・余白の想い ① イエスを教会の中に閉じ込め、古臭い言葉を使い続けていれば、キリスト教は滅ぶ

 今回取り上げる司祭は、私より一回り年上で、ある修道会に所属し、その修道会の日本管区長も務めた方であった。晩年はその修道会を離れ、教区司祭になられたが、数年前、帰天された。この方とSNSを通じ、色々と話し合う機会を得た。その話し合いは、一口に言えないほど広範囲にわたったので、ここでは、印象に残った事柄だけを記そうと思う。

 彼は終戦直後、貨物船に乗り、スエズ運河経由でヨーロッパに渡り、最初はスイスの大学で2年間程、研究し、その後、ローマのグレゴリアン大学で4年間学ばれ、神学の学位を取得されたとのことであった。スエズ運河では一泊し、フランス軍の傭兵が乗船してきたが、その中に後に俳優で有名になったアランドロンがいた、という。

 それはさておき、彼のグレゴリアン大学での研究テーマはトマス・アクィナスの「神論」だった。だが、当方はトマスには疎く、また、好きなタイプではなかった。二日間にわたって議論したが、お互いの見解が異なり、話し合いは物別れに終わった。だが、「原罪」の意味については、どの様に解釈するか、日本人に理解されるにはどうしたら良いかなど、話し合った結果、最終的に「エゴイズム」という言葉で双方が納得した。

 この「エゴイズム」と言う言葉を「原罪」に適応した最初の人は、ユダヤ教の哲学者、M・ブーバーだ。それでも、「原罪」と「エゴイズム」は同義ではなく、どこか違うことも、互いに充分に理解していた。

 ここからは、私のあくまでも個人的な見解だが、「原罪」から当然なこととして問題になるのは、創世記の楽園物語に出てくる「神」だろう。この「神」は有神論の神であるが、「有」と言う文字を使えば、その対極の「無」と言葉が出てくる。要する「有神論」を主張すれば「無神論」が浮かび上がってくる。今から半世紀程前、この「有神論」の「神」は「失業」し、「賞味期限切れ」と主張したイギリスの神学者がいた。

 ある時、私の自宅前に数人の若者たち、中学生、高校生が何か円陣の様な形を作り、楽しそうに談笑にふけっていた。彼らに声を掛け、こう尋ねた。「どこまでも空を昇り、最後に宇宙の果てに達したとする。その時、宇宙の外側に神がいるのだろうか」と。まだ幼さが残る彼らは皆、「神はいない」と答えた。

 私が言いたかったのは、「神は、空高く、天上にいるのではなく、むしろ私たちの命の深みの中に見出されるのだ」ということだったのだが。第二次世界大戦の時、ヒットラーが台頭する前に、アメリカに亡命した、ドイツの神学者パウル・テイリッヒの言葉に、「神は、存在の根拠」がある。

 私たちは「原罪」というレンズを作り、それを通してイエスを見てきた。また「罪」とは、数百年にもわたって人間の生活を支配してきた教会が装備する主要な、そして、恰好な武器と言えるだろう。
この「原罪」に関して、カトリック教会もプロテスタント教会も共に真摯な議論をしてきた。

 その真面目な態度は称賛に値し、感心はするが、それは一言で言えば「無知」ゆえであろう。その無知がいかに信仰深く神聖なものであったとしても、無知はしょせん「無知」である。人間に与えられた知性なるものを尊重するなら、聖書を文字通りに受け取る前近代的な方法を乗り越えていかねばならない。

 伝統的キリスト教は、頑丈に出来た教会の中にイエスを閉じ込めてきた。信仰を表すために文字通りに解釈された、古臭くて役に立たない言葉を使い続けていては、結果として、キリスト教は滅びてしまうだろう。

 このコラムは以下の言葉を記して、ひとまず終わりとしたい。

 あまりにも完全で、開放的で、自由で、そして自分自身に正直であったがゆえに、人々は、「この人の命」を通して、自分たちの命に聖なる命がやってきたと確信するようになった。それが人間イエスである。神はキリストの内におられる。イエスと共に、この神を求めて新な地平を歩もうではないか。

(東京教区信徒 纐纈康兵)

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2026年1月30日