今年も待降節が始まりました。人間として良き心の準備ができますように、と祈ります。
2025年12月、“教会”について問い続けねばならなかった私の心のざわつきが、やっと落ち着いたようだ。
9月以降、『シノドス』についての“勉強会”(?)の案内を見つけると可能な限りそこに出かけたことが良かった。カトリック教会の現実を分かっていても、その場所場所でその空気感を肌で感じることが私にとって必要だった。
『シノドス』勉強会(?)に参加する信者の少なさは、私の想像をはるかに超えていた。この状態を目の当たりにし、発表する高齢信徒たちからの『シノドス』への率直な意見を聞けたことも収穫である。
「昔に教えられたことを今まで守ってきた。「シノドス流の教会」(公式文書の原文にはない、華道か茶道になぞらえたつもりか、日本の教会”独自”のふざけた命名だが)と言われても、これまでの教えを今切り替えることは難しい… 例えば、 『神父を神と思え』『カトリック以外の宗教は邪教だ』『神社の鳥居をくぐってはいけない』等々」。
この言い伝え?教え?は何度もカトリック信徒家族で育ってきた幼児洗礼者や80才90才代の成人洗礼者から聞いてきたが、シノドスの勉強会?で改めて生の声を聞くと「実におもしろい!」としか言いようがない。ただし、この『おもしろい』に多種多様の意味を込めたつもりだ。
「教会にとって何が一番大切なのか」「信者は何を学び、自分自身の信仰に活かさねばならないのか」「なぜ、信徒は主日のミサに与らねばならないのか」-この問いの答えは今どこにあるのだろう。
ミサで、主日の福音説教らしきものはなく、説教台から一方的な愚痴を延々と喋り、その場にいる別の聖職者も、信徒たちも、聴いているのか、いないのか黙ったまま… ミサに与る日本人が減り続けて少ないことも然りだが。このような内容のミサがあることを司教団はご存知か。
以前、ある司教が講演で「自分に合った司祭を見つけなさい」と言われたことが今更ながらよく分かる。今回のシノドス勉強会(?)に参加し、目が開かれたことは、大きな教区の信徒は所属教会ではなく、他の教会のミサに自由に与かれる、ということだ。地方の教区では、こうはいかない。羨ましい限りである。
教会の問題は山積みであるが故に、昨年の世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会は、信者全てに開放されていたと私は思っている。しかし、フランシスコ教皇が始められ、4年目の”シノドスの道”は、大多数の信者にとって、何の興味もなく、今の自分の状態だけに安堵できればそれで良し、だ。
考えてみると、真剣に教会を考えて改革しようと思った人は、既に、ここには居ないのだろう。「カトリック教会は変わらないでしょう!改革しようと真剣に取り組むことは時間の無駄。無理無理!」と。これが、私の周りにいる、だいたいの信者の決まり文句ではなかろうか。
”シノドスの道”もポーズだけの呼び掛けで終わらないことを願ってはいるが、相変わらず、「無理無理」かも知れない。カトリック教会の伝統的制度が社会では不思議がられ、「無理無理!」と言われ続けても、教会が何の反応もしないのは、ある意味で”アッパレ”であり、“無理無理サイド”の信徒ととしては、早々に逃げるが勝ちかもしれない… 時間は有効に使いたいものだ。
(西の憂うるパヴァーヌ)