駐日バチカン大使のレオ・ボッカルディ大司教が2023年2月13日に日本の司教総会の開会式でなさった講話「シノドスとシノダリティ」に戻りましょう。
前回のこのコラムで、ボッカルディ大司教の挨拶に触れましたが、それは日本のカトリック教会の取り組みが「シノダリティなしで」なされたのではないか、という点を指摘するだけで終わってしまったので、今回はその内容を紹介したいと思います。 それが、シノドスの原点に立ち返ることになる、と考えるからです。
*第3千年期が目指す教会は「シノダリティのある教会」
大使の講話に、2回同じ言葉が出てきます。それは「シノダリティは神が第3千年期の教会に期待する道(または旅)です」という言葉です。シノダリティ(共に歩むこと、共働性)という性格を持った教会になることが、神の御意志である、というのです。 シノダリティは「教会が日々歩むべき道であり、旅なのだ」―この言葉はすでに2015年10月17日「世界代表司教会議設立50周年記念式典での講話」で教皇フランシスコが使われており、国際神学委員会が作成した『教会の生活と宣教におけるシノダリティ』(2018年)で詳しく説明されています。
第1千年期はキリスト紀元後1000年間、第2千年期はその後の1000年間ですから、第3千年期とは、私たちが生きている現在、つまり2000年以降の時代です。それによると、第1千年期の教会においては「すべての人に関わることは、すべての人によって承認されなければならない」という原則をもとに教会は運営されていました。
しかし、第2千年期の教会、つまり中世以降の教会は、国家・社会と融合した位階制を中心とした教会となり、シノドス(教会会議)という形でシノダリティは存続したが、それに参加したのは聖職者であり、教皇・司教・神学者そして国家の権力者・権威者のみ。権威と権力が中心の「位階制」の教会でした。その限界、弊害を超えることを神は望んでいることは間違いありません。1962年から始まった第二バチカン公会議の果たした意味を活かしながら、第3千年期はシノダリティを取り戻していかねばなりません。
*シノダリティの特徴は「過程」だ
次に、シノドスには「始まりと終わりがある」が、シノダリティは「教会の生き方であり、かつ働き方である」という指摘です。シノドスは一回限りの会議や集会、要するに”イベント”なのです。それに対してシノダリティは「姿勢・あり方」「過程」―皆が共に対話し、共通の認識を持ち、識別をして、決定・行動していく。このような過程を日々、継続的に実践していくことです。このことは前回紹介したヘルダー社刊特集号の中でラファエル・ルチアニらが指摘していることでもあります。
*聖職者も一般信徒も共に「神の民」だ
そのように、聖職者だけでなく一般信徒も「共に」参加する教会、それがシノダリティのある教会です。ですからボッカルディ大使は「神の民である教会」「神の民」という言葉を何度も繰り返しています。「神の民」とは何でしょうか、誰のことでしょうか。第二バチカン公会議の「教会憲章」の第2章にその説明がありますが、ここで大切な点は「神の民」とは聖職者を除く一般信徒のことではないということです。教皇、司教も、司祭も、男女信徒も、等しく「神の民」の一員なのです。
ここで私が面白いと思ったのは、大使が現行のミサの第3奉献文を取り上げておられることです。そこでは「教皇、司教などの奉仕者」と「あなたの民となったすべての人」が<別個の現実 a separatereality>とされているが、これはおかしいのではないでしょうか、と司教さんたちに問うておられるのです。「私たち司教も『神の民』の一員ではないのですか」と。これは重要な指摘です。奉献文だけでなく、どう見ても今のミサは、司祭中心ではないでしょうか。
ついでに私見を述べると、パンと葡萄酒を備える祈りと奉納祈願の間で会衆は「神の栄光と賛美のため、また私たちと全教会のために、あなたの手を通してお捧げするいけにえを、神が受け入れてくださいますように」と祈ります。これでは、司祭が「祭司」、すなわち神と人の仲介者になっていることにならないでしょうか。これでは中世に逆戻りです。司祭も会衆も「神の前で平等」の立場で、共にキリストを迎えるミサにしないといけない、と私は思います。
*「信仰の感覚」は聖職者も一般信徒も共通
大使は「教会の生活と宣教におけるシノダリティ」をもとに、シノダリティを示す「教会の通常の生き方、働き方」を14点あげておられます。そのいくつか取り上げてみます。2点目に「司教も信者も含んだ神の民が、彼らのうちに住む<信仰の感覚>のおかげで、聖霊が教会に語ることを識別できるのです」とされました。
「信仰の感覚」は洗礼を受けた人なら司教だろうが一般信徒だろうが、神から共通に平等に与えられているのです。だから3点目にも「すべての洗礼を受けた人の尊厳と平等は本来的で基本的な事実である」ことを踏まえながら、役割や奉仕職における区別も実践すべきであると指摘されているのです。
さらに、第8点から第10点は繰り返し、いろんな場面で「聖職者中心主義的な行動」を無くしていくとき、シノダルな教会になる、と述べておられます。聖職者はいつもどんなことに関しても「主体」として振る舞い、信徒はそれを「受ける立場」に立たせられているのが現状であり、聖職者は「教える」立場で、信徒は「教えられる」立場であるのが現状でしょう。
しかし、シノダリティの過程において、すべての当事者は、まずもって教師ではなく「学ぶ人」なのです。信徒も「神の民」の一人として「信仰の感覚」を持っているのですから、教会のために新たな道を見分ける(識別する)能力も持っています。聖職者だけが教師ではないのです。
第10点、翻訳で「山小屋の持ち主」とありますが、要するに司祭はいつも「教会の主」になってしまう傾向にあるということでしょう。それではダメで、もっと司祭と信徒の対話と交流をした上で、進路を決めていくのがシノダリティのやり方です。
第12点、「すべての人に関係することは、すべての人によって扱われ(検討・審議され)、また承認されなければならない」という原則。先にも出てきましたが、極めて重要です。ヘルダー社刊特集号でも何度も出てきます。シノダリティとはすべての人が自分のこととして最初から最後まで関わっていくことです。一回限りの出来事eventではない。絶えず、いかなる場面でも皆が何らかの形で参加していく、そういう構造、組織に教会を変えていかねばならない。また法制上もそれを保障しなければならない、ということです。
*司祭も信徒も、腹蔵なく率直に対話できる場に
ところで、現実はどうでしょうか。関東のある女性から頂いたメールを、本人の許可を得て紹介しますと-「シノドスはまあ、上層部の人たちが議論していればそれで過ぎて行く、と思います。今までも日本の教会はこの世の価値観に従って物事を決めて来たのでしょうし、教会も一種の経営なので、経営者はそういう能力が必要… 信徒は日常生活で自立していて、教会のことも手伝ってくれて、社会的にも問題が無さそうな人が大半を占める方が良いのでしょうか?イエスさまのもとにすがった重荷を負う人苦しむ人も教会らしさのために助けられる範囲内でいて欲しい、と司祭は思っているのでは… 教会の物差しと世間の物差しがほとんど一緒なので、期待している人は少ないと思います」
とりあえず、このような発言のできる場を設けたらどうでしょう。『教会の生活と宣教におけるシノダリティ』(120、121)に「パレーシア」(ギリシャ語)という言葉が紹介されています。これは「腹蔵なく、大胆に、率直に」話すことを意味します。
*教会を”ピラミッド型”から”逆ピラミッド型”に変える
ボッカルディ大使の最後の「結論」は決定的です。私なりに要約すると、「司教である皆さん、神の民(その大多数は一般信徒!)をあなた方の土俵であるヒエラルキー(位階制)に組み込もうとせず、逆に、あなた方が神の民に組み込まれて生きてみたらいかがですか?」となります。
この結論は重要です。なぜなら、第3千年期の教会は、第2千年期のようなピラミッド型の教会ではなく、「逆ピラミッドAn inverted pyramid」になるべきだからです。これは、先述したフランシスコ教皇の演説や『教会の生活と宣教におけるシノダリティ』の中で出てくる言葉です。
この「逆ピラミッド」がシノダルな教会の形です。教皇や司教は底辺にくる。イエスの弟子たちにとって「唯一の権威は奉仕の権威であり、唯一の権力は十字架の権力」だからです。聖職者が奉仕に徹することができるかどうか、そのことを組織や構造としても形にすることができるかどうかが、問われています。
今回の日本における「シノダリティ無しの」”シノドスの道”の歩みは、ピラミッド型のままで行われたのではないでしょうか。ピラミッド型の権力を行使する教会は、もはや受け入れられない段階に来ていると思います
(西方の一司祭)
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*「カトリック・あい」より:::駐日大使の講話はすでに「シノドス」の項目に掲載していますが、念のために以下に再掲します。
司教総会開会式における教皇大使の挨拶「シノドスとシノダリティについて」 2023年2月13日
兄弟である司教の皆さま
皆さまとお目にかかり、皆さまの2023年通常総会の議案から示唆されたいくつかの考えを共有できることは、私にとって常に喜びです。ご紹介したい論考は「シノドスとシノダリティ」です。
おそらく皆さんは、「それが今回の総会の諸テーマとどう関係するのか」と尋ねられることでしょう。私の論考は、議案に書かれていることからではなく、むしろ議案に明示的に書かれていないことから生まれるものです。
この司教総会では、聖職者の生涯養成、司教協議会事務局の刷新、学校教育委員会、2022年度の決算、典礼の諸課題などが議論されると聞いています。
そこで、私は自問します。「今日、日本のキリスト者と教会の生活に影響を及ぼしている問題は、何だろうか」と。
このように問うことで、(日本の司教団や教会を)批判するつもりは毛頭ありません。ただ、第3千年期において神が教会にお望みになる道としての「シノダリティの道」を教えてくださっている教皇フランシスコの教導職を伝えたいのです。この道は、第二バチカン公会議が『教会憲章』の中で「神の民である教会」のモデルとカテゴリーにおいて示したように、教会のアイデンティティ、構造、使命の見直しを伴うものです。私の挨拶は”教会論の講義”ではなく、共通した考察をするための刺激に過ぎません。
最近、「シノドス(「カトリック・あい」注:大使が言われたいのは「代表司教会議」と思われる)」と「シノダリティ(同様に、「共働性」を念頭に置いていると思われる)」についてよく耳にするようになりましたが、この二つの言葉は何を意味しているでしょう。
一つ明らかなことがあります。「シノドス」と「シノダリティ」は同義ではありません。「シノドス」は具体的な出来事であり、「シノダリティ」は教会生活のいくつかの特性を示す概念です。「シノダリティ」とは、教会が生きて働く、いやむしろ、「教会が生きて働くべき、特定の形態」です。「シノドス」には始まりと終わりがあり、「シノダリティ」は今日の教会の宣教スタイルです。多くの「シノドス」は、おそらく「シノダリティ」なしで開催されました。
もし私たちが「シノダリティ」とはどういうことかをよく理解したければ、『教会憲章』第2章(神の民について)に戻り、司教、司祭、修道者、男女信徒を含む「神の民」というカテゴリーに立ち戻らねばなりません。教皇、司教、司祭、助祭、修道者について、たとえば「第3奉献文」にあるように、別個の現実として語ることは、依然として不適切であるように思われます。
「聖なる父よ… 私たちの罪の赦しとなるこのいけにえが、全世界に平和と救いのためになりますように。地上を旅するあなたの教会、教皇○○○○、わたしたちの司教○○○○、司教団とすべての奉仕者を導き、あなたの民となったすべての人の信仰と愛を強めてください」。しかし、あがなわれた人々の中には、教皇、司教、その他の人々も含まれているのではないでしょうか。聖アウグスティヌスが言ったように、私は、「個人として、あなたのための一人の司教であり、あなたと共にいる一人のキリスト者だ」と感じています。
*教会における通常の生き方、働き方としての「シノダリティ」
では、「シノダリティ」とは、何を意味するのでしょうか。国際神学委員会の文書「教会の生活と宣教におけるシノダリティ」(2018年) がそれをよく説明しています。「シノダリティ」は「教会論に関する論文の章、ましてや流行、スローガン、私たちの会議で使われたり開発されたりする新しい用語」などではなく、「教会の本性、形態、スタイル、使命」を表しています(30項)。教会の構造的側面」として、また「神が第3千年期の教会に期待する旅」(31項)として、すべての人は、それぞれが教会の中で担っている役割の中でそれを築く(32項)ように求められており、それは、「偶発的にではなく構造的」(33項)に、教会生活のあらゆるレベルでそれを促進すること(34項)によって実現されるものです。
教会の「シノダリティ(共働性)」を自らの教皇職の親石とした教皇フランシスコの教導職に照らして、「シノドス的教会」を特徴づけるものを当然、不完全な形ではありますが、総合的に概説することができるでしょう。
教会は次のような場合に、「シノダリティ」的と言えると思います。
1.個人として、また共同体として祈りながら生きる、神の言葉を読み、それを熱心に聴くことを、教会生活の中心、そしてあらゆる司牧活動の中心に置く限りにおいて、愛と信仰の証しのうちに成長(35項)する場合。
2.聖霊に注意深く耳を傾け、司教も信者も含んだ神の民が、彼らのうちに住む「信仰の感覚(sensus fidei)」のおかげ(36項)で、今日聖霊が「各教会に何を言っているか」を識別(37項)し、福音を告げ知らせる新たな方法、手段、言語を見出す(38項)ことができる場合。
3.役割や奉仕職におけるいかなる区別に関して、「すべての洗礼を受けた人の尊厳と平等は、本来的で基本的な事実だ」と考えることを、実践の中で示す(39項)場合。
4.心の耳をもち(40項)、現代の男女、とりわけキリストの肉である(42項)貧しい人々(41項)、そして苦しむすべての人々(43項)の喜びと希望、悲しみと苦悩に耳を傾け、彼らと分かち合う場合。
5.人間の痛み、喜び、希望をご自分のものとして感じ、人間を解放するために「降りて行く」(出エジプト記3章7−8節)神のように、識別し、しかし共感し、恐れず、偏見なく、勇気をもって、今日の世界を見つめる場合(44項)。
6.宣教者として出向いて行く姿勢をとり、香部屋に居残り、孤立して閉じこもるエリート主義のグループを形成することを好まず(45項)、教会のさまざまな構成部門の中で、兄弟的姉妹的な姿でともに歩み、将来世代のために、よりすばらしく、より人間らしい価値を生み出すよう貢献(46項)する場合。
7.譲歩としてではなく、権利として男女信徒の声に耳を傾け(47項)、共同体生活へ参加するために組織の成熟を刺激し促進(48項)する場合。
8.聖職者が常に唯一の「資格のある主体」であり、「残りの信者たち」が常に唯一の「その主体の行為を受け入れる立場にある」ような「福音化の図式」を不適切だ、と考える(49項)場合。
9.信仰において誤ることができない神の民は、主が教会のために開く新たな道を識別するための自分の「鼻」をもっているので、「教えの教会(ecclesia docens)」と「学びの教会(ecclesia discerns)」の区別をあまり厳格なものとしない(50項)場合。
10.司祭と信徒の間の対話と交流を促し、最終的に”山小屋の持ち主”が常に司祭となるリスクを回避する、トップダウンでも歪曲でもない、道具と構造を備える方法を知っている(51項)場合。
11.対話と識別によって、絶えず表現され調和に至るまで円滑にされるべき意見の多様性を排除するのではなく、誰もがかけがえのない貢献を与える多様性の調和の中で、一致して歩む(53項)場合。
12.中世の教会で使われ、使徒職の実践や聖伝と考えられていた、「すべての人に関係するものは、すべての人によって取り扱われ、承認されなければならない」という原則を、新たなやり方で再び採用し、教会生活の3分野(信仰、秘跡、統治)に適用する(54項)場合。
13.ある時は、先頭に立って道を示し、人々に希望を支え、また別の時には、ひたすら慈しみ深い親密さを示しながら皆の中に立ち、またある状況では、人々の後を歩き、取り残された人々を助ける、そのような司牧者が奉仕している(55項)場合。
14.それによって福音化の新しい段階が始まり、著しく変化した世界と文化に対して、もっと適した新たな形で福音を宣べ伝える責任を負った第二バチカン公会議を、完全に引き受ける(56項)ために、あらゆるレベルで活動する(57項)場合。
結論として、まず最初に来る「神の民」(全員)というカテゴリーの豊かさを、私たちは再発見しなければならない、と思います。次に司教たち(一部)が来て、最後にローマの司教(=教皇一人)が来るのです。これは、「三つの異なる別々の教会的主体がある」という現在の概念を超えるものです。
あらたな概念では、「『諸教会の教会』というモデルの中で、普遍性は実現される」という、「地方教会の教会論」の受容を真剣に理解することが重要です。つまり、世界のそれぞれの現地で活動する教会が、「独自の味わいと特徴」を持ったキリスト教生活のスタイルの中で、教会として存在し、行動する中で生み出すべき道を受容する、ということです。
共同責任として権限を執行するわけです。つまり、祈り、聞き、分析し、対話し、識別し、助言するという組織的な祈りとコミュニケーションのダイナミズムを通して、聞き、識別し、入念に検討し、決定する、という「合意の文化」をもつのです。”シノドスの道”の旅の目的は、単に「出会いを通して互いをよく知る」ことではなく、「司牧上の決定を下せるように、共に働く」ことです。
結論として、私は次のように言いたいと思います。「シノドス(この場合は、「世界代表司教会議」と思われる)や司教協議会といった司教たちの組織に参加することで、「神の民を教会位階の中に組み込む」のではない。教会位階こそが、「神の民の中に身を置き、すべての信者の声に耳を傾けながら、信者の一人として生きていく」ように、求められているのです。
教皇大使 レオ・ボッカルディ大司教
(「カトリック・あい」編集)
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