森司教のことば⑤ いのちに寄り添うことの大切さ・・日本社会を救うために

「一億総活躍社会」、これは、首相がアベノミクスの第二弾として掲げた旗印である。それは、首相の頭の中では時間をかけて練られてきたものだったのかもしれないが、私の心の中では、「一億」という言葉を聞くだけで、生理的な拒否反応が起きてしまう。というのは、戦争一色に染まってしまった時代の「国民総動員」「一億一心」の掛け声や連合軍が本土に上陸してくることを予想した時の「一億総玉砕」「一億火の玉」の掛け声、それに終戦後の東久邇宮内閣の「一億総懺悔」などという過去の暗い記憶と重なり合ってしまうからである。

  「一億総活躍」が具体的に何を目指すものなのか、確認するために官邸のホームページを覗いてみたら、「希望を生み出す強い経済」、「夢をつむぐ子育て支援」、「安心につながる社会保障」を目指すものであると説明されていた。

 何のことはない。それは、従来の省庁、つまり、経済企画庁、経済産業省、厚生労働省や内閣府の少子化対策推進員会などの担当分野のものである。決して新しいものではない。新しさは、「一億総活躍」という名の下に、それぞれの省庁の働きを一本化しようとしたところにある。

 しかし、そこで見落としてはならない点は、その究極の狙いが、女性や高齢者などの雇用を拡大して経済を活性化し、「生産性向上を大胆に進める」ことにある、と明記されている点である。つまり「経済の活性化のための一億総活躍社会」ということなのである。

 「経済の活性化のための一億総活躍社会」とは、要注意である。というのは、経済的な発展そして豊かさが、必ずしも人の幸せにつながっていかないからである。

 事実、これまで経済的な発展を最優先してきたために、日本社会は、働く人々の精神の空洞化を招いただけでなく、家族の絆を弱め、人と人とのつながりを希薄にし、結果としては孤独死・無縁死などの増加を招いてきてしまっている。

 これから目指すべきことは、この負の事実を直視し、一人ひとりが生きてきた良かった、と実感できる質的に豊かな社会の構築ではなかろうか。その豊かさと輝きは、いのちの神秘に視点を置いた豊かさであり、輝きである。

  中国の舞踊家ヤン・リーピンが主演した「シャングリア」というタイトルのイベントのプログラムの中に、次のような歌詞があった。命に寄り添い、命を見守り、命を支え、育むと言う視点からの、女性という存在に対する賛歌である。

 「太陽は休んでもいい。月も休んでもいい。でも女は休まない。もし、女が休んだら、かまどの火が消える。塀の隙間から冷たい風が老人の頭を痛めつけるなら、女は我が身を持って風を守る。道端のいばらが子供の足に刺さるなら、女は我が身を山道に引く。女が家にいる時、その家族はひとつになる。もし、女がそばにいれば、男は山崩れにも耐える。(中略)地上に女がいなければ、緑は育たない。男のそばに女がいなければ、男はすぐに病に倒れる。地上に女がいなければ、そこに人類はない。太陽は休んでもいい。月も休んでもいい。でも女は休まない。」(2016年4月、プログラムより)

 命に寄り添う、命を見守る、命を支える。それは、利益を求めた目的志向型の生き方や自らの生の輝きをひたすら求めていくという直線的な生き方とは、全く異なる次元の生き方である。

 命に寄り添うことは、成果を求めるのでもなく、自らの輝きを求めるのでもない。水がどんな器にも合わせていくのと同じように、融通無碍、相手の命のありように合わせながら、周りの人とのいのちを支え、幸せを生み出していく生き方である。

 私たちは、あまりにも経済的な豊かさを求めることに引きずられ過ぎてしまっている。今や、女性たちもその流れの中に巻き込まれようとしているのである。それは、日本社会のいのちを支える力を削いでいくことにつながってしまう恐れがある。

 今の日本社会の根底に求められているものは、いのちの尊さ、いのちの幸せという観点から、人間の幸せに関する価値観、人生観を育み、育てていくことである。

 今、日本社会に掲げるべき旗は、「総活躍」の旗ではなく、『初めに愛ありき』という旗のもとに、『人間の生きることの尊さと内面の豊かさ』に目覚めていくことである。

(森一弘・もり・かずひろ・真生会館理事長)

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2016年12月31日 | カテゴリー :