・「パトモスの風」⑧ヨハネ福音記者が「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」と書いたのは、その体験があったから

今回は、ちょっと横道にそれてしまいますが、前回、ヨハネ福音書1章の「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」(ヨハネ福音書1章 5節)とある「闇」とは、人間の情報や知識のことです、と
書いたことについて、少しお話ししたいと思います。

このコラムで初めのころにお書きしましたが、アッシジの聖フランシスコが出会った「サン・ダミアーノの十字架」の作者は、十字架像の上部に、一人の男性がボタンの付いた筒のようなものを持って、下から手を差し伸べているイエス・キリストに渡そうとしている様子を描きました。

私は、それはまさしく黙示録の「七つの封印がしてあった」(ヨハネの黙示録5章1節)巻物に違いない、と思いました。この十字架像の中心テーマは、ヨハネ福音書の十字架の下の場面ですので、サン・ダミアーノの十字架に、「ヨハネ福音書と黙示録の相が現れている」ことに、フランシスコも気付いたに違いありません。

『アシジの聖フランシスコの小品集』(庄司篤訳、1988年、聖母の騎士社)の第一章「訓戒の言葉」の最初のテーマ、「主の御体」を読むと、フランシスコが、ヨハネ福音書から御父の愛とご聖体についての特別な理解を得ていたことが見えます。

一方、同じ「訓戒の言葉」の第2のテーマ、「我意の悪」では、創世記の「善悪の知識の木」へとその関心が向いています。フランシスコは、ヨハネの黙示録もよく読んでいたと思います。そして、黙示録の「竜」と創世記の「蛇」について考察したかもしれません。しかし、800年も前の彼の時代、それが何かを知るための手がかりは乏しかったでしょう。

黙示録の「竜」は、「巨大な竜、いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者」(12章9節)、「悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇」(20章2節)と表現されていて、それが創世記3章の「蛇」とつながります。黙示録の「巨大な竜」は、「いにしえの蛇」、すなわち創世記の「蛇」がまるで進化したかのようです。

創世記の「蛇」が何であるかは、初めの「人」から女と男が創造された後、二人の間に、情報が発現した、と考えると合点がいきます。生き物は皆、複数になれば同種の個体間で情報を共有し、種の保存に最
適化しようとして進化するようになります。人間も同じですが、人間の間に発生した情報は、他の生き物とは比較できないほど急速に発達したと思います。2500年以上も前に書かれたといわれる創世記が、人間の情報を「蛇」にたとえて、他者として捉えたセンスにはすごいものがあります。

創世記3章に描かれた初めの女と「蛇」の対話が、人が情報を知識として取り込んでいく様子、と捉えると(創世記3章1~9節参照)、初めの「女」に起こったその現象は、人と競合する知性、AIと格闘する現在の私たちには、身につまされる体験ではないでしょうか。

AIと関わる私たちの中には、実在感が曖昧になって、それが「命を持った相手」であるかのように錯覚し、依存する人々もいる、と聞きます。創世記の初めの女と男も、それぞれが日常的に得た情報を共有するうちに、神が食べることを禁じた木の実についての彼らの記憶が、次のように曖昧になっていきました。

神は、園の中央に命の木と善悪の知識の木を生えさせられたのですが、「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(2章16~17節)と人に命じました。しかし、女のイメージは、園の木の実を食べることはできるが、「ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われた」(3章3節)いうものでした。神の言葉に人間の情報が混入して、彼女の知識は当初の神の命令とは違ってしまいました。

この違いの中で、女の脳裏に、神の命令に対して、「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか・・」という疑惑が生まれました。それは、「私たちは、園の木の実を食べることができる…」という知識との間で行ったり来たりしたことでしょう。「でも、ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われた…」と思い返しました。

ここで、死を体験したことも見たこともない若者であれば、「死んではいけない」を「決して死ぬことはない」にひっくりかえすことは簡単です(3章1~4節参照)。さらに、「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ」(3章5節)と後付けでその理由を思いつくに至ると、彼女には別の現実が見えてきます。

「女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。彼女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えた。そこで彼も食べた」(3章6節)と書かれています。
二人の間で交わされた情報が、女の記憶により強く印象付けられたのは自明のことでした。神による人の創造に参与し、他者の命のために働く胎を授けられた女性は、常に他者の存在を本能的に意識してい
るところがあります。そこで、コミュニケーション能力が高く、ストーリーを共有することに長けています。

今では男女の差異は感じられませんが、人類が歴史を生き延びて今日のような発展を遂げた理由がそこにある、と言われているところです。人類はストーリーを共有することによって大規模協力を可能にしてきたのです。

イエスが洗礼者ヨハネから水で洗礼を受けられた後、共観福音書は、イエスが「悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」(マタイ福音書4章1節)という場面をそろって記載しています。当時は、まだ情報という言葉も概念もなかったと思いますが、神であるイエスは、創世記の場面と同じように、悪魔(サタン)を他者として捉え、それが人間の情報であることを知らせ、それと対峙する模範を私たちに示されたのではないでしょうか。

神であっても人の肉体を持つイエスも、この世に生まれたときから、さまざまな情報に接していたと思います。しかしイエスの記憶の中で、人間の情報が取り込まれて彼の知識となっていたとしても、ご自身
が携えて来られた御父の御心とは完全に区別されていたことが、荒れ野の場面の対話から分かります。

福音書は、イエスが多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた時、ペトロがイエスを脇へお連れして諫め始めた、と書いています。するとイエスは振り向いてペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている」(マタイ福音書16章23節)とお叱りになったとあります。「人のこと」とは人間の情報のことです。

イエスは、御言葉を受け入れイエスの名を信じる弟子たちが、ご自身の言葉と人間の情報とを区別するように、格別に配慮し、訓練しておられたのではないでしょうか。ヨハネ福音記者が「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」と書いたのは、その体験があったからこそであり、その体験を共有する方法を、未来の信者たちのためにイエスが残さなかったはずはない―私はそう確信します。

(横浜教区信徒 Maria K. M.)

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2026年1月31日