・愛ある船旅への幻想曲(54) 「頭で考えただけの愛、うわべだけの愛」を”真理の愛”と思い込んでいないだろうか

*私の永遠の課題—教会とは何か。

 

   「信者一人ひとりが真摯に考えねばならない」と常々思っているが、司祭を含む多くの信者は「頭で考えただけの愛、うわべだけの愛」を”真理の愛”と思い込んでいるのではないだろうか。教会は”ルール”ではない。言行一致の”愛”、血がにじむような”愛”を経験せねば、神もイエスの存在も分からない信仰生活になるのではないか、と思う今日この頃である。

 今を生きる子供たちに『神』を教えることは容易ではない。インターネットAIが身近にあり、知りたい答えがすぐ手に入る時代である。AIは、どんな時に、なぜ利用するのか、その答えは一つではなく、危なっかしい問題でもあるが、即答を好む子供たちにとっては良き友である。「目に見えない神を僕は信じられない」とはっきり言う子供は正直である。

 

*未信者の高齢の御婦人から受けた質問に考えさせられる
 先日、未信者の86歳のご婦人から、「お友達と宗教のことを話していたんだけど、日本人にとっては、やっぱり××の宗教が一番いいのかしら?」と質問を受けた。その宗教団体の名前を聞いた私は、ビックリしたが、参議院選挙の最中でもあり、彼女が今の世の中に不安を感じ、宗教のことも頭にあることに驚き、さすがと思った。彼女は二人の子供を聖公会の幼稚園に通わせていたし、仲の良いカトリック信者の友達もいる。その友達は今、教会には通っていないが。キリスト教に興味を持った(?)日本人がここにいる。
 私が知る地方のカトリック教会の現状は、高齢者と、受洗したばかりの人たちが教会を運営している。何も分からない新メンバーは「自分が体験している今の状態」が教会のあり方だと勘違いし、受洗後すぐに与えられた奉仕職を断ることなく受ける。そして、数か月後には教会に来なくなる…
 ある古い?男性信徒が私に言った。「60年前も、教会の中心信徒グループで残ったのは◯◯さん1人だった」。教会は、中心になる信徒の減少を繰り返し経験しているということか。だが、今回はどうだろう。 ”繰り返し”もできなくなっているのではないか。今、教会に残っている信徒は高齢者であり、次に引き継ぐ世代がいない。若者も子供もいない。

*在日30年の米国人の友人がカトリック教会から正教会に移った
 正教会のミサに与るアメリカ人の友人と話をした。彼は、アメリカでイタリア系アメリカ人の家庭で育った熱心なカトリック信徒で、30年前に私が所属する小さな西の小教区に転入して以来の友人だ。教会の「教え」を守り、祈りとミサへの参加を欠かさない信徒で、ご聖体に対する思いは私の比ではなかった。
 だが、10年ほど前から、私たちと同様、この小教区、教区のあり方や聖職者の対応に疑問を感じるようになり、悩んだ末に、昨年初めから正教会に行くようになった。私も一緒に行ってみたが、私の知るカトリック教会よりも明らかに厳格だ。洗礼式、結婚式、断食の期間、ミサの内容も丁寧で時間も長い。あれだけ長いミサ司式文を覚えている司祭に敬意の念を持った。司祭は、週日は、社会で働き、家族と教会のために収入を得ているという。そうした生き方自体が、今の時代には大きな説得力があり新鮮に感じた。
 
 「カトリック・あい」に掲載された(読者投稿)と(コラム反響)を読んだ。”シノドスの道”にかけた教皇フランシスコの思いは何だったのだろうか。「どうせ何も変わらない」と言ったアメリカ人の友人の言葉が正しいのか。どれだけの聖職者と高齢者が、子供のこと、未信者の高齢者の思い、地方教会の現状、教会の変遷、信徒の悩みを知っているのか、知ろうとしているのか。
 ”シノドスの道”の受け止め方は、国によって違うだろう。キリスト教の文化がいまだに浸透していない日本で、高位聖職者たちは信者にどのように説明し、導こうと考えているのか、いないのか。肝心のシノドス担当者が″シノドスの道”の歩み方をまともに理解できていないこと、教会で生きていながら”愛”を知らない信者の存在があることが、この読者投稿とコラム反響で示されている。そして、その中から、現状から目を背けず、何とか対応できないかと努力する司祭や信徒がいることに、「光」を見つけた私でもある。
(西の憂うるパヴァーヌ)

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2025年7月31日