
(2026.1.7 Vatican News Salvatore Cernuzio)
7日の臨時枢機卿会議初日終了後、バチカンのマッテオ・ブルーニ報道局長は記者団に対し、参加した約170名の枢機卿が「シノダリティ(共働性)」と「福音宣教と使命」を省察のテーマとして決定した、とし、教皇が枢機卿たちに「あなたがたの力を頼りにする必要があります」と語られたことを明らかにした。
報道局長によると、教皇が招集した臨時枢機卿会議に参加した約170名の枢機卿は、「明確な多数決」により、2日間の会合中に考察するテーマとして「シノドス(世界代表司教会議)とシノダリティ(共働性)」および「(教皇フランシスコの)使徒的勧告『福音の喜び』に照らした教会における福音宣教と使命」を選んだ。
教皇は会議の冒頭に、四つのテーマを提示され、時間的制約などからそのうち二つを選んで当時するよう求めていたが、報道局長は「一つのテーマが他のテーマを排除するわけではありません。教皇は特定のテーマに対する緊急性や必要性の指摘を受けられた。他のテーマの中でそれらを扱う方法が見出すことができるでしょう」と説明した。
枢機卿たちは今回の会議で、シノダリティ(共働性)について考察すると同時に、「対話と傾聴」という(一昨年秋まで二回にわたって開かれた)シノドス総会の進め方を採用する。枢機卿たちは20の言語グループに分かれて円卓を囲み、発言は一人一回約3分とする。
教皇は初日の会議の終わりに、「シノダリティ(共働性)は、第三千年紀において神が教会に求める道です。私は、あなたがたに頼る必要性を感じている」と述べられた。
臨時枢機卿会議の第一部は、奉献・使徒的生活会省のアンヘル・フェルナンデス・アルティメ副長官の司会により、バチカンのシノドスホールで行われた。枢機卿たちは『 Veni Creator』を唱和し、マルコ福音書第6章の一節を読み、枢機卿団長ジョヴァンニ・バッティスタ・レ枢機卿の短い挨拶と、ドミニコ会ティモシー・ラドクリフ枢機卿による黙想に耳を傾けた。
その後、グループ作業のためパウロ6世ホールへ移動し、作業終了後、教皇は最終報告を受けられた。現地教会の枢機卿で構成された最初の9グループの書記だけが、行った作業と4つのテーマの中から2つを選んだ理由を説明した。他の11グループの書記は、選ばれたテーマのタイトルだけを提示した。
二日目の8日には、聖ペトロ大聖堂の教皇座祭壇で教皇と枢機卿らが共祭するミサに続き、議論と考察が継続される。教皇が冒頭のあいさつで語られたように、最終文書のとりまとめは予定されていない。目的は「共に働く」こと、「新たなものを創造する」こと、すなわちシノダル(共働的)のスタイルを学び実践することにあるからだ。
*教皇、シノダリティ(共働性)を経験することの重要性を改めて強調
7日の初日の会議の閉会の辞で教皇は、「会議のプロセスは、結論と同じくらい重要です。聖霊が今日の教会と明日の教会に何を望んでいるかを共に理解しようとする『シノダリティ(共働性)の経験』の重要性を改めて強調され、今回の会議の時間は非常に短いが、重要です。私はあなたがたに頼ることのできる必要性を感じています。あなたがたは、私という僕をこの使命に召した。共に識別することが重要です」と念を押された。
*「教会は性的虐待やイデオロギーの分裂という”嵐”に揺さぶられている、真実と勇気で乗り越えねば」とラドクリフ枢機卿
ラドクリフ枢機卿は黙想を一つの問いから始めた—「私たちはこの枢機卿会議に集い、普遍的教会への奉仕における聖父の職務遂行を助けようとしています。しかし、その助けはどのように行えるのでしょうか?」。そして、「それは、愛と平和です」とし、ヨハネ福音書を引用しながら、「もしペトロの舟が互いに争う弟子たちでいっぱいなら、私たちは教皇にとって何の役にも立ちません。しかし、たとえ意見の相違が生じても、私たちが平和と愛の中で共に生きるなら、神は確かに臨在されます。たとえ神が不在に見える時でさえもです」と訴えた。
続けて、枢機卿は「私たちは、恐ろしい”嵐”の時代に生きている。そこには、武器による犯罪から戦争に至る暴力の増大、ますます広がる貧富の格差、第二次世界大戦後に生まれた国際秩序の緩やかかな崩壊、そして影響が未知数の人工知能、が刻印されています」と述べ、「私たちがまだ不安を感じていないなら、感じるべきです。こうした状況に直面し、孤独で、疲れ果て、消耗してしまった、と感じるかもしれませんが、恐れてはなりません。イエスは私たちを見守り、これまで以上に近づいてくださいます」と語った。
さらに、「性的虐待やイデオロギーの分裂という”嵐”に揺さぶられる教会も同様です。主は私たちに、これらの嵐を『真実と勇気で乗り越えよ』と命じている。岸辺で臆病に待つのではなく。この枢機卿会議で、真実と勇気で乗り越えようとすれば、主が私たちに向かって来られるのを見ることになる。逆に岸辺に隠れたままなら、主には会えないでしょう」とも警告した。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)