・愛ある船旅への幻想曲 (55) 平和祈願ミサに出て信徒激減を実感、司教たちに「愛のためにリスクを冒す覚悟」があるのか

   8月、今年も教会行事として平和旬間、聖母被昇天祭が各教会で開催されたことだろう。

   私は5年ぶりに地区主催の平和祈願ミサに与った。このミサの司式者は司教であったにもかかわらず、集まった日本人信徒の少なさから、教会の現状を知った。 このような寂しい教会の現状に問題意識を抱く信者はどのくらいいるのだろうか。

    この小教区の今年の全体会で発表された現況届の信徒数は4年前の半数である。私は「この人数はどういうことか?」と質問した。今、毎週教会に集う信者の方々が信徒数の減少に何の興味も関心もないなら、これからの教会を考えることも、”シノドス流”の教会を目指すことも眼中にはないのではないだろうか。

    5年前までは、主日のミサに与る日本人信徒でこの小教区の聖堂は満席だった。「カウントの仕方が教区の指導で変わった」と議長は答えた。結局、信徒数減少から教区納付金資金難のためのための画策だ。生存中の信徒を教区が抹殺したということか。恐ろしい話である。

    ある時から、この教区は教会刷新のための信徒からの意見等に耳をかそうとしなかった。教皇フランシスコが目指された教会の変革も、社会への挑戦の努力もなく、結局は自己中心的な教会になっている結果がここにある。

    いったい日本の何人の司教が、シノドス最終文書に書かれている「第二部・司教の役務、司教と共に」を読み、司教としての責任を持って現地教会を統率しようとしているのか。すべての教会との交わりの絆としての使命を実現しようとしているのか。共同体の中で、共同体とともに、共同体のために奉仕しているのか。信者の声に耳を傾けているのか…

   そして、今、カトリック信者であることを自覚して日々を送っている信者はどのくらいるのだろうか、と最終文書を読みながら疑問が多い私である。

 以下は、教皇レオ14世の、ルカ13章22-30からの福音説教(「カトリック・あい」翻訳)から抜粋

 「イエスは『信者の確信』に挑戦しているのです。ですから、単に言葉で信仰を告白し、ミサに行き、キリスト教の教えを暗記するだけでは不十分なのです」とされ、「信仰は、私たちの全生活の一部となった時、つまり私たちの選択の基盤となり、イエスのように善を行うことに献身し、愛のためにリスクを冒す覚悟のある人間へと導く時に、初めて本物になるのです」と説かれた。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2025年8月30日