「初めに、言(ことば)があった」—これは、ヨハネの福音書の書き出しである。主は、言葉によって世界を創り、私たちをこよなく愛しておられることを、目に見える形にしてくださった。また、聖書には、イエス様の思いや愛が、様々な場面での言葉を通して伝えられている。
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私にも、「イエス様のように、愛を伝えたい!」という思いはある。しかし、相手の気持ちが読み取れず、言葉で失敗したり、人間関係を複雑にしてしまうことが、人一倍多かった。ネットやSNS上のコミュニケーションでは、更に難しくなる。表情やジェスチャーや声のトーンなどのヒントが全く見えないので、誤解が生まれることも多い。そんなわけで、文章の言い回しやニュアンスなどを丁寧に考え、常に気を張っている。
そうするようになったのは、私自身が、ネット上のコミュニケーションで、失敗したり傷ついた経験があったからだ。ある時、私に対して、差別的な言葉を、匿名で書き込まれたことがあった。胸をグサリと刺されたような気持ちになったし、『見えない相手』からの攻撃的な言葉からは、面と向かって悪口を言われた時よりも、ずっと大きなダメージを受けた。ネット上での誹謗中傷に対して反論するのは、胸がすっきりする以上に深く傷つくリスクが大きい。だからといって、開示請求で相手を特定するには、大きなお金がかかる。心に鋭い言葉が刺さったまま、「この気持ちをどう処理したらいいのか?」と、途方に暮れた。
しかし、ふと我が身を振り返ると、私自身にも身に覚えがある。自分が正しいと思ったことを、相手に指摘したい気持ちで、SNSに書き込んだことがあった。私は、「はっきり言わないと、伝わらないかもしれない」と考え、強い言い回しを選んだ。けれども、後から読み返すと、それは相手を傷つける言葉だったと気づいた。「自分は間違った正義感を振りかざしてしまった」と反省し、申し訳なさでいっぱいになった。自分の未熟さが恥ずかしかった。
私は、誹謗中傷を『される経験』と、『してしまった経験』の両方を体験を通して、やっと、「論評と誹謗中傷は、全くちがうものだ」と思い至った。
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様々な意見があり、多くの人が集まれば、違う意見も出てくるのは当然であり、議論が活発になるのは、とても良いことだと個人的には思う。ただ、私としては、投稿ボタンを押す前に、「私は、感情的な言葉を選んでいないだろうか? 相手の人格を否定していないだろうか? 論評のラインを越えていないだろうか?」と、必ず確認をしたい。名前を公表するかしないかに関わらず、画面の向こう側にいる人たちを想像し、発言に責任を持ちたい。
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ある小説家が、「SNSやネットの中では、言葉は処刑の道具として使われている。それは、言葉を使う仕事をする者として、悲しい」と話していた。
自らを戒めながら、言葉を使い、建設的な議論ができる言葉を選びたい。そして、世界が、愛や優しさを実現するための言葉であふれていくよう、まず、身の回りの人に思いやりを持って言葉がけをしたい。
(東京教区信徒・三品麻衣)