これまで4回にわたって教皇制について述べてきました。
教皇の至上権に基づいて異端審問と十字軍が一つに融合すると、キリスト教異端だけでなく他宗教、異教も滅ぼして、世界へ向けて「宣教と征服」がなされました。西欧カトリック教会に合わないものは文化的・習俗的なものも滅ぼして、教会や西洋文化を植え付ける、植民地化する。
教皇の至上権は、教皇の支配下にある位階制(司教、司祭等)によって集権的、一元的に行使・管理され、権力として行使されます。そこに一般信徒の入る余地はわずかしかありません。なので、そこにあるのは「支配」であり、「暴力」ともなります。
*元司祭で著名な作家、ジャーナリストの論考「司祭職を廃止せよ」に多くの示唆がある
今回は2019年発表のJ.キャロルの論考「司祭職を廃止せよ」(上智大学神学会誌『神学ダイジェスト138号』に日本語訳が掲載)の内容を紹介します。キャロルは1943年生まれで元カトリック司祭の著名な作家・ジャーナリスト。自分の体験と思索を重ねて書いたのがこの論文です。
*性的虐待は教会の構造的組織的な問題でもある
まず、多くの国の孤児院、小教区、学校、保護施設等で、カトリック聖職者による子供や少女、女性のレイプや虐待が公的機関によって調査され裁かれた例が示されています。裁判の席で、ある被害者は「これは魂の殺人です」と語ったといいます。にもかかわらず、加害者の属する教区の司教・枢機卿や修道会の長上は事実を否定したり隠蔽したり、「知らなかった」と言う。
カトリック司祭のいるあらゆる所で性的虐待があり、それらが教会当局によって無視され隠蔽されているので、被害者たちは世俗の当局に訴え、明るみになっているのです。「教会の中で真実を突き止めて解決することができない」ということは、虐待問題が司祭個人の問題であるだけではなく、教会の構造的組織的な問題でもあることを意味します。
*教会は聖職者を中心に回っている
もし司祭を始め教会全体が自分たちの罪を認めて謝罪すれば、世間に暴露されることなく教会内で済んだのでしょうが、司祭たちが認めない、さらにその長上たちも事実を隠蔽する。なぜ事実を否定し隠蔽することが可能になるのか。それは制度としての教会に「聖職者主義」が浸透しているからです。「聖職者中心主義」と言ってもよいでしょう。「自分たち(司教・司祭)が中心。信徒は従えばよい」ということ。「権力を与えられている聖職者に従え」ということ。
聖職者は教皇以下、位階制度によって構成されています。司祭は全員が男性で、独身です。女性は排除されている。女性は男性に、一般信徒は司祭に、従属する。そこには性的抑圧、女性嫌悪(ミソジニー)、秘密主義がある、とキャロルは言います。
「司祭の独身制」によって子供を持たないので、相続の問題は生じません。また叙階の秘跡によって「存在論的に(霊印を帯びるとされる)」司祭は一般信徒よりも優位に立ち、教会構造は男性だけですから、男性主義、秘密主義、女性排除・女性嫌悪といった特徴を帯びます。
*教会は「自身にのみ責任を負う権力構造」
ですから、隠蔽は可能になる。教会法によると、もし女性がミサを挙げようとすれば破門となるが、他方、小児性愛者の司祭に対しては、そのような刑罰は一切規定されていない。「聖職者主義は、自己実現的で自己充足的である。聖職者主義は秘密主義を糧に繫栄し、自らを守ろうとする」。
司祭が何か問題を起こしても、「位階制」という構造の中で処理されていくので、「隠蔽」が可能であり、それゆえ秘密主義に覆われます。信徒も外部の人も知りえない。よって外部から裁かれない。位階制の教会は「自身にのみ責任を負う権力構造」なのです。
*聖職者主義により組織的な腐敗が蔓延する
「聖職者主義」の教会では、司祭による性的虐待や隠蔽、邪悪な行為の否定・否認が起こるのは当たり前。司祭自身が教会の掟を破りながら、罪を認めるどころか責任逃れをしたり、弱い立場の被害者に「誰にもしゃべるな」と口止めするといった事態に。
教会の教えと、司祭の実践の矛盾。教会の権力構造、すなわち位階制と教会法は、信徒を育て、守るためではなく、聖職者自身の権力の横暴を守り、隠すために役立っているのです。こうして教会の組織的な腐敗が、静かに蔓延していきます。
*禁欲的な修道士などに限られていた司祭の独身制が…
以上のようなカトリック教会の性質は、アウグスティヌスの「性の神学」によって強化された、といいます。アダムとエバの不従順の行為を「性的な罪」として捉え、その誘惑によって「全人類に苦しみをもたらした」とすることが一人の女性を非難することにつながり、またセクシュアリティやそれに関わるものは、すべて疑いの目で見られるようになり、「欲求に対する抑圧は、正常な性欲を社会的心理学的な死者の国へと追いやった」といいます。
また司祭の独身制は、禁欲的な修道士などの慣行から発展し、当初は限られた者のため推奨されたものだったが、時代とともに「独身」や「童貞性」が礼賛されるようになり、その後、高位聖職者の子孫からの相続要求を阻止するために、司祭の独身が義務となりました。(性に関しては「その2」で詳しく見ます。)
*聖職者主義を守ろうとする保守派は、何を恐れているのか
「聖職者主義」は教会の構造や教義その他あらゆる面に浸透して伝統となっており、それを守ろうとする保守的な聖職者は少なくありません。前回紹介したバーク枢機卿もそうです。キャロルも述べているように、フランシスコ教皇と保守派の意見の対立の争点は、「離婚して再婚した人が聖体の秘跡に与ることを認めるか否か」という問題でした。
フランシスコは「教会は人々を断罪するために存在するのではありません。神の憐れみによる深い愛との出会いをもたらすために存在しているのです」として、認める立場でしたが、保守派はそれを断固として批判しました。なぜか? これを認めてしまうと、それに関連して「セクシュアリティやジェンダー、カトリックの世界観全体に関する他の多くの変化に道を開くのではないか」と恐れるからです。伝統的教会、すなわち「聖職者主義の教会」が崩壊することになるからです。
*聖職者主義の二重の支柱
聖職者主義を支えている二本の柱は「司祭職からの(女性嫌悪めいた)女性排除」と「司祭の独身の義務」だ、とキャロルは指摘しています。ではなぜ、この二本の柱を取り払わないのか?「女性に平等な地位を与えることは、性をめぐる女性の自律を肯定し、性行為の目的として生殖だけでなく愛と快楽を肯定し、聖職者の結婚を肯定し、避妊を肯定し、そして、同性愛者の完全な受け入れを肯定することにつながるから、と言うのがその理由です。
「女性に平等な地位を与えることは、男性支配を否定し、聖職者の統治者としての権威を否定し、ダブルスタンダードに反対するからである」。保守派は、信徒のためというより、自分たち聖職者の既存の権益を固守するために、聖職者主義の教会、その根幹である司祭職を現状のまま守ろうとするのです。
*キャロルが本論文を書くきっかけは
「当初、私には教皇フランシスコが救世主のように思えた」というくらい、キャロルはフランシスコ教皇に大きな期待を寄せていました。ところが、2018年8月にアイルランドを訪問中したフランシスコが、教会改革の必要性や、痛悔の行為に取り組む必要性があることを理解する様子を見せなかったことや、保護施設マグダレン洗濯所のスキャンダルについては「知らなかった」と述べたことで、その期待は崩れました。「知らなかっただって?・・嘘だ、教皇は嘘をついている…」。
他の事案からもフランシスコ自身が性的虐待隠蔽の共犯であったことが、反対者から暴露されました。「子供への性虐待は、聖職者文化に場を得てきた。教皇はそうした聖職者文化を非難しているが、それを解体するためには何もしていない。教皇は、自身の対応においてこの文化を体現している」「フランシスコのような革命的であるはずの教皇が、『聖職者主義は打破し得ない』ということを個人的に示していることこそ、驚くべき事実である」と。
さらに「フランシスコは聖職者主義の二重の支柱を頑なに擁護している」、フランシスコ自身も聖職者主義から解放されていないだけでなく、それを擁護していた… この事実にショックを受けたことが、キャロルにこの論文を書かせたようです。
*聖職者主義から解放されることは可能か・・
必要なのは、先に述べた聖職者主義を支えている二本の柱「司祭職からの(女性嫌悪めいた)女性排除」と「司祭の独身の義務」を取り去ることでしょう。
キャロルは言います。初期のキリスト教はイエスを愛する人たちが集まって、互いの家で礼拝し、パンを割いた。当時はまだ「司祭職」はなく、運動は平等主義的だった。しかし4世紀になってローマ帝国の宗教となり、帝国そのものの特徴を帯びるようになる。つまり行政単位と同じ「司教区」ができ、教会の建物も(壮大な)バシリカとなり、初代教会では平等主義的で、多様かつ分権的だった教会集団は、集権的で位階的、君主のように統治するローマ司教を擁する、ほぼ帝国の制度のようなものに変わっていき、公会議で決まった信条以外は「異端」とされていった。
ですから、位階制から平等な集団へと変化していけば、「聖職者主義」から解放される、と。
*聖職者主義の対極にあるのは民主主義である
「教会の保守派たちは…『自分たちが守ろうとしている聖職者主義の対極が…民主主義だ』ということを、他の誰よりもよく知っている」とキャロルは指摘して、以下のように警告しています。
「権威主義的で、民主主義的要素に乏しい教会は停滞・腐敗する」「「第二バチカン公会議は教会を『神の民』とし、ヒエラルキー(聖職位階制)を支配者ではなく、奉仕者の共同体として位置付けた」。「カトリック信者は、教会との個人的な関係に対する最終的な権威を、暴君である聖職者に委ねてはならない」。「信徒の役割を高め、宗教的な統治に民主主義的な構造を導入すれば、叙階を受けた人々がすべての優越的な地位を占める位階制を覆すことになるだろう」。
ちなみに、一昨年、昨年と二度にわたった世界代表司教会議の総会に至る”シノドスの道”の歩みも、「聖職者主義を打破する」ことを目指し、小教区・教区レベル、国レベル、そして大陸レベルで信徒の意見を聴こうとしていたはずですが・・。
*キャロルの望む教会の奉仕者とは・・
「聖書とパン、祈りと賛歌、黙想など」に奉仕する者。秘跡を行なうとしても、奉仕者には女性も既婚者も含まれる。皆、平等です。すべての人が奉仕者として平等に活動する。「叙階の秘跡」によって信徒より優位に立つ司祭は、必要ない。「信徒と司祭」という関係における「司祭」は要らない。信徒に対する聖職者階級という関係における聖職者、司祭は要らない。聖職者すなわち位階構造の中にある司祭職の担い手、すなわち権力をあたえられた独身男性のみの司祭は要らない。
キャロルの文章からまとめると、「聖職者は要らない」のです。論文の題名通り「司祭職を廃止せよ」、現行の司祭職を廃止することがカトリック教会の健全化・再生に必要だ、というのが、キャロルの主張だと言えます。
現体制、現在の司祭職制度の中に「聖職者主義」は生きています。「聖職者主義」だけを抽出して滅却することはできません。長い歴史の中で築かれてきた「司祭職」の制度、位階制を変革することが必要でしょう。
教会の構造や組織を変えていく、司祭観を変えていくことなどを通して、教会は、現行の「司祭職を廃止」する方向に、教会は進んでいかざるを得ないのではないか、と私は思います。フランシスコ教皇の言葉、「第2千年紀の教会は位階制が中心だったが、第3千年期の教会はシノダルな教会になることが神の御心だ」というのは真実だと思います。キャロルが言うように「キリストは、司式者ではなく共同体全体の信仰を通して経験される」のですし、そもそも初期教会には、位階制に属する「司祭」はいなかったのですから。 「その2」へ続く。
(西方の一司祭)