・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑧詩的創作で生み出した「美しい娘」「葡萄酒」とは

ハーフェズの詩的創造力の源泉として、神の愛を求める修業と並んで、ハーフェズの世の欺瞞と不正に対する怒りを指摘したが、その関連で、前回のコラムでは、次の詩句を紹介した。

 「美しき娘よ 公正の酒壺から葡萄酒を小さな杯に分けてくれ乞食(真摯に道に励む者、正直者)が 世界をひっくり返さないように」を少し説明しておこう。

 ハーフェズが、その詩的創作で生み出した工夫が「美しい娘」と「葡萄酒」である。いずれも神への愛の魅力と成就の困難さ(美女との恋愛)、および神への愛の陶酔(葡萄酒)の象徴として登場する。ここでいう公正の壺とは、時の権力者が、徴税逃れのごまかしを抑えるために、規定量の葡萄酒が入る壺を作り、その量に応じて課税するために用いたものである。

 引用の詩句では、不正や欺瞞が取り締まられ、正義が実現されるよう訴えるとともに、同時に自らの神への愛の成就とその愉悦を、美女からの葡萄酒に仮託して懇願している。正義が実現されなければ社会は混乱を増さざるを得ず、また葡萄酒(神への愛の成就から得られる愉悦)が得られなければ、道の修行者(ハーフェズ)は苦しみ、のたうち回ることになる、と述べている。

 ハーフェズの詩的生き様の背景にあるその宗教観・人生観を今一度見ていこう。ハーフェズが実践したイスラーム神秘主義の世界では、神の唯一性の帰結として、神以外のすべての存在はうつろう現象である。神との一体を求める修業、すなわち神を愛しぬくことは自己を滅却することであり、その神を捉える主体は心である。

 2回目のコラムで取り上げた、「長い間こころは 世界を見透かす杯を 我々に求めた自ら持てるものを よそ者に求めたもの皆が生み出される根源の宝を 海(道)にさまよった者に求めた」を思い出してほしい。

 改めてこの詩句を解釈すれば、次のようになる。

 「こころ」は、ここでは自分と解すればよい。「我々」は自分の頭(知識)と考えればわかりやすい。「世界を見透かす杯」とは、すなわち神であり、「杯を得る」とは神への愛を成就することである。神のために自己のすべてを葬り去ることである(自己滅却)。それによりすべてを見通せるようになる。「自ら持てる者」とは、神を捉えることのできる主体すなわち自分の心であり、「よそ者」とは、自分の頭(知識)である。「もの皆が生み出される根源の宝」とは、万物の創造主である神のこと、それを求めるのに、「道にさまよった者」、すなわち、自身の頭や知識に頼った。

 そんなことで、神への愛が成就されることはない。「よそ者」あるいは「さまよった者」とは、知識であり教科書である。また物知り顔の導師もいる。「心」に捉えられるべき神は、知識によっては得られないことを、ハーフェズは繰り返し歌っている。教科書を読んで実現できることではない。教科書的な知識はかえって邪魔になる。自ら実践し体得しなければならないからである。それは有害ですらある。「心よ 知識の害毒によって一生が失われた100ある素地も生かされなかった」のである。

 「我が知識の書すべてを 葡萄酒で洗い流そう 宇宙は我が知ったかぶりに 復讐するものだ」。ここで葡萄酒というのは 神の愛に酔うこと、一心不乱に神への愛に邁進することであるが、葡萄酒ついては、別に改めて述べる。

 (ペルシャ詩の翻訳はいずれも筆者)(駒野欽一=国際大学特任教授、元イラン大使)

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