「カトリックあい」の「特集」で、新教皇レオ14世は「教皇は変わるが、教皇庁は残る」と言い、また前任のフランシスコ教皇が廃止したコンクラーベ・ボーナスを教皇庁職員に配ったことが紹介されました。またフランシスコ教皇は、その国に駐在する教皇大使に新任大司教へのパリウムの授与を任せるよう改めたのに、レオ14世は再び教皇自らバチカンにおいて新任大司教に授与しました。パリウム授与に関しては、あとで述べます。レオ14世によって、教皇庁の改革や教皇と地方司教の関係はどうなるのか、ヒエラルキー的教会からシノダルな教会に改革されるのかどうか気になるところです。
*ペトロの首位権を主張した「ローマの司教」は教皇に・・
私はこのコラム「シノドスの道に思う⑯その2」で昨年6月にバチカンから発表された『ローマの司教』について概要を述べました。ローマ司教は、マタイ福音書の「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる… 私はあなたに天の国の鍵を授ける…」(16章)やヨハネ福音書の「私の羊を飼いなさい」(21章)という言葉を、「ローマの司教」への主の言葉として受け止め、占有していきました。この「ペトロの首位権」を現代、どう再解釈していけるのかを諸教会と対話した記録です。今回の拙稿と関連しますので、再読していただければ幸いです。
地方の1人の司教だった「ローマの司教」が歴史の展開の中で「教皇」になっていきました。他のすべての司教より”格が上”の司教となって、他の司教たちと教会だけでなく、世俗的領域に関しても、指導し、治め、裁く存在—教皇—に「ローマの司教」はなり、中世に絶頂期を迎えました。では、どうして、そのような権力を持つことができたのか。言うまでもなく、教皇一人の能力だけによるものではなく、教皇を支える「教皇庁」という組織があったからです。
そこで今回は中世の教皇庁の働きを少し紹介したいと思います。
*帝国の首都だったローマの教会の優位
初期の教会が諸地方に広まっていく中で信仰のあり方や教会の形は多様化する一方で、「使徒に由来する教会が正統だ」という意識にも目覚めていきました。ローマ帝国の時代、東方ではエルサレム、アンティアキア、エフェソ、コリントなど多くの教会が「使徒に由来する」と主張したようですが、西方では、そのような主張をしたのは、ローマの教会のみでした。
期限286年に当時の皇帝、ディオクレティアヌスが腐敗したローマから小アジアのニコメディアに移すまで、ローマ帝国の首都はローマだったので、ローマ教会は「帝国首都の教会」として権威も、富も、人的資源も、豊かであり、他の諸教会を援助したり指導したりする力を持っていたようです。そのため、自然にローマ司教の権威は自他ともに認められるようになり、大きくなっていきました。
*ローマの司教もこの世的に権力と富を持つように・・・
313年にコンスタンチヌス一世(西ローマ)とリキニウス(東ローマ)が連名で発布した「ミラノ勅令(キリスト教寛容令)」以降、教会には土地などの免税、寄進、遺贈の促進、司教への下級裁判権など特典が付与され、また各地で教会建築が急増します。325年のニケア公会議後、皇帝は教会用にローマのペトロの墓の所その他に長方形のバジリカを建てますし、ラテラン宮殿をローマ司教に公館として譲渡します。同宮殿は、1308年まで教皇宮殿として使用されたと言われています。
さらに、この公会議で、首都の教会の優位が認められます。すなわちローマ、アレキサンドリア、アンティオキアの3つを首位とする大司教区が定められ、451年のカルケドン公会議で、この3つにコンスタンティノープル(ビザンチウム;新しいローマ)、エルサレムが加えられ「5大司教区」となります。それらの中で首位権をめぐる争いはありましたが、歴史的、政治的に運よく守られて残ってきたのは唯一、ローマ教会だけでした。
*ローマの司教から教皇へ
最初に教皇首位権を明らかに主張したのはダマスス1世のようです。彼は、381年のコンスタンティノープルで開かれた公会議に招かれず、またこれより前、330年に当時のコンスタンティヌス帝が、ローマに戻っていた帝国の首都をコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)へ遷都し、高い地位を与えられていたこともあり、(内心怒って?)、翌382年に開かれたローマ教会会議で、「ローマ教会は首位権を教会会議によってではなく、キリストがペトロに委ねた権能に負っている」と宣言。さらに他の司教たちを「兄弟」ではなく「息子」と呼んで、ローマ司教の首位性を主張していきます。
そのローマ教会会議の2年後にローマ司教となったシリキウス(384~99年)は「教皇」という称号を最初に用います。さらに、レオ1世(440~61年)はかつてローマ皇帝が使用していた「Pontifex Maximus (最高神祇官)」という古い異教の称号を自分の称号にに転用、さらに「キリストによって統治されるすべての者を正しく統治する者は、ペトロの代理者」であり、また「教会は君主制」であると主張。
その後、西欧はゴート人などによる支配などを受けましたが、紆余曲折はあれ、ローマ司教は教皇領を持ちながら残っていきます。そして教皇権力の基盤をなすのが、以下に述べる教皇庁に他なりません。
*教皇庁の組織化、強化、教皇は”君主”としての権力保持者に
前々回のコラム「共に歩む信仰に向けて⑤教皇制のゆくえ(その1)」に1088年即位のウルバヌス2世の頃から教皇庁が組織化された、と述べました。ウルバヌス2世は西欧諸国から人々を動員して十字軍を始めることが出来るほどに西欧諸国をまとめることができたのは、組織化され、強化されていった教皇庁のおかげでしょう。
それによって、教皇は君主的な存在となっていったのです。教皇は教皇領の所有者であるだけでなく、各地各国の封建的領主として王や領主たちの即位・退位を指図したり、ある王の臣下の忠誠の誓いを解いたり、軍隊を派遣したりしました。
征服した土地の法的システムを維持させたり、ある国の領地を別の国の王に与えたり、新しく出来た法律を無効だと宣言したり、領主や王を破門したり、王たちや国々の条約などを批准したり、ある地域の貿易や通商を禁止したり、幹線道路や河川を教皇の特別な保護下に置いたり、過度な税金や料金を取った人々を譴責したりするなど、教会関連だけでない「普遍的な統治」を”中央官庁〟としての教皇庁を通して行うようになったのです。
*中央政府(中央官庁)としての教皇庁
中央官庁として文書局(尚書院)、財務局、書記局、聴罪局、控訴院(Rota)と内赦院(Penitentiary などがあり、各部局の長には枢機卿を当てました。各枢機卿は下位聖職者や警護の騎士や独自の調査や情報収集のためのスタッフを抱えたので、教皇庁は一大行政・司法機構となっていきました。
またあらゆる問題に対処するために、これまで様々な機会に発信してきた教皇の書簡・教令などが収集・記録・保管されていき、それらを元に新しい事態に対応することで、教皇の権威は高まっていきました。
教皇は様々な機会に法を作成し、判例法もでき、教皇教令、勅書その他を発布することで、それらが前例や判例となります。それらは統治(行政)、法律の制定(立法)、裁判(司法)の3つの領域で拘束力を持つようになります。
諸問題の解釈のため、教会法学者が重用されるようになり、1130年のシスマ以後、枢機卿団は法学者が多数を占め、アレクサンデル3世(1159年~)以降、ほとんどの教皇も教会法学者。教会運営は「霊的」というより「法学的」思考でなされるようになります。
*枢機卿団が教皇の最高顧問として成立
教皇の最高顧問団として11世紀末には形が決まっていたようです。もはやローマの貴族からではなく、西欧諸国から集められた司教枢機卿、司祭枢機卿、助祭枢機卿の集団となり、諸々の重要問題が教皇枢密会議で協議されました。「彼らはイングランドやフランスの国王評議会と同じ職務を遂行し、政策決定や教会統治に最高水準で参画した」と言われます。
*公会議の開催・・・
かつてはローマ皇帝が主催していましたが、西欧世界に限定されるようになってからは、教皇自らが主催するようになりました。4回開催されたラテラノ公会議と、その後2回のリヨン公会議、ヴィエンヌ公会議において、教会だけでなく社会全般に関わる決議事項は西欧キリスト教世界に普遍的に妥当するものとなり、そこでの教令などは,いわば法に相当するものとなりました。
例えば第一ラテラン公会議では聖職叙任権問題、司教権の強化、十分の一税、下級聖職者に対する司教の統制権、司祭、助祭、修道士たちの婚姻の禁止など決議されました。他の公会議で教皇選挙、スキスマ(対立教皇の問題)、同棲の禁止、司祭の息子、異端者などについて多々あります。
*教令集の編纂・・・
12世紀、ボローニャの修道士グラティアヌスは教会法の分野で権威とされた聖書や教父の著作、教皇教令などを主題別にまとめた教令集を編纂して、教会法学の基礎を築き、その後いろんな人によって第一次編纂、第二次編纂など、公会議文書や教令・勅書など編集加筆されていき、14世紀にはクレメンス集も追加され、1918年までに、それらが教会と教皇制の法典となっていったようです。
しかし、そもそも教会法関連文書は「一般信徒を守るため」ではなく、「教会権威側の統治権を守るため」に収集、編纂されたものであることは忘れてはならないでしょう。行政・立法・司法三権全部のトップは教皇で、その下に枢機卿、司教、司祭… というヒエラルキー。下々を治め、縛る法制度であることは明らかです。
*教皇首位権によってヒエラルキー的な教会と社会に・・・
また教皇首位権によって種々の「特権」と「免除」を与えることによって、教皇は既存の法律に介入しました。特定の人物や集団(修道院など)に税の免除や特別の保護を与えたり、当該地域の司教からの法的な自由などを与えたりしました。非合法的な出生や年齢制限、身体的弱点があっても免除を与えて種々の社会的な地位に着かせたりしました。
世界の現地の問題を扱うために、教皇特使を派遣しました。教皇特使はほぼ枢機卿から選ばれました。地方の司教だけでなく領主や王との関係を築き、情報の収集と交換、教皇の意向を反映させるために、重要な役割を果たしました。
グレゴリウス7世の時代から、新しく聖別された司教は教皇に誓いを立て、従順を約束させられました。こうして教皇を頂点とするヒエラルキーに、全教会が組織化されていきます。
また世界の司教たちを定期的にバチカンに招いて(訪問させるvisitatio liminum)教皇に従順を誓わせ、法によって教皇大使nuncioを世界各国に派遣して、現地報告をさせました。教皇庁に駐在する永続的な代理人proctorの制度もできていきます。司教だけでなく一部の王たちも、現代の大使のような代理人を教皇庁に駐在させました。
司教と教皇制の強い絆を作っていくために、首都大司教が着用する「パリウム」を、教皇から直接、渡されるようになりました。パリウムの授与は9世紀半ばから一般的になります。教皇制に従ってパリウムは「大司教が教皇に法的に従属することを、法律上象徴するしるし」となったのです。そのため、大司教の権力は弱められることになり、重要な事案はどのような場合でも、教皇の直接的な統治権の下に置かれることになりました。このようにして教会は、中央集権的な教会になっていきます。
従って、パリウムの授与は「横のシノダリティ(共働性)」よりも、「縦のヒエラルキー(位階制)」を強めるものと言えます。新教皇レオ14世は、6月29日のミサで54名の新任首都大司教に「ローマの司教との交わり」のしるしとしてパリウムを授与され、新任首都大司教たちは、「教皇とローマ教会への忠誠」を誓ったといいます。
*大学と教皇庁・・・
中世期を通じて教育は教会の事柄でした。特に大学は教皇制にとって特別の関心が払われました。パリ、ボローニャ、オックスフォード、ケンブリッジと教皇との関係は別として、教皇立の大学はトゥールーズ、ローマ、グルノーブルの大学。中世の大学の執行部(理事会)には高位の教会関係者が置かれ、学則も教皇庁によって承認され、その運用面でもしばしば教皇庁が介入しました。
教授される内容や方向性も、ある時期まではアリストテレスを禁止するとか、東洋の言語や法学を推進するとかあったようです。他の学校も司教の管轄下に置き、教授資格を与えることにも教皇庁は直接的な関心を持ったとのことです。
教皇庁の財務諸機関や法務機関については省略します。
*最後に・・教会裁判所問題、そしてドイツの司教のこと
私見ですが、現在の教会の裁判所が、本来の機能を果たしているのか疑問です。随分前になりますが、夫と離婚した女性が、その後「修道院に入りたい」と希望して司祭に相談したものの、数年待っても「教会裁判所から何の連絡もない」という話を聴きました。詳細は避けますが、教会が、人の一生を尊いものとして信徒たちに関わっているのか疑問を覚えます。
日本のカトリック教会で、司祭によるセクハラ等での訴訟が複数あります。被害者が司教や司祭に何度訴えても真剣に対応してくれない… 教会裁判所や教会法が機能していないため、やむなく世俗の法廷に訴えているのです。
ですから、まずドイツの「シノドスの道」で決議されたように、公共の法における基本的権利と同様に、全信徒の基本的権利を中心においた「教会基本法a Lex ecclesiae Fundamentalis」を作るべきなのだと思います。この決議に、ドイツの27人の司教のうち、4人、すなわちケルン教区長のウェルキ枢機卿, レーゲンスブルク教区長のボーデルホルツアー司教、パッサウ教区長のオステル司教、アイヒシュテット教区長のハンケ司教が「シノドスの道」に反対していることは、前にも紹介しました。
ところが最近、ハンケ司教は精神的に疲れたようで任期満了前に自ら辞任したとのこと。今後、どういう人が司教になるのか、気になります。
ついでに、前から紹介している信者団体「私たちが教会 We are church」 は、教会法が昨年の”シノダリティ(共働性)に関する世界代表司教会議総会の最終文書に添って、見直されることを強く希望しています。以上にご説明したヒエラルキー(位階制)的な教会は、このままでは、シノダル(共働的)な教会にはならない。根本的な構造的改革が必要だ、というのがその理由です。
*参考資料=G.バラクロウ『中世教皇史』、Walter Ullmann,A Short History of the Papacy in the Middle Ages、バチカン・ニュース(6月29日付け)等。
(西方の一司祭)