(2026.2.26 Vatican News )
エリク・ヴァーデン司教は、ローマ在住の枢機卿および各省庁の長官、ならびに教皇レオ14世のためにバチカンで行われた黙想の八回目で、「神の天使たち」をテーマに以下のような講話をした。
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エリク・ヴァーデン司教(OCSO*)
キリストが荒野で四十日間過ごされた間、サタンは詩編90章の特に天使に関する二つの節を引用してキリストに近づきました。聖マタイによる福音書にはこう記されています。「悪魔はキリストを聖なる都に連れて行き、神殿の頂上に立たせた」。悪魔はキリストに、自らを神の子と証明するよう挑みました。「『神は御使いたちに命じて、あなたを守らせる』と書いてある。彼らはあなたをその手で支え、石に足をぶつけないようにする」と。
神のみが、私たちを頂上から飛び降りるよう招かれることがあります。しかし、その招きは「飛び降りよ」ではなく、「私の腕の中へ飛び込め」というものでしょう。
天使の介入は必ずしも安心をもたらすものではありません。天使は私たちの気まぐれに付き合うために存在するのではありません。ベルナールの同時代人カンタベリーのアングロ・サクソン人聖人レギナルドに由来する祈りにおいて、私たちは守護天使に「啓発し、守り、導き、導いてください」と求めます。これらは重い意味を持つ動詞です。天使とは聖性の守護者なのです。
修道生活は、その究極的な賛美の性質ゆえに、また修道士が神の愛に燃え、その愛を他者に伝える使者となるよう召されている点において、早くから天使的なものと理解され、称賛されてきました。
『 Sacrosanctum Concilium(ラテン語で「この聖なる公会議」を意味し、第二バチカン公会議(1962-1965)において1963年12月4日に教皇パウロ6世によって公布された『典礼憲章』の冒頭の言葉)』が美しい一節で語るキリストの唯一の「賛美の歌」は、脈打つ仲介の連鎖を通じて、地の果てから天の高みへと響き渡ります。典礼憲章の序文の最終節で私たちが確認するように、天使たちはその連鎖に不可欠な存在です。
ベルナルドは、天使たちが神の摂理の仲介者としての役割を担うことを強調しています。仲介が常に必要とされるわけではありません。神は直接私たちに触れられますが、被造物同士が互いに恵みの通路となることを喜ばれます。
神は私たちに、天使の行いを観察し、それに倣うよう促されます。「降りて、隣人に慈悲を示しなさい。次に、第二の動作として、同じ天使にあなたの欲望を高めさせ、魂のあらゆるcupiditas(情熱)を用いて、最も高き永遠の真理へと昇りなさい」。現代において、キューピッドが「最も高き永遠の真理」と同列に語られることは稀です。ベルナールの語彙選択は示唆に富んでいます。それは、肉体的なものを含むあらゆる自然な人間の渇望が、神において成就へと導かれるべきものであることを教えています。
天使たちの最後の、最も決定的な慈愛の行為は、私たちの死の刻に、彼らがこの世のベールを越えて永遠へと私たちを運んでくれる時に起こります。その時、天使たちはその特質を明らかにします。「彼らは打ち負かされることも、誘惑されることもなく、ましてや自ら誘惑することなどありえません」。その時にはあらゆる偽りが崩れ去り、修辞は失効します。ただ真実のみが、慈悲に調和して立ち、響き渡るのです。
ベルナルドは1139年、これらの事柄について慎重に説教しました。それから726年後、気質は全く異なるものの、同等の知性を持つ一人の人物が、死について詠んだ精緻な詩の中で、自らの直観を明示することになるのです。
ジョン・ヘンリー・ニューマンは天使について深く思索しました。司祭の務めを天使的と捉えたのです。司祭はこの世に根ざしつつ、迷える者を求めて暗い森へも臆せず入ります。同時に心の眼を父なる神の御顔に向け続け、その輝きが現在の現実全体を照らすようにするのです。啓示は常に二重の過程です:知的かつ本質的、秘跡的かつ教育的。
教会の博士とされたニューマンは、私たちに「教師」という存在をも天使的な啓発者として再発見するよう招きます。これは預言的な挑戦です。なぜなら、いわゆる「教育」の多くがデジタルや人工的なメディアに委ねられている一方で、若者たちは信頼に値する教師、技術だけでなく知恵をも授けることのできる教師との出会いを切望しているからです。
天使との出会いは常に個人的なものです。それはダウンロードやチャットボットで代用できるものではありません。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)