「パトモスの風」 ⑨今年を「聖フランシスコ年」とされたレオ14世教皇に感謝!

 
 レオ14世教皇様が、2026年1月10日から2027年1月10日までを、聖フランシスコ没後800年を記念する「聖フランシスコ年」とされた、という発表を知った時、私は心から感謝しました。私が「サン・ダミアーノの十字架」と出会い、アッシジの聖フランシスコについて知る機会を得たのは、神さまからのものだったのだと感じられたからです。そして、それまで持ち続けたヨハネ福音書と黙示録への思いがここにあったように思えました。

 そこで、これまで、「サン・ダミアーノの十字架」には、なぜヨハネ福音書と黙示録のテーマが描かれているのか、また、作者はなぜ、キリスト者の都をローマに置くことや、聖フランシスコの登場を預言するような人物を描き残したのか、などを追いかけてきことを、これからも続けていけたらと願っています。

 ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネが、「光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じる者となるため」(ヨハネ福音書1章 7節)に遣わされた、と書いています。そして、「彼は光ではなく、まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである」(1章8~9節)とあります。しかしそれに続く、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった」(1章10~11節)という句を見ると、その落差に驚かされます。

 「世は言によって成った」とあるのは、このように書かれた理由を、創世記に探すように示唆しているのです。前回2月号のコラムで書かせていただきましたように、ここでも、創世記の「蛇」を、初めの女と男の間に発現した「人間の情報」であると捉えて考えてみる必要があります。

 初めの男と女が、神が食べることを禁じた「善悪の知識の木」の実を取って食べた後、「取って食べてはいけないと命じておいた木から食べたのか」(創世記3章11節)と問いただした神に、アダムは「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので、私は食べたのです」(3章12節)と答えました。自分が神の命令に背いた原因を、神に帰したのです。このことは、彼が、この時、「神への敵意」を持っていたことを表しています。

 一方「女」は、「蛇がだましたのです。それで私は食べたのです」(3章13節)と、その理由をありのままに答えました。そこには、二人の間に発生した「人間の情報」を、どう取り込んで自分の知識にしたかの違いがあったと見ることができます。

 神は、人間の情報が他の生き物の中で最も呪われるものだ、と言われ、「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に/私は敵意を置く。/彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(3章15節)と言われました。「私は敵意を置く」という御言葉は、まず「お前と女」、すなわち人間の情報と「女」の間に、次いで、「お前の子孫と女の子孫との間に」置かれました。神は、この御言葉が遺伝によってすべての人に継承されるようにしたのです。この時すでに、全人類の命が女性の胎に託されていたからです。

 神は、この御言葉を、アダムと人間の情報との間に置きませんでした。それは、「神への敵意」を先にもっていたアダムに「私は敵意を置く」という御言葉を与えれば、その葛藤に彼が苦しむからです。しかし、彼の知識となった「神への敵意」は、彼だけにとどまらず、子孫にも伝わっていきました。だからヨハネ福音書にあるように、世は「言」を認めなかったし、民も「言」を受け入れなかったということが起きるのです。

 だからこそ、「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」と言われた神の言葉に希望がありました。それは、やがて御言葉が人となって生まれ、人に「人間の情報」を区別することを教えることで、その頭を砕き、「お前は彼のかかとを砕く」と言われた出来事を、神の計画が成し遂げられることにつなげてしまう、という希望です。これらの事に注意を向けながら、さらに続くヨハネ福音書の次の言葉を読むと、何かが、もっとはっきりしてくる気がします。

 「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ福音書1章12~14節)。

(横浜教区信徒 Maria K. M.)

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2026年2月28日