日夜(日本時間19日未明)、ローマのサンタ・サビーナ聖堂で灰の水曜日のミサを司式された。ミサ中の説教で教皇は、悔い改め、共同体、そして死について考察され、参列者が額に受けようとしている灰は、「燃え盛る世界の重さ、戦争によって破壊された都市全体の重さ」を思い起こさせる、と指摘。「この灰の水曜日は、世界の現状は、私たちに「死をその本質として直視し、その刻印を胸の内に抱くことを求めています」と強調された。
*公の罪と私的な罪
灰の水曜日は四旬節の初日であり、四旬節は復活祭前の40日間の断食と祈りの期間を指す。教皇は「これは共同体にとって力を強める時。現代世界では共同体が希薄化していますが、四旬節は、人々を『自らの罪を認める証人の共同体』として集結させます」と語られた。
そして、「その罪は個人的なものと共同体のもの。罪は私たちの心を苦しめ、私たちの中に存在しますが、同時に、それはより広範な『罪の構造』の中で生じ、その性質は、経済的、文化的、政治的、さらには宗教的なものとなり得ます」とされ、四旬節は、「悔い改めと変化を通じて、全ての罪から自由になる勇気を持つことを意味するのです」と強調された。
*四旬節の「宣教的意義」
さらに教皇は、「現代の世俗化された時代に、このメッセージは、特に若者にとって魅力的です… 若者たちは、「教会や世界における不正行為には、(その当事者に)説明責任が求められること」を特に明確に理解しています」とされ、したがって、「私たちキリスト教徒は、四旬節を個人的な信仰行為として捉えるのではなく、人生を真に刷新する道を模索する多くの善意の人たちに四旬節を紹介する方法を模索する必要があります」と説かれた。
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教皇の説教の全文は以下の通り。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、
四旬節の始まりに際し、私たちは教会であることの恵み、すなわち神の御言葉に耳を傾けるために集う共同体であることを、喜びをもって再発見します。
預言者ヨエルの声は私たちに語りかけ、一人ひとりを孤立から解き放ち、常に個人的かつ公的なものである回心の緊急性を示します。「民を集め、会衆を聖別し、長老たちを招集せよ。幼子や乳飲み子を集めよ」(ヨエル書2章16節)。彼は最も脆弱で大規模な集会には不向きな者たち、すなわち欠席を容易に正当化できる者たちを挙げます。
預言者はさらに夫婦に言及します。夫婦の私的な生活の場から呼びかけ、より大きな共同体の一員であることを自覚させるかのようです。次に祭司たちに目を向けます。彼らはすでに、いわば義務として「神殿の入り口と祭壇の間」(同17節)に立っています。祭司たちは涙を流し、すべての人々の代わりに、このふさわしい言葉を述べるよう、招かれています。「主よ、あなたの民を憐れんでください!」 (同)。
今日においても、四旬節は共同体にとって力強い時であり続けています。「民を集め、よ。会衆を聖別せよ」(同16節)。私たちは、人々を集め、彼らに共同体としての意識を持たせることが、ますます困難になっていることを知っています。それは、国家主義的で攻撃的な意味ではなく、私たち一人ひとりが自分の居場所を見出す交わりの共同体としての意味です。
確かに、四旬節の間には、自らの罪を認める民が形成されます。これらの罪は、いわゆる「敵から来た悪」ではなく、私たちの心を苦しめ、私たちの内に存在するものです。私たちは勇気をもってその責任を受け入れることで応える必要があります。さらに、この姿勢が反文化的である一方で、特に燃え盛る世界の前に無力感を抱きやすい現代において、真摯で誠実かつ魅力的な選択肢であることを受け入れねばなりません。まさに教会は、自らの罪を認める証人の共同体として存在するのです。
当然ながら、罪は個人的なものです。しかしそれは、現実と仮想の両方の生活環境において、互いに影響し合う私たちの相互関係の中で、そしてしばしば、現実の経済的・文化的・政治的、さらには宗教的な「罪の構造」の中で形作られます。
聖書は教えています。生ける神への礼拝をもって偶像崇拝に対抗するとは、自由であることを敢えて選び、出エジプトの旅路を通じて自由を再発見することであると。そこでは、私たちはもはや自らの立場に麻痺したり、硬直したり、安住したりすることなく、共に集い、動き、変化していくのです。悔い改める大人、過ちを認める個人や企業、機関に出会うことが、なんと稀なことでしょうか。
本日、私たちはまさにこの悔い改めの可能性について省察しています。実際、世俗化された状況においても、多くの若者が、かつて以上に灰の水曜日の招きに心を開いているのは、偶然ではありません。特に若者は、正義にかなった生き方が可能であること、教会や世界における過ちには説明責任が伴うべきであることを明確に理解しております。ゆえに私たちは、身近な人々から始められるところから着手しなければなりません。
「今こそ、恵みの時、救いの日」(コリントの信徒への手紙二 6章2節)です。ですから、四旬節の宣教的意義を、個人の努力から目をそらすものではなく、神の王国とその正義の文脈の中で、人生を真に刷新する道を模索する多くの善意ある人々へ、この季節を紹介する手段として受け止めましょう。
「どうしてもろもろの民に『彼らの神はどこにいるのか』と言わせておかれるのですか」(ヨエル書2章17節)。預言者の問いは警告です。それはまた、特に神の民を外から観察する人々を含む、他者が私たちについてどう考えているかを思い起こさせます。四旬節は、私たちの宣教をより信頼できるものとする方向転換—回心—へと私たちを促すのです。
60年前、第二バチカン公会議閉会から数週間後、聖パウロ六世は、聖ペトロ大聖堂での一般謁見で、灰の儀式を公に執り行うことを決断されました。それは、本日、私たちが執り行うこの行為が、すべての人々の目に触れるようにするためでした。教皇はこれを「厳しく印象的な悔悛の儀式」(パウロ6世、一般謁見、1966年2月23日)と呼び、「常識に反すると同時に、現代文化の要求に応えるもの」と語られました。「現代において、この教授法がなお理解可能かどうか、自問するかもしれません。私たちは肯定的に答えます。なぜならこれは現実的な教授法だからです。これは厳しい真実の喚起であり、私たちの存在と運命を正確に認識させるものだからです。」
パウロ六世は、この「悔悛の教授法は、現代人を二つの点で驚かせる」と語られました。第一は「人生の実態とその価値について、現代人が持つ驚くべき幻想・自己暗示・体系的な自己欺瞞の能力」です。第二の側面は、パウロ六世が至る所で発見した「根本的な悲観主義」です。彼はこう言われました。「今日、哲学、文学、娯楽が我々に提供する素材の大半は、あらゆるものの避けがたい虚しさ、人生の計り知れない悲しみ、不条理と無の形而上学を宣言することで、結末を迎える。この素材こそが、灰の使用を正当化するのです」。
今日、私たちは、彼の言葉が予言的であったことを認めざるを得ません。なぜなら、私たちに課せられた灰の中に、「燃え盛る世界の重み、戦争によって破壊された都市全体の姿」を見出すからです。これはまた、国際法と民族間の正義の灰、生態系全体と民族間の調和の灰、批判的思考と古来の地域の知恵の灰、あらゆる被造物に宿る神聖なる感覚の灰にも、反映されています。
「彼らの神はどこにおられるのか?」と人々は自問します。そうです、親愛なる友よ、歴史は、そして何よりも私たちの良心は、死をその実態として直視し、その痕跡を内に抱えつつ、復活の証しを立てることを私たちに求めています。私たちは回心するために自らの罪を認めます。これ自体が復活のしるしであり証しなのです。
つまり、私たちは灰の中に留まることなく、立ち上がり再建するということです。そうして四旬節の旅の頂点として祝う復活祭三日祭は、その素晴らしさと意味を解き放つでしょう。悔い改めを通して、死から命へ、無力さから神の可能性へと移り行く過程に参与するなら、それは実現するのです。
古代から現代に至る殉教者たちは、復活祭へ向かう私たちの旅路において先駆者として輝いています。四旬節の「ステーション」(stationes)という古代ローマの伝統―本日、(四旬節は)最初のステーションから始まります―は示唆に富んでいます。それは巡礼者として移動することと、ローマのバジリカが建つ殉教者たちの「記憶」の場所に立ち止まること(statio)の両方を指しています。これは、今や世界中に存在する信仰の立派な証人たちの足跡をたどるよう招いているのではないでしょうか。
祝福の道を自ら選び、その道を最後まで歩んだ人々の場所、物語、そして名を思い起こしましょう。彼らの人生は数えきれない種であり、たとえ散らされたように見えても、大地に埋もれ、私たちが収穫するよう招かれている豊かな実りを準備してきたのです。
四旬節は、福音朗読で見たように、「何としても人に見られたい」という欲求から私たちを解放し(マタイ福音書6章2,5,16節参照)、代わりに、生まれつつあるもの、成長しているものを見ること、そしてそれに仕えることを、教えてくれます。それは、断食し、祈り、愛する者たちの秘められた中で、命の神、私たちの父でありすべての者の父である方と結ばれる深い調和なのです。慎み深く、喜びをもって、私たちの人生と心のすべてを、神に向け直しましょう。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の翻訳は「聖書協会・共同訳」を使用)








