ローマにベルギー系の女子修道会が経営するレストランがある。ウエートレスは皆シスター。シスターと言っても修道服を着ているわけではなく、思い思いの服装で働いている。
常時3、4人のシスターがいるが、その中にベトナム人のシスターがいた。ベトナムで修道院に入り、ベルギーに勉強に行ったが、ベトナム戦争が勃発して祖国に帰れず、そのままベルギーに残った、と言っていた。
ある日、そのシスターから「弟がフィリピンのマニラから日本に行ったのを知ったが、居所が分からず連絡の取りようがない、何とかしてもらえないか」と相談を受けた。
突然のことで、どうしてよいか分からなかった。でも考えた。ベトナム人のボートピープルなら皆、同じ所にいるだろう、日本のカトリック教会はその人たちのお世話をしているはずだ、と。
そこで東京の大司教様に手紙を出した。すぐに返事をいただいた。ベトナム人の係をしているシスターを紹介して下さった。早速そのシスターに連絡を入れた。
ベトナム人の弟さん二人は倉敷に住んでいて繊維工場で働いていることが分かった。姉のシスターの心は燃えた。すぐにも倉敷に飛んで行きたい-そう思ったのは当然だが、彼女は心臓を患っていたため、飛行機での長旅は出来ない。せめて電話でも話せたら、と言うことで、そちらを試してみた。
ある日、ローマから、彼らが働いているという工場に電話を入れてみた。返事が返ってきた。10年以上も会っていない姉弟は、多くのことは語らなかった。流した涙が多くを語っていた。
声を聴き、言葉を交わした姉と弟は「会って直接話したい」という強い望みにかられた。難民として日本に入国したベトナム人が日本を出ることは難しい。そんなことは分かっていた。それでも何とかならないものか。彼らのその強い思いがまた、わたしの心を動かした。
ちょうどローマ駐在の日本大使館に勤務していた日本公使と親交があったので、事情を話してみた。彼はすぐ動いてくれた。そして日本の外務省から2人のベトナム人に3週間の日本外滞在の許可を取ってくれた。こうして2人の弟は姉を訪ねてローマに来ることになった。
2人がローマに着いたとき、空港まで迎えに出た姉は、弟をすぐに見分けることが出来なかったとか。翌日二人は姉に連れられてバチカン放送局にわたしを訪ねてくれた。二人並んで直立不動で「シスターは僕たちの命の恩人です」としっかりした日本語で言って最敬礼をした。
小さな船に70人で乗り込み、波にもまれ、食べ物もなくなり、恐ろしい日々を過ごしていた。立派な船が何隻も近くを通って行った。いくら助けを求めても救ってもらえなかっ た・・・。「そんな中で日本の船が僕たちを助けて、マニラに連れて行ってくれた。『日本人はいい人たちだ』。そう思って日本に行くことを決めた 日本に行ったことを後悔していません」と話してくれた。
一週間ほどローマに滞在して、彼らはまた日本に向けて出発した。その後、弟たちはベトナムの女性と結婚し、子供にも恵まれた。結婚式に招待されたが、行けなかった。その後も何回か文通したが、やがて音沙汰も絶えてしまい、今はどこでどうしているか分からない。ひたすら幸せを祈るばかりだ。
( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)