2025年クリスマスおめでとうございます! 2026年新年おめでとうございます!
コラムを掲載していただいていることに感謝しかない。そして、私の意見や感想が的確であったかどうか疑問であり申し訳なく思っている。私なりにクリスチャンとして綺麗な言葉をいくらでも選び書き記すことはできるが、それは私にとっては偽となる。全てに本物思考の私にとって自分が偽物(者)になることはできないのである。
2025年後半、私は、ある政党の勉強会に参加しながら、カトリック教会の“シノドス流(?)の教会”の勉強会にも参加してきた。日本そして教会は、どこに向かうのか。教会は社会をどこまで理解しているのか。
政治と宗教は、人間が生きるための方向性を示す組織と私は思っている。何の組織であれ、トップに立つ人間、肩書を有する人間によってその組織は社会で評価されるだろうが、政治と宗教も例外ではない。
私たち平(?)信徒のほとんどは、カトリック教会になんの問題意識も持たず、「右に行きなさい」と言われれば、右に行く。いや、「今日からは左に行きなさい」と言われたら即刻、左に行く。そこには疑問も抵抗もない。良き方向転換ならばそれでいいのかもしれないが…
私が持つ教会への疑問は、身近な教区小教区の現状からであり、全てのカトリック教会には決して当てはまることではない。
先日、某補佐司教と某宣教会総長と初めて出会い、まともな人間の聖職者の存在があることに安堵した私である。女性信徒たちの熱烈歓迎?にも安定の対応であった。
「教会とは?」と、問い続けた私に答えが出た。この答えを天に召された2人の司教方に言えばどんな反応があるだろうか。
今日、フランス人のオルガニストの若者と教会について話し合った。彼と私の意見は一致した。彼は今、ドイツを拠点に活動しているからドイツの若者事情からも出た答えである。
教会に社会にはない居心地の良さを求めることは大事なことである。教会もそのような人々のためにあるのだろうが、信徒は社会で生きねばならない。イエスも人間として社会で生きた。
教会の状態を考えた時、教会で指導的立場にある人たちの責任は大きい。聖書を熟読し参考文献や本を山ほど読むことはお約束で、指導者自身が本物の愛を実感し、人間としての経験を積み、四苦八苦しながら社会で生きていることが最低限必要であろう。なぜならば神であるイエスの教えは無限であり、そこには愛がある。数学を教えるようにイエス=愛を教えることはできない。
教会には擬似的満足だけの状態があまりにも多いが、愛はそうであってはならないはずだ。愛は本物でなければ虚しいだけだろう。本物の愛を得た時、そこに神の愛があることを知る。神の愛で満たされた信者が集う教会こそ, 本物の「イエスの教会」だろう。
2026年が皆さまにとって良き年となりますようにお祈りいたします。
(西の憂うるパヴァーヌ)