「大いなる神は、我々が意識しようと、しまいとに関わらず、我々の最も深い所で、無条件に許し、愛し、守り、そして支えている」-20世紀を代表するドイツのカトリック神学者カール・ラーナーの言葉である。
我々は、日曜日を「教会に行って、祈りをささげる”脱世間”の日」とし、残りのウィークデーは会社や家庭で働く”在世間の日”というふうに分けて生活してしまう。これを端的に言えば、日曜日や黙想会の日々は”心の洗濯”の日、その他は”心が汚れ”ていく日といった具合だ。「脱世間」という縦糸と「在世間」という横糸がバラバラである。
では、イエスはどうだったのか?彼は一人で山の奥にひきこもり、すべて生きとし生けるものと共に、一晩を祈られた事がよく描かれている。例えば、マルコ福音書6章46節、ルカ福音書5章15~16節、6章12節などだ。。イエスの生涯は「脱世間」という縦糸と「在世間」という横糸が、見事に一つに織りなされていた。
だが、21世紀に生きる我々にとって、この現実世界はあまりにも忙しく、心を騒がせる事が多すぎる。この様な現実を前にして「神に祈る」とはどの様なことだろうか、と、ふと思う。
余談になるが、以下をお読みいただきたい。
先日、友人が、久しぶりに尋ねて来た。なんでも、一流の大学を出て、会社勤務も終わり、退職した、とのことであった。彼は私に「神」について10以上の質問をし始めた。私はその質問に「違う」、「いいえ」、と答えたり、「解らない」と言ったりすると、「それなら、神を信じていないのですね」と彼は聞いた。私が、「いや、神を信じている」と答えると、友人は啞然とした顔をした。
しばらくして、友人は「それって、どいうことですか」と、怪訝そうに尋ねてきた。私は、彼に、「君の質問はすべて言語化されており、日常の世界で言われているものだ」と答え、次の様に説明した。「君の質問は、いわゆる『表』の世界の事柄であり、『裏』の世界には、全く無頓着だ。君の質問のすべて事柄には『裏』の世界があり、その裏に『神』が張り付いているんだ」と。彼は不思議そうな顔をして「そういう考え方があるんですね」と頷いていた。
話を元に戻そう。我々の生活、日常の生活等は「信仰」と確実に結び付いている。これを簡潔に言えば、「生活即、信仰」、「信仰即、生活」と言えると思う。それなら「祈り」は即、我々の「現実生活」と不即不離の関係にある。 「現実生活」即、「祈り」、「祈り」、即「現実生活」であろう。
ここで、冒頭のカール・ラーナー(Karl Rahner)の「超自然的実存規定」を思い起こしていただきたい。なお、「即」というこの「語」については、またの機会にお話しする。