今回取り上げる司祭は、私より一回り年上で、ある修道会に所属し、その修道会 の日本管区長も務めた方であった。晩年はその修道会を離れ、教区司祭になられたが、数年前、帰天された。この方とSNSを通じ、色々と話し合う機会を得た。その話し合いは、一口に言えないほど広範囲にわたったので、ここでは、印象に残った事柄だけを記そうと思う。
彼は終戦直後、貨物船に乗り、スエズ運河経由でヨーロッパに渡り 、最初はスイスの大学で2年間程、研究し、その後、ローマのグレゴリアン大学で4 年間学ばれ、神学の学位を取得されたとのことであった。スエズ運河では一泊し、フランス軍の傭兵が乗船してきたが、その中に後に俳優で有名になったア ランドロンがいた、という。
それはさておき、彼のグレゴリアン大学での
この「エゴイズム」と言う言葉を「原罪」に適応した最初の人は、ユダヤ教の哲学
ここからは、私のあくまでも個人的な見解だが、「原罪」か ら当然なこととして問題になるのは、創世記の楽園物語に出てくる「神」だろう。こ の「神」は有神論の神であるが、「有」と言う文字を使えば、その対極の「無」と言葉が 出てくる。要する「有神論」を主張すれば「無神論」が浮かび上がってくる。今から半世紀程前、この「有神論」の「神」は「失業」し、「賞味 期限切れ」と主張したイギリスの神学者がいた。
ある時、私の自宅前に数人の若者たち、中学生、高校生が何か円陣の
私が言いたかったのは、「神は、空高く、天上にいるのではなく、むしろ私た ちの命の深みの中に見出されるのだ」ということだったのだが。第二次世界大戦の時、ヒットラーが台頭する前に、アメリカに亡命し た、ドイツの神学者パウル・テイリッヒの言葉に、「神は、存在の根拠」がある。
私たちは「原罪」というレンズを作り、それを通してイエスを見てき
この「原罪」に関して、カトリック教会もプロテスタント教会も共