JLMM漆原「ともに生きるヒント」①

「ともに生きる」ということ

 どのように、生きるか。

 いきなり人間の根源的なテーマのようですが、毎日の暮らしの中で折に触れ問われる、実はとても身近な問題かもしれません。では、「キリスト者として」どう生きるか、ということを考えてみる時、自分の意志や願いだけでなく、そこに神様の意志や計画、「神様は私をどうさせようとしているのか」という「ミッション」の視点が大切になると思います。

 ところで、教会ではミッション(Mission)の訳語として「宣教」という言葉が使われていますが、この訳語が今の時代に本当にふさわしいかどうか検討する必要があるのではないかと思います。

 ミッションの語源はラテン語の「Missio」であり、その本来の意味は「派遣」とか「使命」です。キリスト教を世界に広め伝えるということが主な使命であり、それが派遣の目的だった時代は確かに長く、その状況においては確かに「Mission」を「宣教」と解釈し表現することは自然なことだったと思います。ところが今は時代も変わり、ヨーロッパの大航海時代当時の「ミッション(Mission)」とは意味合いが変化しているはずです。

 ミッションの本来の意味に立ち返り、私たちが「どこへ、なんのために派遣されているのか」をその時代や置かれている場所、状況から探ることが求められていると思います。今の社会で私たちに求められているのは、様々な異なる文化、宗教、政治的状況にある人々の間に、キリストから派遣され、お互いに認めあい尊重しあいながら、お互いの幸せや平和に向けて、「ともに生きる」ことであり、これこそがミッションなのだと思います。

  私が所属する「日本カトリック信徒宣教者会(JLMM)」は信徒を「宣教者」として海外に派遣する団体ですが、創立30年を迎えた2012年に当時の全派遣者が集い、私たちにとっての「宣教」とは何かを皆で「ひとこと」ずつ30個あげ、分かち合いました。そこででてきたものは、「希望を伝える」、「平和を実現する」、「寄り添う」、「多様性を生きる」といった言葉で、それらはすべて「ともに生きる」ための具体的な行動なのだと感じます。これがミッション(派遣の目的であり使命)なのだと考えると、もはや「宣教」という言葉自体はその実際のあり様を適切かつ十分に表現していないようにも思えます。JLMM-Japan Lay Missionary MovementのMissionaryは、「宣教者」よりも「ミッションを生きる人」「使命を帯びて派遣された人」と表現するほうが、実際の働きにより近いイメージかもしれません。崇高かつ決して容易ではないミッション、「ともに生きる」とはどういうことなのか、何が必要でどう取り組んだらよいのかということが、私たちの究極の、中心的な生活のテーマといえるでしょう。

  このコラムでは、JLMMの派遣国であるカンボジアや東ティモール、また団体として関わっている東日本大震災の被災地での活動などを通して体験し、気づき、教えられたことの中から「ともに生きる」ためのヒントについて分かち合いたいと思います。

***JLMMについて***

 JLMM は日本カトリック司教協議会公認団体、国際協力NGOセンター(JANIC)正会員で、主にアジア・太平洋地域にレイミッショナリー(信徒宣教者)を派遣しています。
派遣されるレイミッショナリーは、派遣地において関わる人々とともに喜びや悲しみを分かち合い、地域の人々に向けたこどもの教育、衛生教育、栄養改善、女性の自立支援などの活動を実施しています。
 1982
年の設立以降、アジア・太平洋、アフリカ諸国16か国に100名以上のレイミッショナリーを派遣されました。現在はカンボジアと東ティモールに3名を派遣しています。

 JLMMでは毎年、派遣候補者を募集しています。賛助会員としてのご支援やご寄付をお願いいたします。またカンボジアスタディツアーやチャリティコンサートの企画、活動報告会やカンボジアハンディクラフト販売にご協力いただけるグループや教会を募集しております。事務局(jlmm@jade.dti.ne.jp)までお問い合わせください。

 日本カトリック信徒宣教者会(JLMM)事務局長・漆原比呂志

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