・「パトモスの風」 ③「サン・ダミアーノの十字架」に描かれた百人隊長について、もう少し…

「サン・ダミアーノの十字架」に描かれた百人隊長について、もう少し考えてみたいと思います。

 前回書いたように、ヨハネ福音書は、イエスとピラトのやり取りにずいぶん紙面を割いています。ご自身の最期の時に、ローマ総督ピラトと関わるイエスの様子には、御父のみ旨を粛々と果たす姿が見えます。そこに、ローマをキリスト者のものにする、という狙いがあったとすれば、すべてがはっきりとしてくるように感じました。

 イエスは、ヤコブの井戸で出会ったサマリアの女に、「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハネ福音書4章21節)と証されました。「この山でもエルサレムでもない所」とは、結果的にローマでした。エルサレムが崩壊することを知っていたイエスは、新しい契約の上に、ご自身が生み出し、聖霊が設立する教会のために、初めからローマに新しい都を計画していたことが分かります。

 百人隊長のエピソードは、マタイ福音書とルカ福音書にあります。前回書いたマタイ福音書の百人隊長の場面と同じように、僕の癒しを願ったルカ福音書の百人隊長も、イエスに家に来てほしくないという状況に遭遇してしまいます。イエスと長老たちに「群衆」も付いて来たからです(ルカ福音書7章9節参照)。そこで、「その家からあまり遠くない所」(7章6節)まで来たとき、百人隊長は、友人たちを送って、次のように言ってイエスの来訪を断ります。

 「主よ、ご足労には及びません。私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。それで、私のほうからお伺いすることもいたしませんでした。ただ、お言葉をください。そして、私の僕を癒やしてください。私も権威の下に服している人間ですが、私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、僕に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(7章6~8節)。

 この伝言は、まるでローマから届いたもののようです。イエスはこれを聞いて驚き、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない」(ルカ福音書7章9節)と言われました。ローマの兵隊であった百人隊長が、預言者のように語ったからです。

 彼の言葉は、そのままローマ帝国の未来にあてはめることができました。「主よ、ご足労には及びません」とあるように、イエスはローマの土を踏まれることはありませんでした。ローマ帝国は、十字架上で亡くなったイエスを迎え入れることはなかったのです。

 しかし、「ただ、お言葉をください。そして、私の僕を癒やしてください」という言葉は実現しました。御言葉は、パウロより先にローマに辿り着き、すでにその民に働きかけていました(ローマの信徒への手紙1章6~7節参照)。

 そして、百人隊長の軍務体験から出た言葉は、一見平凡なものに見えるかもしれませんが、そこには当時のローマ帝国が持つ法律や軍事に関する、合理的なシステムがありました。そこに、イエスが十字架上で成し遂げた新しい契約を生きる教会のために、神が都をローマに求めた理由があります。

 神の子が地上に来たために起こる、人類の急速な進歩を受け止める器が、ローマ人の文化や伝統、気質にはあったのです。聖霊の導きに従い、聖霊と協働するキリスト者の共同体が成長する希望が、ローマの地にはありました。今、歴史を経た私たちは、新約聖書の中に新しい預言があったことを知ることができます。

 イエスの驚きの言葉は、百人隊長の僕に届き、僕は元気になっていました。イエスを信じる百人隊長の気持ちは、直観的で純粋でした。それはイエスが「また、預言者エリシャの時には、イスラエルには規定の病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンだけが清められた」(ルカ福音書4章27節)と引き合いに出されたアラムの王の軍司令官ナアマンのようでした。彼が、妻の召使のイスラエルの少女から聞いて預言者エリシャを信じたように、百人隊長は、長老たちからイエスのことを聞いて信じたのです。

 イエスが、「私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとに来ることはできない。私はその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に『彼らは皆、神に教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、私のもとに来る」(ヨハネ福音書6章44~45節)と話された言葉は、旧約の預言が実現したことを証ししています。当時イエスは、御父の引き寄せる力によってイエスのもとに来ることができた人々と関わっていたのです。百人隊長もその一人でした。その信仰は、旧約の民の信仰の延長線上にありました。

 しかし、百人隊長は、その信仰に留まっていることはできませんでした。後にイエスが、「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」(ヨハネ12章32節)と証しされたように、十字架上のイエスに、その見張りを一緒にしていた人々と共に引き寄せられ、「まことに、この人は神の子だった」(マタイ福音書27章54節)と言うことになったからです。

 ルカ福音書では、「『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を崇めた」(ルカ福音書23章47節)と書かれています。御父に引き寄せられてイエスのもとに来た百人隊長は、「私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません… ただ、お言葉をください」と言いました。それは、旧約の民の預言に支えられた信仰でした。そして、十字架上のイエスに引き寄せられ、「まことに、この人は神の子だった」と言いました。この言葉は、まさにイエスが今、成し遂げたばかりの、新しい契約に向かっていました。

 それでは、聖霊が降臨した後、「サン・ダミアーノの十字架」に描かれた百人隊長は、今度はどのような信仰を告白するのでしょうか。十字架上のイエスは、穏やかにその先を見つめています。

(横浜教区信徒 Maria K. M)

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2025年9月6日