Sr石野のバチカン放送今昔④ 教皇パウロ6世の急死と逆転した報道

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1978 年8月6日、ローマは暑かった。夕食後、修道院の庭で涼を取りながら幾人かで談笑していた。その時、電話に呼び出された。駐バチカン日本大使館のR夫人だった。「教皇さまが亡くなったって本当でしょうか?」。「えっ」。私は絶口した。「すぐ確認して、ご連絡します」と答えた。

バチカン放送局に勤務する司祭たちが居住するイエズス会の修道院に電話した。電話口には一人の神父が待機していて、話はスムーズに進んだ。「午後8時40分、カステルガンドルフォの夏季別荘で教皇が亡くなりました。明朝8時に、放送局で「緊急会議」が開かれますから、会議室に来てください」。B神父が応えてくれた。R夫人に確認の電話を入れた。これから何が起こるのだろう、全く想像がつかない。ただ緊張が全身に走った。

翌朝、朝8時少し前に会議室に行った。各セクションの責任者が集まっていた。ほとんどが神父。誰の顔からも心配と不安の色が読み取れる。事は重大。それは誰でも分かっている。だが、どうやってそれに対処すべきか?

バチカン公会議後、放送局としての形を模索中のバチカン放送は、緊急時の対応にまだ慣れていなかった。初日はイタリア放送や他の新聞が提供した情報交換が、会議の大半を占めた。バチカンの一大事というのに、バチカンの報道関係者が他国〈イタリア〉の報道機関の情報に頼って情報提供するのはおかしい。「これから教皇が選出されるまで、毎日会議をする」と、議長を務める局長が最後に言った。

翌日からは毎朝8時に、関係者が会議室に集まった。日が経つにつれて、いろいろのことが整理され、煮つめられ、的が絞られてきた。その後のオルガナイズは見事だった。バチカンのニュースは教皇庁広報評議会を通して、まずバチカンの報道機関である広報室、バチカン放送、日刊紙「オッセルバトーレ・ロマーノ」に伝達され、そこから他の報道機関に流される。

これまでバチカン関係の報道の最前線にいたイタリアのテレビ局も新聞社も、バチカン広報室やバチカン放送からニュースを入手し、それを報道するようになった。順序がひっくり返ったわけだ。わたしたちは喜び、他の報道関係者たちは慌てた。

 ( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女)

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2016年11月26日 | カテゴリー :