・Chris kyogetuの宗教と文学 ⑫小泉八雲の「和解」という奇談から

 When did you come back to Kyōto? How did you find your way here to me, through all those black rooms?(いつ京都へお帰りになりまして? あんな暗い部屋を通って、どうしてこのわたしのところへ、お出でなさいましたの?)小泉八雲「和解」(Shadowーthe reconciliation) 訳:田代三千稔

 小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンの左目を失明については、色んな記録があるようだ。回転ブランコでロープが目に当たった、もしくはクリケットのせいだった、という話がある。

 ただ、はっきりしていることは、彼は父親を若く失い、カトリック学校にも馴染めず、常に俯いて失明した左目を隠しているということだった。彼の書いた話にこんな話がある。

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 ある若侍は、主君の没落によって貧乏になった。その時に嫁にもらった女は美人で優しかったが、彼はもっと家柄の立派な女性と結婚して、出世したいと思うようになってしまった。それで妻を捨てて新しい嫁を貰って、念願の地位に辿り着いたが、思い返すのは京都にいた前の妻のことばかりだった。何年も時が過ぎ、主君である国守の任期が満ちたので、この男は、また自分勝手に新しい嫁さえも捨て、前の妻に会いにいくために京都に行った。前の妻の家は人が住んでいるとは思えないほど荒れ果てていたが、妻が気に入っていた部屋にたどり着いたら、あかりが灯っていて妻は縫い物をしていた。

 「いつ京都へお帰りになりまして? あんな暗い部屋を通って、どうしてこのわたしのところへ、お出でなさいましたの?」と女は昔の思い出と変わらない美しさのまま、自分を捨てた男を出迎えた。

 男は、今までの自分の過ちを認め、女に許してもらうように懇願した。女は、一切怒る様子も見せず、男が出て行った理由が「貧乏」だったことや、一緒にいてくれた時間が仕合わせだったと男をすぐに受け入れた。男は、もう彼女と以外は一緒にならないと決めて、床に横になった。

 一晩中、男と女は語り合って満足をしたのか眠ってしまった。朝になり、男が目を覚ますと広がるのは、荒れている廃墟でしかなかった。一緒に隣で寝ていると思っていた女は、悲しいことに朽ち果てていた亡骸になっていた。

 男は、近所の人に他人のふりをして妻の家がどうなったのかを尋ねたら、その人は言った。

 「もとは、数年まえに都を去ったお侍の、奥方のものでした。そのお侍は、出かけるまえに、ほかの女をめとるため、その奥方を離別したのです。それで、奥方はたいそう苦にされ、そのため病気になりました。京都には身寄りの人もなく、世話してくれる者もありませんでした。そして、その年の秋-九月十日に亡くなられました…」

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 妻の死はこの世の無常を表している。批評家の小林秀雄は「思い出が、僕等を一種の動物である事から救うからだ」と書き記したが、この若侍も、出世のために妻を捨てるなど、自己中心的であるが、それゆえに苦しみ、美しい思い出を懐かしみ、また取り返せると思ったが、妻はとっくの昔に朽ち果てた死骸となったことによって、無常を知ったのである。世には自戒の機会を与えられず死んでいく人もいるのだから、知ることができた、というのは無常と対照的となってしまうが、キリスト教でいえば恩寵とも言えるのかもしれない。

 仏教にある逸話がある。ブッダはヴェーサーリーに入ると、生命の急速な衰えを自覚した。それでも彼は、弟子や人々が望むならば、神通力によって寿命を超えてでも生きぬこうと考えていた。もっと長く、人のために尽くして生きていこうとアーナンダに伝えた。しかし、アーナンダはなんだか上の空のようだった。彼はブッダの真意を汲み取ることができなかった。どうやら、アーナンダに「悪魔」がとりついていて、アーナンダの心は悪魔によって惑わされていたのだ。 ブッダは、アーナンダの態度をみて、三ヶ月後に入滅しよう、と決意してしまう。

 物語の若侍が自分の利益のために最愛の妻を捨て去る選択をしてしまったように、アーナンダも自分勝手であり続けたために、ブッダの本意を理解しようしなかった。それは無常への理解を妨げる、私利私欲的なものなのだ。小泉八雲の左目の失明は、欠落や喪失を意味し、同時に物事の常に変動する本質を思い起こす。彼はきっと、最初の妻が生きていた「瞬間」を大切にしなければならなかったことを残したかったのかもしれない。人は大切なものを失ってから気付き、責任を忘れがちである。そして他者への裏切りがどれほどのものか覚悟しておかなければならない。

 ただ、私がこの話を選んだのは、この妻が「妖」(あやかし)というのか、そうまでしても夫を待っていたところである。八雲の「怪談・奇談」に出てくる妖は、悪霊になってしまった話もある。この妻は、ゲーテの「ファウスト」のグレートヒェンや、シェークスピアの「ハムレット」のオフィーリアのような悲劇的な運命を持ち合わせ、精神的に追い詰められながらも、献身的だった。

 旧約聖書で主がサムエルに「人は目に映るところを見るが、私は心を見る」(サムエル記上16:7)と言ったように、真の美しさと永遠の愛は魂の中に存在するというのは本当なのかもしれない。 妖となった存在は「時間」というものに美化されることも、毒されることもなく、温存された状態で、自分を捨てた男とこの世に留まったまま「和解」をした。妖という影は、侍にとっての無常を気づかせるために存在していた。愛というのは理屈でないものも含んでいる。他人から見れば、この妖は哀れだと思うのかもしれない。愛は良くも悪い方にも動いてしまうが、それは愛とは静止することができないということだろう。だからこそ、愛は魂にとって重要なものを担って常に方向を探している。

 嫉妬に、執着、それは色々あるが、それでも愛は単に利益だけで動かないものでもあるからこそ、人間の目では見落としてしまうところにも、恩寵を運ぶことがあるのかもしれない。

 これは私にとって美しい、愛だと思った。(Chris kyogetu)

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2024年3月31日