「(からし種は)どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」(マタイ福音書13章32節)
その日の雨は、栗の花が項垂(うなだ)れていて、自然の中は歩くだけでも、生死が在りました。小さな虫が雨水で流されたか、と思えば、夏の花が育とうとする―それは6月、病院への近道なので、神社の境内を歩いていたのですが、一羽の烏が飛んで来て、灯籠の上に留まって、私に向かって鳴きました。
その時の私は呑気に「挨拶をしにでも来てくれたのかな」と思いました。その姿を可愛いとすら思って見ていたのかもしれません。すると、烏は私を遮ってまた別の灯籠に飛び移って鳴きました。私は何故かそれだけで心地よく、雨の香りと音に酔っていたのか、首を少し傾けて歩き続けました。そして、また烏は、私の視界を遮って、別の灯籠に飛び移りました。段々と羽音が俊敏になっていたので、私はこの時に初めて、威嚇されている、と気づきました。そしたら次に、何故、威嚇されているのだろう、と思いました。
神社の境内を出ると、烏は追いかけて来ませんでしたが、振り返ってみると、最後に留まっている灯籠の位置が印象に残りました。雨の中、凛々しくこちらを見つめている烏の姿で「あれは何かを守っているのだな、あぁ、巣があるんだな」と気づいたわけです。そして暫くは、あの辺を通るのをやめなければならないな、と思いました。
20日後ぐらいに、烏のことを思い出して、そろそろ巣立ったのかもしれないと、晴れている日に見に行きました。烏の姿は何処にもなく、私はあの雨の日に、烏がどのように灯籠を移動したのか、記憶を辿りました。その周辺の木を探せばあるはずだな、と思って、最初に威嚇された灯籠の近くの木には当然あるはずがありませんでした。
何処に巣があったのか、烏の鳴き声を思い出しながら、一番俊敏に動いて強く鳴いた最後の灯籠の位置へと向かって、その奥にある茂みに入りました。そこに立っている木は背が気が遠くなるほど高く、肉眼だと追いきれないほど枝葉が迷路のようで、烏の巣は確か枝に紛れているようなものだった、と探しました。見つからないかもしれないとも思いましたが、私はどうしても探してみたいと思いました。首がそろそろ疲れてきたな、という時に、複雑になっている木の枝の層の上に不自然な塊が見えました。巣立った巣が、そこにあったわけです。
私は哲学と宗教観の狭間に「鳥の巣」を詩学の一つとして置いています。ガストン・バシュラールが「現象学者なら、鳥の巣に反響しないでいられるだろうか」と言いましたが(空間と詩学)、私の哲学は「現象学」が専門ですが、当時知ったときには印象には残っていましたが、理解まではしていませんでした。洗礼を受けてから、執筆のために神父に取材を重ねている間に疲れが出て、ボンヤリしているときに「なんだか、自分は鳥みたいだな」と思いました。
誰からも気付かれず、木の枝から餌だけを取っている……しかも、全て無駄かもしれない。途中で餌を落とすかもしれないし、捕獲されたように、私は突然の事故で消えてしまうのかもしれない。けれども、帰えることができると信じて、インプットされた帰路を辿って家(巣)を形成する。
その時に恐らく、イメージが出来たのだと思います。(第二作のIconograph)それは理屈ではなく、言葉では説明できない集約でした。マタイ福音書の13章に目をつけたのもその時で、神の御言葉が育ったものを摘み取って、巣にしていくこと、これが私のテーマなのかもしれない、と思いました。鳥はとても現実的で、草や枝だけではなく、人間のゴミや日常からも巣のために摘み取っていきます。ですので、鳥の巣には、小さなビニールのゴミが一緒に巣が形成されているものがあります。
鳥の巣を作ろうとする本能と機能には、解明されていない狭間がありますが、「現象」Phänomenは、説明よりも前に存在しています。哲学的な「現象」と心的経験は切っても切り離せないでしょう。私の信仰心の他に、まだ知らない三位一体の愛の謎が深く在りますが、それを体験として「現象化」させるのは、己の心的感覚が頼りとなります。その時の視界は、特別で華やかなものではありませんでした。常に変わらない景色、変わらない日常でしたが、鳥の巣が詩学として形成される瞬間は平凡な景色が変わって見えるほどでした。
「耳のある者は聞きなさい」(マタイ福音書13章9節)のように、無音からも何かを感じ取ろうとすることは、御心を聞こうとすることと同じでしょう。
御心である種は成長し、鳥の巣を作るほど大きくなりますが、また鳥の巣も育った御心で作り上げられたものなのであって、鳥が日常を見逃さず巣にするように、何気ない日常に御心は存在します。だからこそ、あの日、私は「必ず見つけたい」と思いました。
(Chris Kyogetu)