(読者投稿)なぜ、日本では”シノドスの道”の歩みが進まないのか?

 日本でほとんど進んでいない“シノドスの道”の歩み。なぜ、こうも進まないのだろうか。

 教区主催のシノドス勉強会と「霊における対話」に参加した。シノドス最終文書を読み、小教区に持ち帰り、生かそうという段階になる… すると、「何をどう進めればよいのか」、明確な指針がないため、何も出来ないのだ。

 そもそも、教会共同体全体の理解や賛同を得ている感じもない。さらに、「誰」が、司祭と”歩み”を進めていくのか、養成担当者なのか、議長団なのか。信徒間に信頼関係があれば良いが、無ければ主導権争いのような競争が水面下で始まる。そうすると、誰かが疎外され、一部の信徒と司祭だけで進めていくような事が起こる。小教区で”シノドスの道”の歩みを進めるためには、司祭によるリーダーシップが不可欠であることははっきりしているが、結局、「どう進めるか、はっきりした指針が無い」という、最初の問題に戻るのだ。

共同体のシノドスの歩みに対する意識はどうだろう。

 若い世代の忙しい信徒たちは、教会で自分や子供の友人を作ることができれば満足なのかもしれない。「日曜だけにしか来られないのだから、教会の奉仕や役割、問題を引き受けるだけの時間も、余裕もない」のだ。

 一方で教会に来る信徒のほとんどを占める高齢のベテラン信徒たちは、「教会での活動の中心に長くおり、精力的な活動」を続けている。だから「自分たちはもう十分に、共に歩んでいる。これ以上、何を求められるのか」といった具合で、新しい変化など求めていない。

 委員会活動、様々なチームでの活動は、確かにシノダリティ(共働性)が形になり、実践されているようだが、私の中にあるシノダリティのビジョンは、もっと繊細な、感性で捉えられるもののようなのだ。ひと言で言うと、「温かみのある教会となるための歩み」を模索している、ということだ。それは一人だけでは為し得ないため、共同体に働きかける良策を探すが、前述のように「共に歩む道」への関心は、多くの信徒から、寄せられないままなのだ。

教皇フランシスコが”シノドスの道”で目指そうとしておられた“共に歩む”教会とは、どのようなものだったか。膨大な量の文章やメッセージが出てはいるが、正直、自分がその核心を捉えているのか、疑わしい。個人的には次のようなことではないかと思っているのだが。
・同じ教会に集う人々が、自分達を ひとつ とみなすこと ・活動や関係のバランスを保つのに、お互いが補い合う力が働くようになること ・批判を分析に置き換えられる冷静さと識別が働くようになること ・感じていることを正直に話し合えるような交わりがもてるようになること ・そうした深い愛が、ひとり一人に呼び起こされ、「共同体の感性」が培われること ・そうして、キリストの生きた“有機体”としての共同体が成長すること…

私がイメージしたのはこのようなものだった。もし、それが”シノドスの道”の歩みの目的から遠くなければ、この歩みは数年で終わるものではない。恐らく私たちは、「その理想とビジョンをつかみ、共有しつつある段階にあり、スタートラインに自分たちが立っている」と自覚したに過ぎないのだ。

多くの信徒にとって教会とは、「神と個人とが繋がる場所」だ。「自分を発達させたい、癒されたい」という願望が、その中心にあるかもしれない。しかし、”シノドスの道”の歩みの狙いは、共同体単位での霊的な前進なのではないだろうか。

 「全体にとって善いことのために、自分は何ができるのか」という問いに、全ての信徒が招かれる。個人的問題は脇に置かなければならない。多くの信徒は無意識のうちに、そこに抵抗を感じるのかも知れない。 ”シノドスの道”の歩みが進まないのは、そうした理由かもしれない、と思い至っている。

 聖霊の導きが豊かに、より明確に得られるよう、皆で祈るしかない

(匿名希望 西方の女性信徒)

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2025年10月2日