共に歩む信仰に向けて③ キリシタン史と現代・その2ー歴史の教訓から学ぶべきは

 初めに、伴天連が行なったことを幾つか項目別にして概観してみます。すなわち、集団改宗、寺社仏閣の破壊、日本人を奴隷として売り飛ばす(奴隷売買に関与)、政治的動きなど。現代において「ヒエラルキーの教会」から「シノダルな教会」への改革の必然性を理解できると考えるからです。

*キリシタンへの「集団改宗」は強制改宗でもある

前回述べたような精神で、初期の頃はイエズス会が宣教していきます。そのやり方は大名や領主を教化して領民へ民衆へ、という集団改宗を行ないました。集団改宗は強制改宗です。「キリシタン宣教師とりわけイエズス会士は日本の権力者に近づいて彼らを入信せしめ、上から下へ信仰を広める政策の効果的なことを当初から確信し、実行したのです。

 ヴァリニャーノは、日本人の領主への隷属性は極めて強く、彼らの積極的支援なしには教会の発展はおぼつかない、と日本布教の責任者に指示しました。ですから、多くの日本人が、一人一人が教えを理解して納得して信仰を自分のものにしたとは言えません。領主など高山右近のような身分の高い例外もありますが。

 彼らは「ドチリイナ・キリシタン」(カトリックの教え)などを教えられたのでしょうが、福音書に示されるイエスの行動や言葉を十分に学ばずに、主祷文、使徒信経、普遍的教会、秘跡などをどれだけ理解できたのか、極めて疑問ではあります。

 ましてや日本語に習熟していない宣教師(伴天連)とその補助をした同宿が教えたのです。領民が一人一人個別に教えを聞いて納得して改宗したわけではないでしょう。

*寺社仏閣の破壊、会衆を拒否した仏僧を国外追放…

 宣教師は、自分たちが信奉するカトリック教だけが本当の宗教で、他の宗教は異教・邪教だから捨て去るべきもの、との信念から、寺社仏閣を破壊していきます。

 「日本においても、在来の宗教といった敵に対しては、徹底的に攻撃の手を緩めず、後に述べるごとく、彼らによる神社仏閣の破壊はすさまじいものがあった」「実際に手を下して破壊したのが日本人信徒でり、パードレがそれに無関係であったかのごとく強弁しても、それは無理である。イエズス会宣教師の指示によって寺社の破壊が行なわれた事例は少なくない」。

 ヴィレラは1557年に、平戸で領内で1300人を改宗させます。しかし「パードレたちが寺社から仏像等を集めさせて焼いたり、経典を俵詰めにして焼却した行為が、仏僧らの怒りを招かないはずはなかった」(五野井)。天正年間に大村純忠の手により領内の神社仏閣のすさまじい破壊、大友宗麟による寺社の破壊、また寺社領を奪って家臣に与えるなどの行為があった。高山右近も、自己の高槻領で寺社の破壊、仏僧たちに対しキリシタンへの改宗の強要、拒否した僧たちを追放し、寺社は焼却したり教会に転用したりしました。

 純忠の性急なやり方は、家臣や領民に不快感を与え、離反を招くことになります。比叡山の僧たちは京都の治政に関して請願書を大名・松永久秀に提出する中で、パードレとキリシタンが日本人の祖先崇拝の対象である神々を悪く言い、そのために一般の人々が仏教への信心を失い、反逆や罪悪を犯すことを怖れなくなった、として、パードレを追放することを求めています。天皇や公家、仏教界の反発が大きかったことは、言うまでもありません。

 

*異教徒の日本人を、奴隷として海外に売り飛ばした

 

  インドや南米その他の地域で宣教師がやったことは「植民地化、異教徒を奴隷にすること」。教皇も容認してのことです。「日本人奴隷を売買したのはあくまでポルトガル商人であり、イエズス会士はその禁止に向けて尽力したということになるが、当時のイエズス会自体、世界各地で奴隷使役の上に成り立っていた、という点を忘れてはならない」「新大陸におけるイエズス会の砂糖きび栽培も、黒人奴隷の使役によるものであった… 日本のイエズス会が奴隷の売買をした記録が会計帳簿に記載されているし、朝鮮半島で宣教したセスペデスは、日本人奴隷売買に関わったようである」。

 日本人奴隷の売買にイエズス会宣教師も関わっていたことは、幾つかの研究によって明らかにされており、秀吉が伴天連追放令(1587年)の理由の一つとしてあげていることからも、そうした行為の言い逃れはできないでしょう。ルシオ・デ・ソウザは「秀吉が、日本人が海外に売却されている現実を、イエズス会の問題でもあると認識していた… またイエズス会は、奴隷売買に、紛れもなく加担しており、それを秀吉は見逃さなかった」と。

 秀吉に詰問されたイエズス会士のコエリョは「日本人が”売るから”だ。教会は日本人を奴隷とするのを止めさせようとしている」と苦しい抗弁をしており、売買の事実は否定しようのないものでした。

 

*伴天連の政治的・軍事的な動き

 これまで述べてきたことよりもっと重要なことは、伴天連の政治的な動きです。大村純忠が1580年に、イエズス会に長崎と茂木を寄進し、近隣の反キリスト教勢力(竜造寺氏)から守るため、大砲や武器を与えて要塞化していきます。ヴァリニャーノは『日本の布教長のための規則』で武装・要塞化を指示していました。住人と兵士に武器を持たせ、軍艦のフスタ船を所有し、その指揮は修道士がするなど。まヴァリニャーノは、「有馬晴信に対し、軍事的てこ入れを行なった。同じころ彼は、武力征服が布教のための有効な手段である旨、書簡に記述しています。

 カブラルも、大村純忠に対し「何回にもわたり金銭援助をした」「戦国時代に、近隣の諸大名との戦いで、キリシタン大名が危機に瀕した場合、イエズス会は、さまざまな支援を与えた」と述べ、日本準管区長のコエリョが1585年(天正13年)にフィリピン教会の同僚にあてた書簡には、「キリシタン大名救援のために、武装艦隊の派遣を、総督に取り次いでもらいたい旨、要望した」とあります。当時、日本にいたイエズス会士の多くが一致して、”迫害者”秀吉に対し、内外呼応して武力を行使することが計画されてい―「宣教」と「征服」は繋がっていたのです。

 

*伴天連追放令と禁教令の時代へ

 そして秀吉は1587年、伴天連追放令を出します。その後も、フランシスコ会など托鉢修道会が日本に来て、活動しますが、長崎での司祭、子供も含む信者26人の処刑などが続き、徳川幕府のもとで、宣教師は表立った活動はできなくなります。家康も、秀吉が出した伴天連追放令を撤回することはなく、キリシタンや宣教師がらみの幾つかの事件を機に、1605年、家康はフィリピン総督アクーニャに、キリシタン布教を固く禁じる旨、通告します。

 そしてまず家康のいる駿府や天領などで、キリシタン禁令が出され、1614年には幕府によって全国的な禁教令が発布され、宣教師は国外に退去するか、隠れて活動するしかできなくなります。

 

*「カトリック教会が布教地を広げることは『日本征服』につながる」と

 以上のような伴天連の政治的かつ軍事的動きから、高橋裕史氏は「宣教師は<霊魂の司牧者>なのか<武の司令官>なのか、あるいはその両方であったのか容易に答えは見つからない」と言っていますが、その両方だったため伴天連追放令や禁教令が出たことは否定できないでしょう。

 「宣教師がキリシタン大名に対して軍事的てこ入れをしたことと、彼らが日本をカトリック国にすることを夢見て、ポルトガルやスペインの武力による日本征服を企図したこととの間には、本質的な差異はない、と言うべきであろう」(高瀬)。1615年ごろにローマで司祭叙階された最初の日本人、トマス・アラキは後に「パードレの説く法は良いが、彼らの意図は布教を手段に日本を自国の国王に服させるにある」と語ったと言います。

 フランシスコ会士のアセンシオンは1597年長崎で殉教した一人ですが、彼の所論の一部を紹介すると、「教皇は霊的な事柄についてその権力を行使できるが、その目的を遂げることが出来ない時には世俗的な事柄についても権力を行使できる。もし異教徒が布教を妨げたら、教皇は強制的にその妨害を排除できる。日本はデマルカシオンによる分割においてスペイン側に位置する。従ってスペイン国王は日本に対して支配権を有する」。日本は植民地の一歩手前まで行っていた、と言えます。

 キリシタン勢力が政治的な反逆を企てることが実際に明らかになったのが、島原・天草の乱でした。農民一揆の性格が強いが、領民のほとんどはキリシタン。制圧するまでに幕藩側が要した日数や動員数は莫大なものでした。

 全国各地で転びキリシタンたちが蜂起して由々しい事態に陥ることも、幕府は危惧しました。そこに外国勢力が加わるとどうなるでしょうか。その後の徳川幕府による「鎖国」政策もキリシタン禁制が第一の目的だったことは間違いありません。いわゆる鎖国令の最後のものが出されたのは島原の乱終結の翌年、1639年です。

 

*今日まで続いてきた「ヒエラルキーの教会」から脱皮すべきだ

 以上のような次第で、伴天連の伝えたキリスト教が邪宗だとの認識が日本中に定着していきますし、日本という国の法秩序を否定し、国を傾け国を奪おうとする邪法であると断定せざるを得なかったのです。国の主権に対する自覚を持った秀吉や徳川政権が「国家理性」に基づいて自己の存立を主張したところに、キリシタン禁教が成り立っていました。伴天連追放令や禁教令を出し信徒を弾圧迫害したのは自然なことだったのです。

 政権にとって、キリシタン大名等の増加は、全国統一の妨げになるだけでなく全国家分裂を招く恐れがある、という危機感も強かったでしょう。信徒の信仰は本物だったとしても、その背後にある伴天連と彼らが所属するローマ教皇中心の「ヒエラルキーの教会」、それと結びついたポルトガル等の国家権力は、日本の亡国を招く「敵対勢力」だった、と言わざるを得ません。

 

*教皇の歴史的謝罪に学ぶ森一弘司教にならいたい

 2000年の上智大学での夏期神学講習会で、今は亡き森一弘・司教が「新しい時代に向けての日本の教会―教皇の歴史的謝罪に学ぶ」という題で講演をなさいました。教皇ヨハネ・パウロ二世が2000年3
月に、中世の十字軍や異端審問、そして現地の文化や宗教を根こそぎに破壊した16世紀の中南米の宣教活動など、過去の教会の過ちを公けに謝罪されたことに、日本の教会も学ぶ必要がある、とし、「そのように遠い昔の時代の過ちに対して、教皇は頭をお下げになったのです」と言っておられました(佐久間勤編『想起そして連帯―終末と歴史の神学』=サンパウロ=)。

 ザビエルの時代の教会は、16世紀のトリエント公会議後の教会です。それが第二バチカン公会議まで続いてきました。教皇フランシスコは昨年10月2日、「シノダリティ(共働性)」をテーマにした世界代表司教会議第16回通常総会の第2会期を前にして、悔い改めと許しを願う「祈りの集い」を主宰され、その中で権力の乱用、植民地主義についても神に赦しを願われました。「権力」の教会から「仕える」「共に歩む」シノダル(共働的)な教会に変わらなければ、カトリック教会に未来はありません。

 長崎の26人がピオ9世教皇によって聖なる殉教者とされたのも、第2千年期の教会を正しいものとしたい、という願いからです。当時の日本人に与えた苦しみや損害を考えれば、高山右近の列聖についての運動も、26聖人を殉教者と全面的に讃えることも控えめにすべきと考えますが、読者の皆様はどう思われるでしょうか。

(参考文献等は「その1」の最後をご覧ください)    

(西方の一司祭)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2025年2月28日