70代半ばの叔母との会話が興味深いものでしたので、共有させていただきます。
私が入院して教会に数か月来ていない事を心配して、昨日、叔母が電話をくれました。元気だと分かると、次第に話が変り、以前、私が神父のパワハラに「おかしい」と声を上げた事について叔母が、「あんな事やるべきではなかった、間違いだった」と諭し始めました。
今ではその神父も別の教会へ移り、私にとって既に「済んだ話」なのですが、「そうね」と適当な言葉を返すことができず、「どうして?」と聞くと、「そんな事をしても無駄」「教会は特殊な団体だから信徒が何しても無理」「やるだけ自分が擦り切れる」と、自分や知人の経験を山ほど話してくれました。
そこまでは共感できるのですが、納得できなかったのは「○○さんもその神父に暴力を振るわれたけど、黙って耐えた」「暴力を間近に見た人も皆、教会で広まらないよう沈黙していた」と”美談”のように話し、私が神父に直接声を上げたこと自体を「間違い」と結論づけたことでした。
叔母からすれば、私がとった行動は、”内乱罪”のようなものなのでしょう。心配して電話してきたはずの叔母ですが、電話を切る頃には「根詰めて教会に来なくていい」「復活祭やクリスマスだけ来るのでもいい」と語り、「ミサで毎週、会いたい」という電話ではないことが分かってきました。
この会話で痛感したのは、姪に起こったハラスメントにでさえ、自分の事のように真剣に受け止めることが、彼女にはできない、ということです。そして事実がどうであれ、「聖職者を悪く言ったあなたが悪い」「教会の平穏を乱すなら、教会に関わらないで欲しい」「老い先短いし、毎週楽しく教会に行きたいのに、あなたが問題提起するから楽しくなくなった」「あなたに起こった問題について深く考えたくない」「あなたは問題に巻き込まれないよう適当に教会に通えば良い」「なんなら教会以外に情熱を注げる活動を見つける方がいい」という考えなのです。
声を上げる被害者を視界から消して、問題も消えた、として楽しく「平和」に過ごしたいのでしょう。私は「被害者が声を上げる事が間違いとされるなら、それはキリスト教なの? この教会がそうなら、そのうち誰もいなくなって葬式もできなくなるよ」と笑顔で話を終えました。あなたなら、どうなさいますか。
(一読者の信徒)