・パトモスの風 ⑤ 元号と西暦という二重の暦を受け入れた日本人には…

 先日、知人から、イエスの言葉を紐解きながら、ローマからキリスト教が世界宗教に至る過程を解説できたら、また、ヨハネ福音書の十字架上イエス、ピラトや百人隊長との関わり、そしてローマの支配、この壮大なテーマをゆっくりと説き明かしたなら、神様の御心がどこにあるのか、どこに導かれるのか、分かりたいことが分かるかもしれない、というご意見をいただいて、私はこのところずっと考えていました。

 新約聖書には、ピラトや百人隊長との関わり、そしてローマの支配といった、現代人にはすぐに理解できない歴史の流れがあります。また、キリスト教がローマから世界宗教に至る過程は、西洋史として学ぶ機会があっても、そこから見える景色は、東の果てにいる日本人の感覚からは程遠いものに感じます。これらを考えると、その過程を解説するのは簡単ではない、と思いました。半面、日本人には、何か地の利があるような気もします。それは、キリスト教の歴史の外側にいたというところからくる、ある種の感じ方かもしれません。

 御言葉を紐解きながら悟らせてくださるのは、聖霊です。聖霊は、すべての人々、一人一人に向き合っておられるので、私たちが自分の地の利をもっとよく知って、それを意識することが、聖霊と共働するうえで、役に立つかもしれない、という期待があります。

 こんな風に考えていた時、ちょうど次のような考察と出会いました。初め些細なことのように見え、通り過ぎようとしたのですが、ふと立ち止まって見直して見ると、日本人の日常を支えている事柄で、案外いいヒントになると思いました。

 日本では元号と西暦が併存しています。私はこの二重の暦によく不便を感じることがありましたが、これまで特別に注目したことはありませんでした。しかし日本人が、時間の感じ方を日常的に二重化して受け取っているという考えに興味が湧きました。私たちが、日本の時間(元号)と世界の時間(西暦)という二つの時間軸の間で生きていることに、改めて注意を向けてみると、不思議な感じがしたのです。

 日本人がこの環境を手にしたのは明治維新後からで、明治6年(西暦1873年)1月1日が日本のグレゴリオ暦導入の日、とされているようです。それから145年後の2018年8月20日付日経新聞には、「政府は2019年5月1日の新元号への切り替えに関し、公文書への西暦表記を義務付けない方針を固めた。和暦と西暦を併記したり、西暦に統一したりする方針は示さず、各省庁や自治体の個別の判断に委ねる」とあると聞いて、これは結構注目に値することだと思いました。21世紀になっても、このような環境に生きている国民は大変少数だそうで、なんだか日本人の性格がこんなところに見えているかもしれない、と思ったのです。

 元号は区切られる時間。「令和」「平成」など、節目ごとに価値を更新し、再出発を示す感じです。一方、西暦は、紀元前46年に導入されたユリウス暦を、1582年にローマ法王グレゴリウス13世が季節とのずれを修正した、より正確な太陽暦です。それはBC → AD → 2025のように直線的な時間を強く感じさせます。

 そこで、日常的に元号と西暦の両方を使う、という二重の暦を受け入れた日本人には、何か「中間的世界観」と言えるような感覚が、初めからあるのではないでしょうか。時間とは、「ただ流れるもの」というだけではなく、「関係を表すもの」 でもあるというような感覚を持っていて、二重の歴を受け入れ、使いこなしているのです。

 西暦だけが当たり前の環境で育まれたカトリックの教えの歴史には、旧約聖書から新約聖書までの壮大なテーマを持って、ローマに都を置くキリスト教が世界宗教に至るような歴史的な時間の中で、直線的に激流のごとく走り抜けてきたような感じがします。またそこには超過密な成長過程があって、日本人がそれをそのまま背負ったら、もう疲れ果ててしまう。だから、ゆっくりと説き明かしたなら、神様の御心が、どこにあるのか、どこに導かれるのか、分かりたいことが分かるかもしれない、という感覚を持つのではないかと思うのです。私はそうです。

 イエスが「その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(ヨハネ福音書16章13節)と言われたように、聖霊は個々人に働きかけます。イエスは、「あなたがたに告げる」というところを、さらに続けた文中で2回繰り返し(16章 14~15節参照)、計3回言っておられるのは、そこが非常に重要だからにちがいありません。

 聖霊が、私たち一人一人を「あらゆる真理に導いてくれる」のです。それは私たち一人一人が聖霊と個人的に関わる中で起こることです。それが共有されて共同体的なものになることがあるとしても、とにかく初めは個々人なのです。神が預言者を通して民に語られた旧約の時代と全く異なり、使徒言行録やパウロの書簡に見られるように、神の計画を知ることを求め、願う信者一人一人が、聖霊と向き合い関わって、それを受け取ってほしい、と神は望んでおられるのです。

 神は、一人一人にゆっくりと説き明かし、ご自分の御心がどこにあるのか、どこに導くのかを知らせたい、と希望されているのです。パウロが宣教した時代にはなかった新約聖書を、信者たちが授かってから800年が経った時、アッシジの聖フランシスコは、「サン・ダミアーノの十字架」と出会いました。そこにはヨハネ福音書の十字架のそばの人々が描かれていて、彼らの下方には、イエスの脇腹を槍でついたローマ兵と、酸いぶどう酒を含ませた海綿を差し出した兵隊がいます。さらに、イエスの左ふくらはぎの横には、ペトロを思い出させるかのように、小さな雄鶏がいます。彼らもまた、百人隊長と同じく、一様に十字架上のイエスに真剣なまなざしを向けています。

 この十字架には、時間とは「ただ流れるもの」というだけではなく、「関係を表すもの」 でもある、という預言が隠されているように見えます。聖フランシスコから800年後の私たちは、それを発見することができるのではないでしょうか。

(横浜教区信徒 Maria K. M)

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2025年10月31日