「カルチャーショックを受けませんでしたか?」
先日、葬儀場からの帰りの車の中で、若い神父様から尋ねられました。昨年4月、「30年にわたるタイでの宣教奉仕から帰ってきました」と自己紹介したところ、タイのカトリック教会の事などが話題になり、こう質問されたのです。
私の答えは「いいえ」でした。その余韻が体の中にこだまして残り、「どうしてかなぁ」と自問自答しました。本当に、全然、ショック受けていないのです。むしろ、どんどん挑戦して順応、福音宣教に燃えて出かけて行く自分に感心してしまうぐらいです。
派遣されて今日まで福音宣教の使命をフル回転で生きてきて、急ブレーキは掛かりませんよね。状況環境が変わっても、言葉や文化が違っても、内にたぎるイエスの福音への思いは、どんどん溢れ出て来ます。
今の社会の中にいると、多くの人に”福音への渇き”を感じます。道であり真理であり、命である師イエスの人々に寄せる気持ちで、私の心がいっぱいになり、走り出すのです。聖パウロのキリストの愛に駆り立てられる心境に、ほんの少しでも、あずからせていただいているのでしょうか。
タイで生活していた頃よりも、強く心底から突き動かされるのです。なぜなのか、はっきりは分かりませんが、私を福音のためにお召しくださった方の、行く手に向かう拍車なので身を任せています。
そうですね、日本の空に比べ、タイの空は高みに抜けていて、地上が圧迫されていないなぁ、と思います。うまく言えませんが、人間の限界の壁を突き抜ける超自然、魂の息吹く空に、抜けていているのです。人々の心には、単純に信仰の世界に羽ばたく感性が生きているのでしょうか。頭脳明晰、高度成長したAIデジタル社会日本では、知識や可能性の領域の層が厚く、単純に夢や信じる空に突き抜けにくいのかも知れません。
一人ひとりが信じて羽ばたける世界が、見えなくても確かにあるのです。仏教文化が滲み込んだ見えない信仰の領域が、普段の生活圏にあるのです。タイの人達は神様を信じないでどうして生きていられるのか、と信仰を持たない人をいぶかしがります。畏敬の念を持って生きる、これは救いですね。
久々に日本に帰り、生活して、私が突き動かされる現実は、この辺りにあるのだと思います。祈りにも活動にも、さらに熱がこもり、新しい宣教地に派遣されたような気持ちで日々励んでいます。受けたのは「福音宣教に駆り立てられるショック」でした。
やっと涼しくなって気持ちの良い秋空、人間を羽ばたかせる夢や信じる力が、理屈や常識の分厚いデジタル層をも突き抜けて、高みに舞い上がり、歓喜の空気を吸えるよう願い、祈っています。
(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)