・愛ある船旅への幻想曲(57)結婚するために司祭を辞めて帰国した英語教師と再会して思ったことは

 10月、日本は新しい総理大臣が選出された。私たち国民一人ひとりが思いの一票を投じることができない日本のトップ選びではあるが、トップに立つ人間として国民のために良き働きをなさってくれることを期待したい。

 私は、高校入学と同時に「カトリック教会が高校生と高専生を集めて英語を教えるらしいから参加しない?」と親友から誘いがあり、参加した。この時代は、外国人から英語を学べることが珍しかった為か教会の信徒ホールは学生で満員だった。(40年後に当時のこの教会の女性伝道師から生徒集めに大変苦労したことを聞いた。。)

 若い米国人司祭4人が英語教師として紹介された。私は他に習い事もあったため毎週出席できなかったが、親友は熱心に通い、彼女の家が高専校の近くだったこともあり、高専生の男子グループと親しくしていた。教会の庭で司祭と生徒たちがピクニック?もよくしていたみたいだ。

 ところがある日、突然、その英語クラスが無くなった。熱心な生徒ではなかった私もビックリした。英語クラスが無くなった理由は「司祭2人?3人?が結婚するために、米国に帰ったらしい」と高専生から聞いただけで、この時(も)、教会からはハッキリした説明もなく、うやむや状態。私は当時、司祭の独身制を知らなかったから「結婚おめでとう!」と能天気。

 親友が「いやいや、教会にとっては大変厄介な問題らしいよ」と言ってはいたが、未信者の私たちにとっては、英語クラスが無くなったことの方がショックが大きく、カトリックの教会事情は別世界の話だった。何よりも「男性が愛する女性と結婚するのは当然なこと」と思っていた夢見る高校生女子には、「お相手は誰?」との興味しかなかった訳で、これが世間一般の感覚と今も思っている。

 それから数十年経って、当時の英語指導の元司祭が米国から妻の里帰りに同伴し、教会に立ち寄った。私が当時の生徒だったことを話すと「こんな所に私の生徒が居たのか!」と大変喜んでくださった。この教会(小教区)で当時、英語クラスに参加した信徒の学生は不思議なことに誰も居なかったみたいだ。元司祭と私は当時の話で盛り上がり、楽しい時間を過ごした。彼は今も家族と米国で幸せに暮らしている。

 今、厄介な教会事情を知る私である。

 司祭の独身制について初めて知った時の私の反応は、「へぇー」だった。あの時、司祭職よりも愛する女性との結婚を選んだ司祭方の葛藤と決断を知り、ドラマのようなロマンチックなHappy Endに以前よりも一層、心から「おめでとう〜!」と言ったものだ。

 今、司祭の性的虐待問題からカトリック教会を去る信徒と、全く何事もなく教会に集う信徒の二分化がある。

 司祭の独身制が性的虐待問題に影響がないとは言えないだろう。私にとって司祭の性的虐待が一件であろうが百件であろうが、数に関係なく、「司祭」という職に裏切られた腹立たしさと恐怖心、そして何よりも被害者への謝罪がない状態は、教会への失望しかない。勇気を持って訴えた被害者を教会内で差別することは信じられないが、教会の悪しき側面がここでも実証されている。

 司祭も人間であり、結婚か独身を選ぶことは本人の自由ではないだろか。カトリック教会では『人間の尊厳』の見解が難しい。教会で独身制を守る組織には、独特の男性性と女性性が確立され、そこには神への尊厳がある…。

 2025年の今、神は「人間の成熟」を望んでおられるのではないだろうか。人間としての成熟は、如何にして養われるのか。ここからのスタートだと私は思っている。今行われている”シノドスの道”の歩みが、信徒参加を特別に強調するのであれば、教会と信徒の現実の姿を幅広く知った人が、誠意をもって「人間の尊厳」をしっかり論議した上で、イエスの信仰を自由に生きる教会の改革へと導いて欲しい。そう切に願う私である

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2025年10月30日