カトリック、プロテスタントの「神父」、「牧師」等は「イエスの復活」について言を左右にして本当の所を語ろうとしない。まあ、現在の西欧世界に於いてさえ、この事柄はあたかも「禁句」の如くである。
余談はさておき、今現在、この復活なる話を我々はどの様に考えたら良いのであろうか。
復活について、井上洋治神父は下記の如く述べている。
「復活者顕現物語」とよばれている物語は、史実をそのまま語ったものではない。深層意識に強いインパクトを受けた物語作者の宗教体験が日常意識の座にのぼってくるときにとる形式である。復活とは物理学的な三次元の世界に死んだ人間が生き返ってくる蘇生とは違うから、それで、イエスの弟子達は、「イエスの復活」をその深層意識的原体験に於いて事実として捉え、それを「真実」という言葉で表現したのであろう。(井上洋治著作選集第4巻、「わが師イエスの生涯」日本キリスト教団、2015年、13頁、169頁参照)
要するに「イエスの復活」物語は、「三次元の世界」、はたまた「生物学」等の話ではなく、ある種の「宗教体験」であろうし、もっと厳密に言えば「復活体験」である。この復活体験なる事柄は、深い深層意識に突き刺さった体験が、意識の世界に言葉として浮かび上がってきたときに、物語として展開されていく。従って、言葉乃至は言語によって対象化しえない復活のキリストは体験的にしかとらえられない”原事実”といえるだろう。
パウロが記したと言われる「コリントの信徒への手紙一、15章」には、イエスの復活が詳細に書かれている。私の神学生時代、「この箇所は歴史的な事実であり、真実だ」と教えてくれた先生がいたが、残念ながら、その先生は、このパウロが書いたと言われる部分が、パウロ自身の「復活体験」であることが理解できなかったのであろう。
確か、1941年頃、ドイツ聖書学者、R・ブルトマンが聖書の奇跡物語を「非神話化」する旨、明言した。まあ、この頃を境に、聖書の物語を「客観的」に論ずるようになった。
ただ、イエスの復活物語については、種々様々な見解、解釈等があり、各個人が有する「復活体験」を大切にされることをお願いしたい。
ここまで記してきたが、どうしてイエスの復活物語が問題になったのか、おおまかに述べておく。
19世紀から20世紀にかけて、主にドイツを中心に、聖書の文献批判学なる学説が登場した。この学説によれば、四福音書が書かれた年代順は、最初がマルコ福音書(70年代後半)、マタイ福音書(80年代)、ルカ福音書(80年代)、ヨハネ福音書(90~110年代)となると。問題になったのは、最初に書かれたマルコ福音書によれば、イエスの墓は「空」であったと。この事柄は当時のキリスト教界に大きな波紋を投げかけた。イエスは復活しなかったのではないかと。
この「空」の墓で喜んだのは、所謂「無神論者」と「共産主義者」と言われていた。
マルコ福音書14章~16章8節は、四旬節から復活物語までが述べられている。「空」の墓については、皆さんが今一度「黙想」されることを望みたい。