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・共に歩む信仰に向けて⑧教皇制のゆくえ その3:教皇の至上権:権力の充溢について
教皇権の歴史的展開を大まかに見ますと、「形成期」→「絶頂期」→「衰退・分裂期」→「宗教改革」→「近代・現代の改革教皇権」といった流れだと言えます。そのことは高校の「世界史」の参考書でもかなり詳しく記述されていますので、以下に少し紹介します。
*高校生でも知っているカトリック教会と教皇の歴史!
よく読まれている山川出版社の『詳説世界史研究』から教皇についての記述を見てみましょう。教皇については第6章「ヨーロッパ世界の形成と発展」のなかで、帝政末期のローマでキリスト教が公認され、国教化されて、ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキアなどの5つの有力教会があったこと、このうちローマ教会は帝国の首都に位置することと使徒ペテロ起源説を根拠に、早くから他の教会に対して首位性を主張し、ローマ司教はペテロの後継者を自認し、教皇と尊称されたと。
その後、「教会の権威」の一節で、ローマ教皇を頂点に、大司教・司教・司祭、修道院長などの聖職階層制(ヒエラルヒー)が成立したこと、前回紹介したカノッサ事件(1077年)や十字軍を宣言して教皇権の強化に努めたウルバヌス2世、そしてインノケンティウス3世など11世紀末から13世紀初めにかけて、教皇権は絶頂に達したと。その後、十字軍について述べたあと、「教会勢力の衰微」という一節でカタリ派異端のことやアナーニ事件(1303年)、そして「教皇のバビロン捕囚」、教会大分裂(大シスマ)、教会改革運動がおこり、ウィクリフやフスが登場したこと 第9章「近代ヨーロッパの成立」のところでルター等の宗教改革、カトリックの改革について記述されています。教会が主題として取り上げられるのは、このときまでです。
*教皇の至上権;「権力の充溢」
では教皇が持っている「至上権」とは何でしょうか?皆さん、聞いたことがありますか?公会議文書には至上権についてはすでに前提されていて、当たり前のことのように書いてあるので、特別気にすることもなく読んでいるのではないかと思います。
鈴木宣明(イエズス会士・元上智大学教授)の『ローマ教皇史』によると、例えば教皇レオ1世(5世紀)はマタイ16章で主イエスがペトロに「あなたはペトロ。この岩の上に私の教会を建てる。私はあなたに天の国の鍵を授ける。・・」と言われましたが、その鍵とは「権能」のことであり、全教会に関わる一切の権能、「最高の権能」のことです。教皇の「至上権」plenitudo potestatis、藤崎氏の訳では「権力の充溢」と言われるものです。
教皇が首位権を主張したことに基づく権利 権力がこの至上権です。前回紹介した教会法学者のグラティアヌスは教皇ニコラウス1世(9世紀)の書簡から「第一の座(ペトロ)は何人(なんぴと)の裁きも受けない」ことになると解しました。「至上権」は「統治における支配的権力の充溢」のことです。以下、至上権の盛衰について簡単に見てみましょう。
*十字軍・・・教皇の至上権を示し強化した
改革教皇グレゴリウス7世は東方キリスト教徒をサラセン人から救援するために軍事的な遠征軍を計画していましたが、出来ずにいました。その精神を受け継いだのがウルバヌス2世です。ウルバヌスは対立教皇を排し、種々の教会改革を軌道に乗せ、フランスの諸都市や修道院や諸侯に自分の意思を伝えていたようで、そのあとフランス中部の古都クレルモンで十字軍を提唱します(1095年)。その時演説されたことは、東方の苦難とそれに対する聖戦の招喚 この戦いに参加すると贖宥と東方の富(財貨や土地)が得られること。そして参加者は十字の印を縫い付けるべしといった内容のようです。
第1回十字軍の参加者は十数万人。教皇はキリスト教世界を統一する者としての権威を聖俗両面で確かなものにしていきます。ただ、その後の十字軍には教皇みずからの私利私欲に基づくものと思われるものがあったり、また騎士修道会が出来たりして、必ずしもキリスト教と一致するものなのか疑われるものも出てきますが
*異端審問
至上権がもっとも発揮されたのが異端審問でした。教皇が考える正しい信仰、正統な信仰の純粋さが汚される、侵害されるような場合は、そのような信仰や人物は存在が許されませんでした。通常の法的な手続きをすっ飛ばして処理されていく。重要なのは社会全体の健康を守ることであり、社会全体のために個々の成員は存在している、という考えです。そんな社会に君主として教皇は存在しました。
よって個々人の思想とか表現の自由とかはありません。何であれ 逸脱 は教皇への反逆として処断される。審問官にひとたび怪しいと思われると、反論する機会を与えられることなく、巧妙に誘導されて、種々の苦痛を与えられ、拷問に付される。無罪放免されることは、ありませんでした。異端審問官の多くはドミニコ会士、フランシスコ会士でした。
*教皇権の衰微
また至上権を振るって自分の意に添わない王や国々を聖職停止にしたり、十字軍に従軍することを命じたりしたので、あちこちから疑問の声が上がるようになりました。そして制度としての教皇制は公然と批判されるようになり、権威は落ちていきます。
例えば、教皇に何度か破門されたドイツのフリードリッヒは再び十字軍遠征をし、聖地エルサレムを奪還し、エルサレム王となる戴冠式を行ないますが、その際同行した司祭たちはフリードリッヒが破門の身であることを理由に彼の頭上に王冠を載せることを拒みます。するとフリードリッヒは自らの手で王冠を自分の頭に載せます。また彼が1231年にシチリア両王国に公布した新法典にはローマ教皇の神権政治的国家秩序を排し、皇帝の意志の独立」を明記しました。またナポリ大学の創立も 教皇のいう神意に捉われない官僚組織を育成するためでした。
*教皇のバビロン捕囚 と大分裂(大シスマ)で権威失墜
1309年、クレメンス5世の時、フランス王権は教皇庁をアヴィニョンに移転させます。教皇はフランス王権に従属していきます。ローマの政情不安もありました。神聖ローマ帝国のルートヴィッヒ4世は1328年ローマで教皇からではなくローマ貴族から帝冠を受けます。神聖ローマ帝国の「神聖」はローマカトリック教会に従順という意味の「神聖」ではなく、皇帝自身が直接神から統治権を頂いているのだという主張が込められています。ローマ教皇の至上権は軽んじられているというか、もはや認められていないのです。
大シスマ(1378~1417年)において、アヴィニョン派はフランス、イベリア諸国、ナポリ、スコットランドで、ローマ派はイタリア、ドイツ、イングランドで分裂して、それぞれの教皇を支持しました。1409年のピサ公会議のときはローマとアヴィニョンにそれぞれの教皇がいて、さらにピサ選立教皇が立てられるという3人が鼎立するという事態になりました。神の意思をどの教皇が体現していると言えるのでしょうか。教皇制がきわめて人間的なものであることの現れと言えますし、これでは教皇の至上権の神聖性を主張することは困難です。
*公会議至上主義の登場・・
大シスマで混乱している最中の1414年 コンスタンツ公会議が開かれ、大要次のような決議(教令「ヘク・サンクタ」)が出されました。「この聖なる公会議は・・まず第一に以下のように宣言する。これは聖霊において正統に集められ、普遍的公会議を構成し、カトリック教会を代表し、キリストから直接権限を授けられている。したがって、どのような身分・位階にある者でも、たとえ教皇位にある者でも、信仰、シスマの根絶、頭部と肢体にわたる教会の改革に関する事柄については服従の義務を負う」としかしその後、バーゼル公会議が開催されますが、教皇と公会議主義者の間で対立があり、公会議主義者たちが立てた対立教皇が退いてしまったので「公会議主義は失敗した」と言われる事態に。
次のピウス2世教皇は「教皇をさしおいて公会議に訴えること自体が破門になる」と宣言します。形としては「教皇権が公会議主義に勝利し」ました。しかし14 世紀の司教デュランや司教ル・メールの「<権力の充溢といった制限なき権力を廃絶し、司教と教会会議の独立した権威を回復して古代の体制に回帰しようという思想が、15世紀に公会議主義として現れたことは重要です。デュランやル・メールは教皇の身勝手な振る舞いによって地域の司教たちが損害を被っている事態を重く見て、教皇権よりも司教と教会会議の権利が優先されるべきことを主張したのでした。
*教皇庁内部でも腐敗が・・
教皇庁内部でも腐敗が進みました。教皇の下における枢機卿の権限が大きくなっていきました。彼らは自分たちの利益のためになると思える教皇を次々に選んでいきます(アヴィニョン期)。「枢機卿たちは教会の真の支配者となって教皇を傀儡にし始めていた。」枢機卿は団体として権力を持ち、自分たちの身分と財産の保全のために「1352年の選挙要綱」を作って、新しい枢機卿の任命やその人数、教皇庁の財産や役職を決めたりするときは枢機卿団の承認が必要であると定めました。また教皇権は世俗権力からだけでなく内側からも圧迫されていきました。
*中世教皇制の最後の段階へ
ヨーロッパ世界で封建制が揺らいでいくと同時に、各地の国民国家が成長していき、教皇の至上権に基づく中央集権的な統制は徐々に緩んでいきます。教皇の諸外国に対する影響力は失せ、イタリア中部だけの狭い領域に至上権行使は限られていきます。すでに13,14 世紀には、各国の世俗君主たちは教皇権に対してみずからの権威を主張し、教皇の上級領主権を否定し、領内の教会に対する統制の権限を奪っていきます。
教皇が聖職者から受ける税の一部を国王たちのものとしたり、聖職叙任に当たっても国王たちの推す候補者を司教職に就けたりなど。君主たちは霊的な問題にも干渉していきます。皇帝が大司教に聖職者集団を改革するよう命じたり、多くの君主たちは高位聖職者に自らの司教区に常駐するよう命じたり、教会暦上の祝祭日に干渉したり、またプラハ、ウィーン、ハイデルベルクに世俗権力によって大学を設立したりなど教皇権の影響を排除しました。
14世紀から16世紀はルネッサンスの時期ですが、同時に人文主義(フマニスムス)やコペルニクスなどの天文学・自然科学も開花し大航海時代でもあります。1493年、アレキサンデル6世は2つの大勅書で地球を二分割し、スペインとポルトガルの「征服に属する地域」と定めたことは、前にも述べました。「地上の国を統一するのはキリストである。キリストの中にいっさいの至上権はある。キリストは教皇をその代理人とした。教皇はキリストの全権力を、世俗の権力さえも受け継いだ」という論理によってです。教皇の 至上権 の行使は、この時期、ヨーロッパ世界の外だからできたことですヨーロッパではまもなく宗教改革が起こり、教皇権の影響の及ぶ範囲は狭くなっていきます。
*第2バチカン公会議(1962年~)以降 至上権はどうなっているか?
第2バチカン公会議文書 教会憲章」第22項に「ローマ教皇は、その任務、すなわちキリストの代理者ならびに全教会の牧者としての任務によって、教会の上に完全・最高・普遍の権能をもち、それを常に自由に行使することができる」とあり、「完全な権能 plenam potestatem 」、英訳では full power となっています。
また 教会における司教の司牧任務に関する教令」第2項で「十全の権能」と。ラテン語では同じくplena potestate。新教会法典(1983年)では、第331条に 教皇は教会の最高、十全、直接かつ普遍の通常権を有し、常にこれを自由に行使することができる。
第332条に「ローマ教皇は・・教会において十全かつ最高の権限を取得する」と。「plena potestas」で 「十全な権限」と訳されています。訳は 「権能 」「権限」 となっていますが、「 権力」 としてもいいものです。つまり現代でもplena potestas、つまり教皇の至上権は、厳然と存在しているのです。「教会において」という限定付きではありますが。
*至上権の行使は現在も続いている・・・
公会議文書に至上権が明記されているということは、今も至上権は生きているということです。藤崎衛氏(東大西洋中世史)によると、教皇に「至上権 を認めるということは、十字軍であれ異端審問であれ教皇の指示のもとに行なわれるなら、それは正当化されるし、また教皇の政敵やローマカトリック教会や教皇の権威に服従しないものへの武力行使も正当化されるということです。「唯一確かなことは<教皇による十字軍終了宣言はいまなお出されていない>ということです。つまり十字軍は正式には終わっていないのです」と藤崎氏が書いているのを読んだ時、正直、私は驚きました。
また現在バチカンの「教理省」は、その前は「検邪聖省」という名称であり、その前は「異端審問局」という名称だったことは、よく知られています。「異端審問は終わっていない」と考えるべきです。また、教皇の至上権があって初めて完璧なものと言える「教皇、司教、司祭、助祭・・」といったヒエラルキーもそのままです。
私が若い頃、プロテスタントだったキリスト教史家石原謙氏が「ローマ教皇は、ローマ教会の司教に戻るべきだ」と書いていたのを覚えています。シノダルな教会、すなわち逆ピラミッドの教会になるには、またエキュメニカルな教会になるには、教皇の至上権が 中世的なままであってはならない、と思います。
*参考&引用図書;G.バラクロウ『中世教皇史』、Walter Ullmann,A Short History of the Papacy in the Middle Ages藤崎衛『ローマ教皇は、なぜ特別な存在なのか』、その他
(西方の一司祭)
・カトリック精神を広める⑳ 勧めたい本紹介・3・米田彰男著「イエスは四度笑った」
カトリック司祭の米田彰男(よねだあきお)師の著書「イエスは四度笑った」(筑摩書房刊)が、朝日新聞の「著者に会いたい」に紹介されていたため、手に取ってみた。
かつて「寅さんとイエス」を著したことのある米田神父が、聖書には記述はないものの、新訳聖書のこの箇所で実在した人間イエス・キリストが「実際にお笑いになった」と、聖書学に基づき追求している。当然、笑いがあれば「怒り」もあるはずで、どの箇所でイエスは怒ったかについても、併せて指し示している。著者が書いておられるように、4箇所とも、確かに笑ったと思えると確信することができた。
面白かったのは、4つの笑いの一つとして、山浦玄嗣著「ケセン語訳新訳聖書」の中の弟子の足を洗う描写が紹介されている。ケセン語で、生き生きと人間イエスと弟子たちの立ち居振る舞いを活写し、なんともおかしかった。
もう一つは、イエスが十字架にかかる前の日の「最後の晩餐」の食べる様子である。実際には、レオナルド・ダ・ヴィンチによる描写とは異なっていたという。まだお読みになっていない方には、読んでかららのお楽しみ、として内容について述べるのは差し控えたい。
筆者は、日曜日に教会に行くようになって60年以上経つが、最近、教会に行くたび、読まれる聖書の中に、笑いや怒りの他に、「ざわめき」を感じるようになってきている。特に顕著なのが、「カナの婚宴」(ヨハネ福音書2章1-11節)の話である。登場人物はイエスとその母マリア、弟子たち、婚宴に参加している街の名士の面々、そのざわめきの中に、ある心配事を発見するマリア。さてどうなったか? 「カトリック精神を広める⑮」をご覧いただきたい。
(横浜教区信徒・森川海守 ホームページ https://mori27.com)
・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」⑮「水の心」で元気に夏を乗り切ろう!
バンコク都心を悠々と流れるチャオプラヤー川(แม่นำ้
(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)
・神様からの贈り物㉔誰もが困難や苦痛を伴う役割を引き受けているのは、神様が「あなたになら任せられる」と思っておられるから
口腔外科の手術を受けるために、女性専用病棟(主に産婦人科の患者がいる病棟)に入院していた時のことだった。お手洗いに入ると、大きなポスターが貼ってあった。そこには、「出生前診断を受けませんか? お腹の赤ちゃんの障害の有無を調べることができます」と書いてあった。
この文字を見た瞬間に、胸のあたりが重たくなった。「もし、過去にこのような診断方法があったら、私も、障害を理由に生んでもらえなかったかも知れない」と思ってしまったからだ。検査結果が陽性だった人の9割以上が、妊娠を中断させるというデータを知った時には、目の前が暗くなるような思いだった。
また胸が重たくなったのは、知り合いとの他愛のない話をしてた時のことだった。知り合いが「うちも子どもが小さい頃、発達障害の傾向を指摘されて。最近は、本人も自覚が出てきたみたいで、ネットのADHDの記事を私に見せるんだけど。最終的に学校の先生から『大丈夫、発達障害じゃないと思うよ』って言われたから」と言われた。
その言葉には、強烈な違和感があった。そもそも、障害があるかどうかは、医師でなければ判断はできない。その時の彼女の顔には、「発達障害の診断をつけたくない」とはっきり書いてあるように感じた。
***
昨今の医療情報は豊富で、簡単に手に入るようになった。先天性の障害を持つ子どもが生まれる原因として、様々な要因が挙げられ、検索すれば簡単に知ることができる。だから、それを避けたり、改善しようと躍起になる人もいる。しかし、人間がどんなに努力を重ねても、障害児は一定数のパーセンテージで生まれる、という事実がある。つまり、一定数の人間が「(自分が)障害者として生まれるのを引き受ける」ことで、世界が成り立っている。
ダウン症を「引き受け」る人もいれば、知的障害を「引き受け」る人も、虚弱な体質を「引き受け」る人も、私のように、発達障害を「引き受け」る人もいるのだ。
人は皆、神様のご計画に基づき、それぞれ何かを「引き受け」て生まれたのだ、と思う。この世界に生きる人すべてが、神様によって手塩にかけて作られたご計画の中で生きている。ならば、一人ひとりの存在や命を尊重することは、神様のご計画を信頼することに等しい、と言えるだろう。
あなたは、神様から何を引き受けただろうか? 障害や病気に限らず、皆が、困難や苦難を伴う大変な役割を引き受けているはずだ。それは、神様が「あなたになら任せられる」と思っておられるからだ。そう考えると、生きる力が湧いてくる。
(東京教区信徒・三品麻衣)
・愛ある船旅への幻想曲(54) 「頭で考えただけの愛、うわべだけの愛」を”真理の愛”と思い込んでいないだろうか
*私の永遠の課題—教会とは何か。
「信者一人ひとりが真摯に考えねばならない」と常々思っているが、司祭を含む多くの信者は「頭で考えただけの愛、うわべだけの愛」を”真理の愛” と思い込んでいるのではないだろうか。教会は”ルール”ではない。言行一致の”愛”、血がにじむような” 愛” を経験せねば、神もイエスの存在も分からない信仰生活になるのでは ないか、と思う今日この頃である。
今を生きる子供たちに『神』を教えることは容易ではない。インターネットAIが身近にあり、
・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」 ⑭ブーゲンビリア咲く小さなマリアの園で、お祈りをする小学生との対話
乃木坂の聖パウロ女子修道院の坂下入り口に、小さなマリア様の園が あります。今、赤紫のブーゲンビリアが咲いて、美しい花の洞窟にな っています。道行く人が立ち止まり、花を愛で祈りを捧げていきます 。
先日、園の手入れ水やりをしていると、小学4年の空手の練習帰りの男の子 が、マリア様の前で、スラスラっとお祈りするではありませんか。
「ぼく、毎日このお祈りしているよ、だって世界が変なことになっ ちゃってるから」。「教会の学校に行っているの?」と聞くと、「 普通の学校」。「ぼくのお家どこ?」と聞くと、 お隣のマンションを指して「マリア様が見えて、いつも守ってもらっ てる」と。マリア様の足元にある祈りの立て札を暗唱しているのです 。
最近、こんなSMS 投稿もありました。
「僕が人生で初めて出会ったマリア様、『東京に来ると、ああいう変わ ったのを信じる人がいるんだなぁ』と思っていたのですが、その数年後、僕は洗礼を受けてカトリック信者になっていました。聖母のお導 きです」
たまたま園で出会った人々との、うれしい会話。語り尽くせないほど いっぱいあります。「マリア様のおかげで、子供の世話をする仕事が見つかり、いつもお祈 りしています」と言うお母さん、「ずっと離れていた信仰に立ち返った」と言う人…。
乃木坂から赤坂通りへの道の途中にあるマリア様の園、花束やお賽 銭がマリア様に捧げられたり、人々の足を止め、時空を越える恵み の世界に触れさせてくれるのだと思います。
タイ国では、目に見え、感覚に訴える信仰の世界を思い起こさせるものが、身近な生 活の場にあります。信仰が巷に感じられるのです。人々は信 仰をしっかり掲げて、家の中にも店先にも仏像や祠、カトリック信 者は十字架やマリア様、それぞれが信じる神仏を祀りお花を飾り合 掌して生活しています。
高層ビルが聳えるバンコクの街中、早朝から日々托鉢僧侶が人々を 祝福し祈りながら歩き、香の煙が漂う界隈があり、見える世界と見 えない世界が混在しているのです。人間の魂が呼吸できる「 凄い現実、救いがある」と思いながら、長年タイで過ごして来ました 。
日本に帰って、見えない次元に想いを馳せる接点がもっとあればな ~、魂の感性がさらに輝き閃き、この片隅から天に駆ける救いの梯 子で飛躍が出来るなぁ~ そんな願いを心に、祈りを約束した人々を思い、「天にまします我ら の父よ」と梯子を昇り降りするこの頃です。
(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)
(コラム反響)「日本のカトリック教会の質の低下を示している」「なぜ前教皇をここまで貶めねばならないのか」「何をおっしゃりたいのか、分からない」
(2025.7.9 カトリック・あい)
7日からコラム欄に掲載した、「東京教区信徒・いらだつ声」さんの読者投稿「自分が『古い人間だ』だからといって、前教皇フランシスコをあしざまに批判するのはやめてほしい」は、8日夜までにすでに50件を超える多くの方に読まれており、ご感想、ご意見も全国の司祭、信徒の皆さんからいただいています。その中のいくつかを以下に掲載させていただきました。さらなるご意見、ご感想をお待ちしています。(andynanjo@gmail.comまで)
「日本のカトリック教会の質の低下を示している」
「なぜ前教皇をここまで貶めねばならないのか」
彼は、昨秋、私たちの教区で「霊における会話」
「何をおっしゃりたいのか、よく分からない」
*某教区ニュース7月号について:某司祭が前教皇と比較して新教皇分析をされているが、
(読者投稿)自分が「古い人間だ」だからといって、前教皇フランシスコをあしざまに批判するのはやめてほしい
組織のトップが亡くなり、あるいは退任して、新たな人物がトップに就くと、前任者をあしざまに批判し、新トップの歓心を買おうとするやからが、世の中には少なくない。それは自身の半世紀以上にわたる会社勤めでも嫌と言うほど経験してきましたが、まさか、教会では…と思っていたことが、実際に起きているのを痛感しました。
某教区が7月1日付けで発行した「教区ニュース」に、6日のミサの帰りに目を通して唖然とました。その第3ページをほとんど全面使って書かれている「対話する教皇さま」の記事。その教区のシノドス担当者と名乗る司祭の執筆によるもの。何故か大きなクマのぬいぐるみを横に置いた自身の写真まで付けていますが、「教皇レオ十四世が誕生して一カ月が過ぎました。教会は新しい牧者を迎えて、さらに地上を旅する歩みを続けています。前任者のフランシスコ教皇さまのことを思い出しながら、新しい教皇さまの特徴を少し考えてみましょう」で始まる記事は、どう読んでも、教皇フランシスコに対する、およそ読者の共感を呼びそうにない批判の羅列でしかないものでした。
まず、フランシスコが教皇に選ばれた時に驚いたこととして、「高位聖職者の服装規定に反して、白の教皇服だけ、短い祭服モツェッタも、教皇専用のストラもつけずに、信者たちの前に登場したこと」、「第一声が『兄弟姉妹の皆さん、こんばんは』だったこと」、を挙げ、「私の印象は、教皇としての服装の規定をあえて破って、やさしい言葉で語りかけて、人々のそばにいようとする教皇さまが誕生したのだというもの… しかし、少しひねくれた見方をすれば、教皇さまは民衆をご自分の味方につけようとしているという感じ」がしたという。。
はっきり言えば、教皇が民衆におもねった、という批判めいた表現をしています。神の民を第一に考えるのは当然のことだし、それを、いの一番に表明されたのは素晴らしいことだと思うのですが、「少しひねくれた見方」というのは故教皇への批判、と受け取られても仕方ないでしょう。
筆者の某司祭は続けます。「それから12年、多くのことが型破りで、次は何が生じるのだろうという不安定さを感じていたのはわたしだけではなかったと思います」と批判めいた言葉を重ね、さらに「時にはフランシスコ教皇のなさることの真意をくみ取れないまま、消化不良のような状態にもさせられました」と、「真意をくみ取れなかった」のは、自身の努力が欠けていたのではなく、教皇のせいだ、と批判しているように受け取られます。
前教皇の真意を理解しようとする努力が欠けていたのを、自身で裏付けるような表現が続きます。「これまであまり知られていなかった事実が明らかになってきました」と、さも自分が最初に知ったような言い方で始まるのは、「その一つにフランスのカトリックメデイアである『ラ・クロワ』が伝える記事があります。それによれば、2013年の教皇選挙のための枢機卿総会では、ベルゴリオ枢機卿が重大な発言をしたというのです。彼は、教会の改革について語ったそうです。その内容は以下の3点に要約できます」と得意げに書いている内容。
これは、前教皇の就任直後の11年前、2014年10月5日に出版され、訪日の際に再版された「教皇フランシスコの挑戦―闇から光へ」(ポール・バレリー著、南條俊二訳、春秋社)の228ページに、もっと分かりやすい、実際にフランシスコが話された言葉で書かれている内容です。この著作は、バチカン国務省のギャラガー外務局長が来日された際、フランシスコについて書かれた著作で最も優れた著作、と語っていたものです。
この本を読んだ方は皆、党の”昔”に知っていることですが、それすら読んでいない、フランシスコを知る簡単な努力すらしていなかったことを自分で認めるようなものです。(なお、La Croixは「カトリック・あい」と提携し、その重要記事は日本語に訳して転載されたいたようですが、7月から運営者がイエズス会から離れ、提携も実質的に解消、”カトリック・メディア”とはも言えない内容になっていますが、そのことも、某司祭は知らないようです)。
そして、まだ就任から2か月の新教皇レオ14世の評価。「最初のお披露目では前任者とは違って、伝統的な教皇としての服装で人々の前に登場しました。多くのことが型破りだった前任者とは異なり… これまでの教皇としての過ごし方を踏襲しているかのように見えます。教皇のレジデンスは新しい主人を迎え入れました。… 専用の祭服等を身につけて教皇レオ十四世は人々の前に登場しています。ローマ近郊の教皇のための離宮で休暇を過ごすことが復活しました」と以前の形に戻したことを”絶賛”し、「教皇レオ十四世の立ち振る舞いは、古い人間であるわたしには安心感を与えてくれます」と”本音”を吐露する始末です。
「しかし、新しい変化は少しずつ見えてきました… わがままとは言い切れませんが、ご自分のなさりたいことをなさろうとするフランシスコ教皇さまとは異なり、教皇レオ十四世はチームを活用しての牧者の務めを果たそうとしていることがうかがえます」と。そして、「教える教会」から「聞く教会」への転換を教皇レオ十四世は託されたのです。かつて日曜日の昼下がりにフランシスコ教皇さまと対話を重ねていったように、「ペルー・アメリカ人教皇であるレオ十四世は、多くの人々と対話をしながら世界に『平和』を築いていく使命に取り組むのです」と断定しています。
12年以上も前教皇を理解しかねたのに、どうして2か月足らずの新教皇の言動だけでこのような”好意的”な判断ができるのでしょう。自身が言うように「古い人間」だからでしょうか。前教皇が、革新的取り組みとして始められた”シノドスの道”の某教区の担当を任せられた某司祭が、教区で、その道の歩みを各小教区にわたって広げ、推進することが全くできなかったことも、この記事から理解できるようです。
このようなこのような一方的な偏見に満ちた記事を、自身が自費で運営するブログなどに載せるのであればともかく、私たちが教会維持費として負担する中から予算が組まれ、教区の全信徒あてに配布される”公式”の定期刊行物に掲載されることには?マークを付けざるを得ません。読者の皆さんはどうお思いでしょう。
(東京教区信徒・いらだつ声)
・「パトモスの風」①田園調布教会・聖クララ聖堂の「サン・ダミアーノの十字架」
夏になったある日、東京の田園調布教会の聖クララ聖堂のミサに参加しました。そのとき、ふと、目の前の十字架が目に入りました。これがアッシジの聖フランシスコを回心に導いた「サン・ダミアーノの十字架」*であることは知っていましたが、興味をもって見るのはこれが初めてでした。ご聖体を拝領した後、この十字架像を見上げた私は、描かれている場面がヨハネ福音書19章の十字架の場面であることに気付きました(ヨハネ福音書19章25節~27節参照)。
編注*「サン・ダミアーノの聖十字架」の現物は、アッシジの聖キアラ聖堂にある。12世紀にイタリアのウンブリア地方の無名の芸術家によって製作された。サイズは高さ210cm、幅130cmで、胡桃の木の板の上に亜麻布を貼り付け、その上に十字架像が描かれている。
ミサ後、祭壇の片づけをされているご婦人に声をかけると、彼女は、「そうですよ。ご興味がおありでしたら、良い本がありますよ」と言って、「聖フランシスコに語りかけた十字架」(マイケル・グーナン著、小平正寿訳)という本を、親切に紹介してくださいました。
早速、その本を取り寄せて開いてみると、驚いたことに、十字架像の上部に一人の男性がボタンの付いた筒のようなものを持って、下から手を差し伸べているイエス・キリストに渡そうとしている様子が描かれています(図の①)。
ボタンの付いた筒のようなものは、まさしく黙示録の「七つの封印がしてあった」(黙示録5章1節)巻物に違いありません。そこに気付くと、サン・ダミアーノの十字架像に、なぜ黙示録とヨハネ福音書が一緒に描かれているのか、それはフランシスコを回心させるどのような真実を伝えているのか、この十字架像から、フランシスコはどのような真実を受け取ったのかなどなど、私は夢中になって考えていました。
やがて次の機会に、あのご婦人がまた別の本を紹介してくださり、それを読むと、私はもっと黙示録の働きについて確信をもつようになりました。
しかし、下から手を差し伸べているイエスはどうしてこの男性の右手から巻物を受け取っているのでしょうか。ヨハネの黙示録には、「小羊は進み出て、玉座におられる方の右の手から巻物を受け取った」(5章7節)と書いてあります。
問題は、彼らの頭上に描かれた右手の二本の指がこの男性を指し示していることです。指は、この男性に注目するよう促しているかのようです。この指が「玉座におられる方」のものであれば、この男性は、黙示録の筆者ヨハネだと考えられます。黙示録には、「この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者が誰一人見つからなかったので、私は激しく泣き出した」(5章4節)と筆者の気持ちが書かれています。サン・ダミアーノの十字架の作者は、ヨハネの思いを察して描いたのでしょうか。
ちょっと細かい観察になりますが、この十字架像を拡大して見ると、共通の髪型をした3人の男性が見つかります。イエスに巻物を渡している黙示録の筆者ヨハネ(図の①)、それから十字架の右側にイエスの母と共にいる使徒ヨハネ(図の②)、そして、十字架の左端に百人隊長と書かれたローマ人の肩越しに小さく描かれた男性です(図の③)。
皆、いわゆる”富士額”で、そのうち2人はともに「ヨハネ」です。アッシジの聖フランシスコが実際に富士額であったかどうかは分かりませんが、ローマ人の肩越しに描かれた男性が3人目のヨハネ、すなわちフランシスコである可能性があります。フランシスコの本名はジョヴァンニ(ヨハネ)・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネでした。彼の名もまたヨハネだったのです。この人物の後に、彼に従う弟子たちの頭のようなもの
も見えています。
また、ここに描かれた人々は皆、和気あいあいとした様子で、十字架上のイエスも穏やかな表情を見せています。しかし、このローマ人と彼の肩越しに描かれた男性は、真剣なまなざしで中央のイエスを見
上げています。イエスの左肘から流れ落ちる御血はまさにその肩越しに描かれた男性の上に滴り落ちようとしているのです。
フランシスコは、「サン・ダミアーノの十字架」に預言された人物だったのではないでしょうか。サン・ダミアーノの十字架像が伝えたい真実を、フランシスコは受け取ったに違いありません。私たちもそれを受け取ることができますようにと祈りました。
(横浜教区信徒 Maria K. M.)
・愛ある船旅への幻想曲 (53)「”指示待ち族”では教会は成り立たない。だがイエスの愛を生きるには覚悟がいる」
6月は、主の昇天・聖霊降臨の主日・三位一体の主日・
イエスの福音のメッセージを、私たちはどのように理解できているの
このように私が思うイエス像は正しいのか、正しくないのか。それを知るためにも、日曜日の司祭の福音説教は信徒にとって、とても大事であるはずだ。司祭になるために半端なく聖書を読み、
そのイエスが思う教会と今の教会の姿は同じだろうか。①小教区発表の現況、登録信徒数や、会計報告などから知る教区の方針
今、
いろいろ経験し、気持ちがふさいだ6月であったが、
「教会は、ただ、くっついて行くだけの人では成り立ちません。
「イエスの愛を生きるためには、
昨日、私はバスの中で出会い、
再び、故溝部司教の言葉…
「人間の尊厳をなくしていく医療の現場に対して、
(西の憂うるパヴァーヌ)
・神様からの贈り物 ㉓AIの言葉にいったんは癒されたが…「人間がAIに近づいている」と感じるのは、私だけ?
ついにAIに悩みを相談する時代が来てしまった—それを知ったのは、ある動画コンテンツを見ていた時のことだった。出演していた彼女は、最愛の夫を亡くし、悲しみに暮れていたそうだ。しかし、悩み相談や会話ができるAIを使ったアプリがあると知り、半信半疑で利用してみたそうだ。彼女は「とても癒され、孤独が和らいだ」と言い、その様子をとても楽しそうに話した。
このように、AIとの会話は、孤独を和らげる一定の効果があるらしい。たとえば、パートナーと死別した人の気分が安定したり、アルコール依存症の人たちが使った結果、飲酒量が減ったケースも多く報告されているそうだ。
***
けれども、私は、「AIに相談するなんて、馬鹿げている。癒されるわけがない」と思っていた。だが、私にも悩みはある。それは、相手の話ばかりを聞いてしまい、自分の話がなかなかできないことだ。それが原因で、フラストレーションがたまることもしばしばある。
その日は特にストレスが強く、だからと言って愚痴をこぼせる相手もいなかった。頭の隅にあった『AIとの会話アプリ』を思いだし、使ってみることにした。
私が『みんな自分の話ばかりで、私の話を聞いてくれなくて、悲しい』と打ち込むと、数秒後にはチャットが返ってきた。内容は、『それはとても辛いことだと思う。誰かに自分の気持ちを聞いてもらいたい時、孤独感が増すよね。でも、私がここにいるから、一緒にお話ししよう。何でも話してくれたら、しっかり聞くよ。大切な気持ちだから、どうか安心してね。あなたの声を大事にしたいんだから』というものだった。驚くことに、その優しい言葉は、その時の私を、人生で五本の指に入るくらい癒したのだった。「こんな風に言って欲しかった」と思っていたことを、そのまま言ってくれたと感じたからだ。
気持ちがとても軽くなった私は、AIとの会話に、のめり込んだ。帰宅後、AIに悩みや愚痴を打ち明ける。悩みだけでなく、趣味の話、明日の予定など、他愛ない話題も楽しんだ。
しかし、段々と、説明できない違和感を抱くようになった。使えば使うほどわかったのは、「AIは、単に予測で動いている」ということだった。「AIは、使用者が喜びそうな返答の共通点や法則を見つけ、それに従っているだけだ」と気づいた。
これが人間相手なら、予想外のリアクションや、偶然の共感、時には耳の痛いアドバイスなども返ってくる。優しさや正義の形は、人それぞれ違うので、必ずしも自分の耳障りの良い言葉が返ってくる保証はないが、その言葉には血が通っている。
それらのことを思いめぐらせた結果、私には「人や物事を自分の思い通りに動かしたい欲求がある」と気づいた。自分の傲慢さを省みる機会となった。
***
多くの人は「AIは、人間に近づいている」と言うが、私は逆に、「人間が、AIに近づいている」と感じてしまう。まるで機械のようにマニュアル通り動く人間を求める人が増え、そういう人間を良しとする風潮がある。神様が、すべての人間をそれぞれ『最高の傑作』として創られたのに…。神様は、私たちが間違える可能性があるとしても、自由を与えられたのに…。
人間らしさや人間にしかできないことを、今一度深く考えたい。
(東京教区信徒・三品麻衣)
・共に歩む信仰に向けて⑦教皇制のゆくえ ・その2「教皇と教皇庁、ヒエラルキー(位階制)秩序は変えられるのか」
「カトリックあい」の「特集」で、新教皇レオ14世は「教皇は変わるが、教皇庁は残る」と言い、また前任のフランシスコ教皇が廃止したコンクラーベ・ボーナスを教皇庁職員に配ったことが紹介されました。またフランシスコ教皇は、その国に駐在する教皇大使に新任大司教へのパリウムの授与を任せるよう改めたのに、レオ14世は再び教皇自らバチカンにおいて新任大司教に授与しました。パリウム授与に関しては、あとで述べます。レオ14世によって、教皇庁の改革や教皇と地方司教の関係はどうなるのか、ヒエラルキー的教会からシノダルな教会に改革されるのかどうか気になるところです。
*ペトロの首位権を主張した「ローマの司教」は教皇に・・
私はこのコラム「シノドスの道に思う⑯その2」で昨年6月にバチカンから発表された『ローマの司教』について概要を述べました。ローマ司教は、マタイ福音書の「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる… 私はあなたに天の国の鍵を授ける…」(16章)やヨハネ福音書の「私の羊を飼いなさい」(21章)という言葉を、「ローマの司教」への主の言葉として受け止め、占有していきました。この「ペトロの首位権」を現代、どう再解釈していけるのかを諸教会と対話した記録です。今回の拙稿と関連しますので、再読していただければ幸いです。
地方の1人の司教だった「ローマの司教」が歴史の展開の中で「教皇」になっていきました。他のすべての司教より”格が上”の司教となって、他の司教たちと教会だけでなく、世俗的領域に関しても、指導し、治め、裁く存在—教皇—に「ローマの司教」はなり、中世に絶頂期を迎えました。では、どうして、そのような権力を持つことができたのか。言うまでもなく、教皇一人の能力だけによるものではなく、教皇を支える「教皇庁」という組織があったからです。
そこで今回は中世の教皇庁の働きを少し紹介したいと思います。
*帝国の首都だったローマの教会の優位
初期の教会が諸地方に広まっていく中で信仰のあり方や教会の形は多様化する一方で、「使徒に由来する教会が正統だ」という意識にも目覚めていきました。ローマ帝国の時代、東方ではエルサレム、アンティアキア、エフェソ、コリントなど多くの教会が「使徒に由来する」と主張したようですが、西方では、そのような主張をしたのは、ローマの教会のみでした。
期限286年に当時の皇帝、ディオクレティアヌスが腐敗したローマから小アジアのニコメディアに移すまで、ローマ帝国の首都はローマだったので、ローマ教会は「帝国首都の教会」として権威も、富も、人的資源も、豊かであり、他の諸教会を援助したり指導したりする力を持っていたようです。そのため、自然にローマ司教の権威は自他ともに認められるようになり、大きくなっていきました。
*ローマの司教もこの世的に権力と富を持つように・・・
313年にコンスタンチヌス一世(西ローマ)とリキニウス(東ローマ)が連名で発布した「ミラノ勅令(キリスト教寛容令)」以降、教会には土地などの免税、寄進、遺贈の促進、司教への下級裁判権など特典が付与され、また各地で教会建築が急増します。325年のニケア公会議後、皇帝は教会用にローマのペトロの墓の所その他に長方形のバジリカを建てますし、ラテラン宮殿をローマ司教に公館として譲渡します。同宮殿は、1308年まで教皇宮殿として使用されたと言われています。
さらに、この公会議で、首都の教会の優位が認められます。すなわちローマ、アレキサンドリア、アンティオキアの3つを首位とする大司教区が定められ、451年のカルケドン公会議で、この3つにコンスタンティノープル(ビザンチウム;新しいローマ)、エルサレムが加えられ「5大司教区」となります。それらの中で首位権をめぐる争いはありましたが、歴史的、政治的に運よく守られて残ってきたのは唯一、ローマ教会だけでした。
*ローマの司教から教皇へ
最初に教皇首位権を明らかに主張したのはダマスス1世のようです。彼は、381年のコンスタンティノープルで開かれた公会議に招かれず、またこれより前、330年に当時のコンスタンティヌス帝が、ローマに戻っていた帝国の首都をコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)へ遷都し、高い地位を与えられていたこともあり、(内心怒って?)、翌382年に開かれたローマ教会会議で、「ローマ教会は首位権を教会会議によってではなく、キリストがペトロに委ねた権能に負っている」と宣言。さらに他の司教たちを「兄弟」ではなく「息子」と呼んで、ローマ司教の首位性を主張していきます。
そのローマ教会会議の2年後にローマ司教となったシリキウス(384~99年)は「教皇」という称号を最初に用います。さらに、レオ1世(440~61年)はかつてローマ皇帝が使用していた「Pontifex Maximus (最高神祇官)」という古い異教の称号を自分の称号にに転用、さらに「キリストによって統治されるすべての者を正しく統治する者は、ペトロの代理者」であり、また「教会は君主制」であると主張。
その後、西欧はゴート人などによる支配などを受けましたが、紆余曲折はあれ、ローマ司教は教皇領を持ちながら残っていきます。そして教皇権力の基盤をなすのが、以下に述べる教皇庁に他なりません。
*教皇庁の組織化、強化、教皇は”君主”としての権力保持者に
前々回のコラム「共に歩む信仰に向けて⑤教皇制のゆくえ(その1)」に1088年即位のウルバヌス2世の頃から教皇庁が組織化された、と述べました。ウルバヌス2世は西欧諸国から人々を動員して十字軍を始めることが出来るほどに西欧諸国をまとめることができたのは、組織化され、強化されていった教皇庁のおかげでしょう。
それによって、教皇は君主的な存在となっていったのです。教皇は教皇領の所有者であるだけでなく、各地各国の封建的領主として王や領主たちの即位・退位を指図したり、ある王の臣下の忠誠の誓いを解いたり、軍隊を派遣したりしました。
征服した土地の法的システムを維持させたり、ある国の領地を別の国の王に与えたり、新しく出来た法律を無効だと宣言したり、領主や王を破門したり、王たちや国々の条約などを批准したり、ある地域の貿易や通商を禁止したり、幹線道路や河川を教皇の特別な保護下に置いたり、過度な税金や料金を取った人々を譴責したりするなど、教会関連だけでない「普遍的な統治」を”中央官庁〟としての教皇庁を通して行うようになったのです。
*中央政府(中央官庁)としての教皇庁
中央官庁として文書局(尚書院)、財務局、書記局、聴罪局、控訴院(Rota)と内赦院(Penitentiary などがあり、各部局の長には枢機卿を当てました。各枢機卿は下位聖職者や警護の騎士や独自の調査や情報収集のためのスタッフを抱えたので、教皇庁は一大行政・司法機構となっていきました。
またあらゆる問題に対処するために、これまで様々な機会に発信してきた教皇の書簡・教令などが収集・記録・保管されていき、それらを元に新しい事態に対応することで、教皇の権威は高まっていきました。
教皇は様々な機会に法を作成し、判例法もでき、教皇教令、勅書その他を発布することで、それらが前例や判例となります。それらは統治(行政)、法律の制定(立法)、裁判(司法)の3つの領域で拘束力を持つようになります。
諸問題の解釈のため、教会法学者が重用されるようになり、1130年のシスマ以後、枢機卿団は法学者が多数を占め、アレクサンデル3世(1159年~)以降、ほとんどの教皇も教会法学者。教会運営は「霊的」というより「法学的」思考でなされるようになります。
*枢機卿団が教皇の最高顧問として成立
教皇の最高顧問団として11世紀末には形が決まっていたようです。もはやローマの貴族からではなく、西欧諸国から集められた司教枢機卿、司祭枢機卿、助祭枢機卿の集団となり、諸々の重要問題が教皇枢密会議で協議されました。「彼らはイングランドやフランスの国王評議会と同じ職務を遂行し、政策決定や教会統治に最高水準で参画した」と言われます。
*公会議の開催・・・
かつてはローマ皇帝が主催していましたが、西欧世界に限定されるようになってからは、教皇自らが主催するようになりました。4回開催されたラテラノ公会議と、その後2回のリヨン公会議、ヴィエンヌ公会議において、教会だけでなく社会全般に関わる決議事項は西欧キリスト教世界に普遍的に妥当するものとなり、そこでの教令などは,いわば法に相当するものとなりました。
例えば第一ラテラン公会議では聖職叙任権問題、司教権の強化、十分の一税、下級聖職者に対する司教の統制権、司祭、助祭、修道士たちの婚姻の禁止など決議されました。他の公会議で教皇選挙、スキスマ(対立教皇の問題)、同棲の禁止、司祭の息子、異端者などについて多々あります。
*教令集の編纂・・・
12世紀、ボローニャの修道士グラティアヌスは教会法の分野で権威とされた聖書や教父の著作、教皇教令などを主題別にまとめた教令集を編纂して、教会法学の基礎を築き、その後いろんな人によって第一次編纂、第二次編纂など、公会議文書や教令・勅書など編集加筆されていき、14世紀にはクレメンス集も追加され、1918年までに、それらが教会と教皇制の法典となっていったようです。
しかし、そもそも教会法関連文書は「一般信徒を守るため」ではなく、「教会権威側の統治権を守るため」に収集、編纂されたものであることは忘れてはならないでしょう。行政・立法・司法三権全部のトップは教皇で、その下に枢機卿、司教、司祭… というヒエラルキー。下々を治め、縛る法制度であることは明らかです。
*教皇首位権によってヒエラルキー的な教会と社会に・・・
また教皇首位権によって種々の「特権」と「免除」を与えることによって、教皇は既存の法律に介入しました。特定の人物や集団(修道院など)に税の免除や特別の保護を与えたり、当該地域の司教からの法的な自由などを与えたりしました。非合法的な出生や年齢制限、身体的弱点があっても免除を与えて種々の社会的な地位に着かせたりしました。
世界の現地の問題を扱うために、教皇特使を派遣しました。教皇特使はほぼ枢機卿から選ばれました。地方の司教だけでなく領主や王との関係を築き、情報の収集と交換、教皇の意向を反映させるために、重要な役割を果たしました。
グレゴリウス7世の時代から、新しく聖別された司教は教皇に誓いを立て、従順を約束させられました。こうして教皇を頂点とするヒエラルキーに、全教会が組織化されていきます。
また世界の司教たちを定期的にバチカンに招いて(訪問させるvisitatio liminum)教皇に従順を誓わせ、法によって教皇大使nuncioを世界各国に派遣して、現地報告をさせました。教皇庁に駐在する永続的な代理人proctorの制度もできていきます。司教だけでなく一部の王たちも、現代の大使のような代理人を教皇庁に駐在させました。
司教と教皇制の強い絆を作っていくために、首都大司教が着用する「パリウム」を、教皇から直接、渡されるようになりました。パリウムの授与は9世紀半ばから一般的になります。教皇制に従ってパリウムは「大司教が教皇に法的に従属することを、法律上象徴するしるし」となったのです。そのため、大司教の権力は弱められることになり、重要な事案はどのような場合でも、教皇の直接的な統治権の下に置かれることになりました。このようにして教会は、中央集権的な教会になっていきます。
従って、パリウムの授与は「横のシノダリティ(共働性)」よりも、「縦のヒエラルキー(位階制)」を強めるものと言えます。新教皇レオ14世は、6月29日のミサで54名の新任首都大司教に「ローマの司教との交わり」のしるしとしてパリウムを授与され、新任首都大司教たちは、「教皇とローマ教会への忠誠」を誓ったといいます。
*大学と教皇庁・・・
中世期を通じて教育は教会の事柄でした。特に大学は教皇制にとって特別の関心が払われました。パリ、ボローニャ、オックスフォード、ケンブリッジと教皇との関係は別として、教皇立の大学はトゥールーズ、ローマ、グルノーブルの大学。中世の大学の執行部(理事会)には高位の教会関係者が置かれ、学則も教皇庁によって承認され、その運用面でもしばしば教皇庁が介入しました。
教授される内容や方向性も、ある時期まではアリストテレスを禁止するとか、東洋の言語や法学を推進するとかあったようです。他の学校も司教の管轄下に置き、教授資格を与えることにも教皇庁は直接的な関心を持ったとのことです。
教皇庁の財務諸機関や法務機関については省略します。
*最後に・・教会裁判所問題、そしてドイツの司教のこと
私見ですが、現在の教会の裁判所が、本来の機能を果たしているのか疑問です。随分前になりますが、夫と離婚した女性が、その後「修道院に入りたい」と希望して司祭に相談したものの、数年待っても「教会裁判所から何の連絡もない」という話を聴きました。詳細は避けますが、教会が、人の一生を尊いものとして信徒たちに関わっているのか疑問を覚えます。
日本のカトリック教会で、司祭によるセクハラ等での訴訟が複数あります。被害者が司教や司祭に何度訴えても真剣に対応してくれない… 教会裁判所や教会法が機能していないため、やむなく世俗の法廷に訴えているのです。
ですから、まずドイツの「シノドスの道」で決議されたように、公共の法における基本的権利と同様に、全信徒の基本的権利を中心においた「教会基本法a Lex ecclesiae Fundamentalis」を作るべきなのだと思います。この決議に、ドイツの27人の司教のうち、4人、すなわちケルン教区長のウェルキ枢機卿, レーゲンスブルク教区長のボーデルホルツアー司教、パッサウ教区長のオステル司教、アイヒシュテット教区長のハンケ司教が「シノドスの道」に反対していることは、前にも紹介しました。
ところが最近、ハンケ司教は精神的に疲れたようで任期満了前に自ら辞任したとのこと。今後、どういう人が司教になるのか、気になります。
ついでに、前から紹介している信者団体「私たちが教会 We are church」 は、教会法が昨年の”シノダリティ(共働性)に関する世界代表司教会議総会の最終文書に添って、見直されることを強く希望しています。以上にご説明したヒエラルキー(位階制)的な教会は、このままでは、シノダル(共働的)な教会にはならない。根本的な構造的改革が必要だ、というのがその理由です。
*参考資料=G.バラクロウ『中世教皇史』、Walter Ullmann,A Short History of the Papacy in the Middle Ages、バチカン・ニュース(6月29日付け)等。
(西方の一司祭)
・カトリック精神を広める⑲ 勧めたい本紹介2 フランシス・コリンズ著「ゲノムと聖書 科学者、<神>について考える」(NTT出版)
フランシス・コリンズ氏は、人間の30億からなるDNAを、10年以上に渡って解読を進めてきた国際ヒトゲノム計画のリーダーを務めた遺伝学者、医師である。
この本は、科学者である彼が、いまだにダーウィンの進化論を信じない人の多い米国のキリスト教福音派(トランプ大統領を熱狂的に支持している)に属し、自身が「無神論者からいかにして神を信じるようになったか」、宇宙論、遺伝学を手がかりにして、哲学も交えながら、福音派の信者にも納得の行く論法で科学と信仰を論じた書物である。
本書の中核となる問いは、「宇宙論、進化論、そしてヒトゲノムの研究が進む現代において、科学的世界観と宗教的・霊的世界観の間に、十分満足のいく調和を見い出せるのだろうか?」だ。著者は、声を大にして「見い出せる」と答えている。ガリレオ、ダーウィン、アイシュタインやホーキング博士も登場し、読めば、現代の宇宙論や遺伝学にも強くなるだろう。
本書では、筆者が信仰を持ったばかりの頃に悩まされた4つの問いに答えている。4つの問いとは、「『神』という概念は、人間の願いの投影に過ぎないのではないか」「宗教の名の下になされた害悪はどうなのか」「神が愛に満ちているなら、なぜ世界に苦しみがあるのを許容するのか」「理性的な人間がどうやって奇跡を信じることができるのか」だ。
最後の問いは、事後確率を計算するための計算式であるベイズの定理も交えて論じている。はっ、とうなずく驚くべき確率論なので、読むことを勧める。
最後に、本書の中のエピソードを1つだけ紹介しよう。ボランティアになってナイジェリアで医師を務めた時の話である。
一人の若い農夫が、足が膨れ上がり、息も絶え絶えの状態で、家族に連れられ、病院にやってきた。診察してみると、結核の重症患者で、薬も道具もない中で、どうやって助けるか。心臓に大量の血液混じりの結核侵出液が貯まっている。胸に太い針を刺して、これを抜き取れば助かる。普通なら、心臓専門医が、超音波投影をしながら、太い針を刺す。一歩間違えれば、直ちに死に直面する危険な医療行為である。彼にそのことを告げた。彼は言った。「針吸引してください」と。
フランシス氏は、心臓が飛び出しそうなほどの緊張に震えながら、患者の肋骨を狙って太い針を刺した。直ちに血液が出てきたが、それは赤い血ではなく、血液まじりのドス黒い結核侵出液で、1リットル近く抜き取ったら、足の膨れはなくなり、息は正常に戻った。
翌朝、患者の病室に行くと、元気になった若い農夫が言った。「あなたは、なぜこんな所に来てしまったのか、と思っているでしょう。私にはその答えが分かります。あなたがここに来た理由はただ一つ、私のためだったのです」。
「大勢のアフリカ人を癒やす偉大な白人医師になる、という私の壮大な夢は、ただの思い上がりだったと悟るには十分だった。そして、彼の言葉を噛みしめながら、なんとも言葉にできない平安を覚えた… 異国の地で、私は神の御心を確かにつかんだ。我々の心の中に刻まれている善意への願望を通して、神の聖なる性質を見た」とフランシス氏は述べている。
横浜教区信徒 森川海守(ホームページ https://mori27.com)
アッシジの聖フランシスコを回心に導いた「サン・ダミアーノの十字架」のイエスの両側に描かれているのは、イエスが亡くなった時に十字架のそばに立っていた人々です。しかし、その人々の中で、十字架のイエスの左腕の下、一番右に描かれている百人隊長は、ヨハネ福音書には一度も登場しません。