・パトモスの風 ⑦ヨハネ福音書は新約の司祭職をどう伝えているか

 イエスが言われた「私の教会」(マタイ福音書16章18節)は、十字架の下に立った3人のマリアとして誕生することになりました。

 アッシジの聖フランシスコは、自身の視覚を捉えたサン・ダミアーノの十字架から受けたインスピレーションを、その後の行動につなげていきました。彼は、イエスの十字架のかたわらに誕生した教会の召命を、どのように受け取ったでしょうか。それは現代の私たちに、どんな関りをもたらすのでしょうか。はっきりしていることは、サン・ダミアーノの十字架には、「ヨハネ福音書と黙示録の相が現れている」ということです。

 ヨハネ福音書のイエスの十字架のかたわらの場面で、イエスがご自分の母と「愛する弟子」を親子の絆で結ばれたのは、前晩に、イエスが使徒たちの前でご聖体を制定され、その御業と共に「私の記念としてこのように行いなさい」という言葉によって、使徒たちに新約の司祭職を与えたからです。イエスの母は、そのことの公のしるしとなった、と考えられます。

 それはそれほど唐突な発想ではありません。イエスの母マリアは、祭司ザカリアの妻でアロン家の娘の一人エリザベトの親類でした。旧約の祭司の一族の血筋にあるマリアのもとに、「聖霊によって宿られたイエスが、御父のもとから新約の司祭職を携えて地上に来られた」と考えても、不自然ではありませんし、私たちの教会はその初めからイエスの母を聖霊の浄配と捉えていました。

 フランシスコも、その言葉を自身の祈りに用いました(「アシジの聖フランシスコの小品集」(庄司篤訳、聖母の騎士社)P155参照)。「聖霊の浄配」と言われたイエスの母は、新約の司祭職のしるしであり、新約の司祭職は、永遠に聖霊の浄配なのです。しかし、ヨハネ福音書には、イエスの母の名はありませんし、愛された弟子の名もありません。また、使徒という言葉がなく、弟子という言葉で通しています。ここには、何か事情があるのです。私は、ヨハネ福音書は、新約の司祭職に特化して書かれたのではないかと考えています。そこで、わざわざ聖体制定の場面を書かなかったのです。

 聖体制定の御血に係る御言葉が、旧約の祭司職の伝統に抵触するのかもしれませんし、共観福音書がそろって書いていても、ヨハネ福音書が書かなければ、聖体制定の重要性が曖昧になって、迫害者の視線に触れずに済むかもしれません。しかし信者が気づくように、最期の晩餐の場面を過越し祭の前に日をずらし(ヨハネ福音書13章1~2節参照)、その間に、共観福音書がそろって書いた聖体制定の日が含まれていたことを暗示した・・とすれば、そこでヨハネ福音書が書いたイエスの洗足の行為には、はっきりとした意図があったに違いありません。

 ヨハネ福音書には、他にも知りたいことがたくさんあります。そこで、1章から始めて、気になる箇所をピックアップしながら、そこに映しだされるイメージがどのように新約の司祭職に関わっているか、探求してみようと思います。ゆっくりと追っていくなら、だんだんとイエスの母の役割や、ヨハネ福音書が書かれた目的も、具体的にもっとよく分かるようになるのではないかと思います。

 1章の冒頭の句は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1章1~2節)とあって、イエスが言われた「私と父とは一つである」(10章30節)ことを表現しています。これに続く「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった」(1章3-4節)には、御父の御心をすべて成し遂げられる御言葉イエスの姿が見えています。イエスも、「なぜなら、私は自分勝手に語ったのではなく、私をお遣わしになった父ご自身が、私の言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである」(12章49節)と言われました。

 次に、「言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった」(1章3-4節)とある「命」は、イエスが、「父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである」(5章 26節)と言われた「命」のことだと思います。人となった御言葉イエスが、ご自分の内に持った命は、洗礼者ヨハネが、「私は、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(1章 32節)と証ししたように、聖霊の働きであり、この証しは、同時にイエスが、人となられた地上でも、「私はある」と言われた三位一体の神としておられることを証ししたのです。

 この後でイエスは、「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(6:63)と言われました。人に「命を与えるのは霊」です。神でありながら地上にお生まれになり、霊において何の役にも立たない肉の人となったイエスに、聖霊が降ってとどまることで、イエスの語る言葉が「御言葉として生きるものとなった」ことを言い表しておられます。その時イエスの話された言葉は、聖霊が共に働かれ、命を与える言葉となっていました。御言葉が人となられたイエスのこの姿は、聖霊が降臨された後、聖霊と共働するすべての信者のモデルのようです。

 フランシスコも「全キリスト者への手紙Ⅱ」 の初めに次のように書きました。「私は、すべてのキリスト者のしもべですから、すべての人に仕え、わが主の香り高い御言葉を伝えなければなりません。それで、体の病気と弱さのため、一人びとりを親しく訪ねえないことを心のうちで考え合わせ、皆様にこの手紙を送って、御父の御言葉にまします私たちの主イエズス・キリストの御言葉と聖霊の御言葉-「霊であり、命である」御言葉-を伝えようと決心いたしました」(「アシジの聖フランシスコの小品集」P77~78参照)。

 「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」(1章 5節)とある「闇」とは、人間の情報や知識のことです。聖霊の働きは光になります。聖霊は、御言葉に命を注ぎ生きるものにして私たちに与え、また、私たちからその御言葉を引き出すことによって、私たちを光で照らし、「言の内に成った命」を持っていることを実感させてくださいます。ヨハネ福音書の1章1~5節は、三位一体の神のイメージを伝え、とりわけ聖霊について教えています

(横浜教区信徒 Maria K. M)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2026年1月3日