以下に記すことは、現代聖書学の見解である。当方、このコラムで、荒井献氏の著作「イエス・キリストの言葉」を用いた。ただ、この箇所を論ずるにはあまりにも複雑であると同時に問題が多岐にわたる故、簡略的に記すことを了承されたい。
この物語の最後「これからは、もう罪を犯してはいけない」。この箇所には( )が付けられ、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所を示す、と「共同訳聖書」の凡例にある。問題は、この最後の部分が、イエスが本当に語られた言葉かどうか、ということだ。ただし、この箇所、「姦淫の女」の物語は、元来、ヨハネ福音書にはなかったといわれる。紆余曲折を経て、4世紀にこの箇所がヨハネ福音書に採用された。
そもそもこの物語の中で「姦淫の女」は、本当に悔い改めを必要とする「罪人」とみなされていたのであろうか。カトリック聖書学者によれば、イエスが、この女に「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのは、「悔い改めを求め、罪に陥った女を憐れみ、赦した」から。この文言は、いわば条件付きの言葉である。これが教会における一般的解釈であろう。だが、数多くの写本研究からこうした赦しを求める文は古い写本には無かった、とされている。
イエスにとって、この女を罪に定める考えは毛頭なく、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい」で終わっていたのである。この言葉から理解するなら、イエスは「姦淫の女」を「悔い改め」を必要とする「罪人」とは見ていない。イエスは彼女を絶対的に無条件で受け入れた、と言えるだろう。
イエスが「新約聖書」において、人を積極的に「罪人」としたであろうか、と思い返すことが肝要である。「姦淫の女」に対してイエスは「罪の赦し」を与えたのではなく、「無条件」な「全人的な解放」をされた、と見なすことできるであろう。
ここで、我々は「正統的キリスト教」の信仰告白、使徒信条、神学、教義と教理は皆、「強者」の側にいる「キリスト者」により作り上げられてきた「強者の論理」の教えではないか、と問い直す必要がある。
次のことを記してこのコラムを終えたい。
どれほど歴史を通して培われてきた強固な神学や教理・信条であってもそれを「絶対化」せず、その信仰と神学を基盤にする宗教の在り方が「イエスの福音を生きる生き方」と乖離しているならば、そのことにも「否」と言うべきであろう… 更に、ヴァチカンに於いて、黙想を指導するエリク・ヴァーデン司教の言葉を引用しておく。『それはアブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわちキリスト・イエスにおいて憐れみ深い御子となられた神を、哲学における不動の動者とは一線を画すものです。(底本:荒井献「イエス・キリストの言葉」岩波書店・2011)