(2020.1.18 カトリック・あい)
教皇が昨年秋、自発教令で年間第3主日を「神のみことばの主日」とされたが、1月26日はその初の記念日となる。 教皇フランシスコは昨年9月30日、自発教令「Aperuit illis(彼らに開いた)」を公布し、典礼暦の年間第3主日を「神のみことばの主日」と定められた。
この主日について教皇は「典礼年間の中でも、ユダヤ教との絆を強めると同時に、キリスト者の一致を祈るよう招く時期に位置しています… 聖書はその言葉に耳を傾ける者に、真の堅固な一致に到達するための道を指し示すことから、教会一致を祈る時期に『神のみことばの主日』を祝うことには「エキュメニカルな意義があります」と説明され、「教会共同体が、『神のみことばの主日』を祭日としてふさわしく過ごす方法を見つけ、ミサの中で聖書を聖なるものとして祝うことで、みことばが持つ価値を会衆にはっきりと示すことが重要です」と強調された。
なお、教令が公布された9月30日は、4大ラテン教父の一人で、「ブルガタ訳」と呼ばれるラテン語訳聖書の翻訳者として知られる聖ヒエロニモ司祭教会博士(347年頃-420年)を記念する日に当たる。聖ヒエロニモは2020年に帰天1600年を迎えるが、その記念日に自発教令を発表された教皇は、「聖書を知らぬことは、キリストを知らぬこと」という同聖人の言葉を引用しつつ、「御言葉に捧げた日曜日が、神の民に聖書に対する宗教的で熱心な親しみを育む」ことを願われた。
自発教令のタイトル「Aperuit illis(彼らに開いた)」は、復活後のイエスが弟子たちに現れ、昇天の前に、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた」というルカ福音書の記述(24章45節)から採られている。
【教皇フランシスコ自発教令『アペルイト・イッリス』(Aperuit illis「彼らに開いた」の意)の全文】(Sr.岡立子による試訳)】
1.「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、言われた」(ルカ福音書24 章45節)。これは、復活の主によって成し遂げられた、昇天前の最後のジェスチャーの一つです。
主は弟子たちが共に集まっているところに現れ、彼らと共にパンを裂き、彼らの心(精神、頭脳)を聖書の理解へと開きました。おびえ、失望していた彼らに、過越の神秘の意味を明らかにしました:つまり、御父の永遠の計画に従って、イエスは、罪人の回心と赦しを差し出すために、苦しみ、死者の中から復活しなければなりませんでした(ルカ福音書24章46- 47節参照);そして、この救いの「神秘」の証人となる力を与えるであだろう聖霊を約束します。
復活の主、信じる者たちの共同体、聖書の関係は、私たちのアイデンティティーにとって、非常にに重要です。私たちを導く主がいなければ、聖書の深みを理解することは不可能です。しかしまた、その反対も真実です:聖書がなければ、イエスの使命(ミッション)の出来事と、世における教会の出来事は、不可解なままです。
正当にも、聖ヒエロニモは書くことができました:「聖書を知らないことは、イエスを知らないことである」(In Is.,Prologo: PL 24,17)。
2.慈しみの特別聖年の終わりに、私は「神のみことばに完全に捧げられた主日」を考えることを願いました。
「主とその民との間の対話から生まれ出る、くみ尽くすことのできない豊かさを理解するために」(使徒的書簡『あわれみあるかたと、あわれな女』Misericordia et misera 7項)。典礼暦の一つの主日を、特別に、神のみことばに捧げることは、何よりも先ず、教会、そして私たちにも、ご自分のみことばの宝庫を開ける復活の主のジェスチャーを追体験させることを可能にします-私たちが、世において、この汲み尽くせない豊かさを告げる者となることが出来るように-。
それに関する聖エフレムの教えが思い起こされます:「主よ、誰が、あなたの言葉の中の、たった一つの言葉のすべての豊かさを理解することが出来るでしょうか。私たちが理解出来るものよりも、見逃されるものの方が、はるかに多いのです。
私たちはまさに、泉から水を飲む、のどの渇いた者のようです。あなたの言葉は、多くの異なる側面を差し出します。それを研究する人々の観点が多くあるように。主は、ご自分の言葉を、多彩な美しさで色づけました。それを極める人々が、彼らが望むものを観想することが出来るように。主は、ご自分の言葉の中に、すべての宝を隠しました。私たち一人ひとりが、観想しているものの中に、豊かさを見つけるように」(Commenti sul Diatessaron, 1,18)。
ですから、私はこの書簡をもって、神の民の側から届いた、全教会が目的において一致して、「神のみことばの主日」を共に祝うことができるようにという、多くの要求に答えようと思います。キリスト共同体が、その日々の存在における神のみことばの偉大な価値に集中する時を経験するのは、すでに共通の実践になっています。
さまざまな地方教会において、聖書が、これまで以上に、信徒たちにアクセスしやすくなるように、豊かなイニシアティブがあります-こうして、信徒たちが、このように大きな賜物に感謝し、毎日それを生きることに献身し、一貫性をもってそれを証しするように-。
第二バチカン公会議は『啓示憲章』(Dei Verbum)をもって、神のみことばの再発見に大きな弾みを与えました。つねに黙想し、生きるに値するこれらのページから、聖書の性質(本質)naturaが明確な方法で浮かび上がります:世代から世代へと継承されること(第二章)、その神的インスピレーション(第三章)-それは旧約と新約聖書を包括します(第四、五章)-、その、教会の生活における重要性(第六章)。
この教えを促進するため、ベネディクト十六世は、2008年、「教会の生活と使命(ミッション)における神のみことば」というテーマで、司教会議(シノドス)を招集し、その後、わたしたちの共同体にとって不可欠の教えを形成する、使徒的勧告『主のことば』Verbum Dominiを公布しました1。この文書の中で、特別な方法で、神のみことばの遂行的(すいこうてき)特徴(il carattere performativo)ー特に、典礼的行為において、その固有な秘跡的特徴が浮かび上がる時に-が深められました。
したがって、私たちの民の生活の中で、この、主がご自分の花嫁に、決して疲れることなく向ける生ける神のみことば-愛と信仰の証しにおいて成長するために-との決定的な関係が欠けることがないようにすべきです。
3.ゆえに、年間第三主日が、神のみことばを祝い、黙想し、広めることに捧げられることを制定します。この「神のみことばの主日」は、このようにして、年間の中の適切な時-私たちが、ユダヤ人との絆を強め、キリスト者の一致のために祈るよう招かれている時-に置かれます。
それは単なる偶然ではありません:「神のみことばの主日」を祝うことは、エキュメニカルな価値を表しています。なぜなら、聖書は、耳を傾ける者たちに、真の一致、堅固
な一致に達するために辿るべき道を示すからです。
各共同体は、この「主日」を、祭日として生きるための方法を見出すようにしてください。ですから、聖体祭儀において、聖なる書を祝聖する(intronizzare()ことは大切でしょう-このようにして、会衆に、神のみことばがもっている規範的価値(il valore normativo)を明白にするために-。この主日に、特別な方法で、その宣言を明らかにすること、また、主のみことばに与えられる奉仕を強調するために説教を適応させることは有益でしょう。
司教たちは、この主日に、朗読奉仕者(Lettorato)の儀式を執り行うこと、または、同じような職務を委託することができます-典礼における神のみことばの宣言の重要性を呼び起こすために-。実際、何人かの信徒たちを、適切な準備をもって、みことばの真の告知者となるよう準備することに、あらゆる努力を惜しまないことは本質的です-侍者や、聖体奉仕者のために、すでに一般的に起きているように-。
同じ尺度で、教区司祭たちは、聖書、またはその一つの書を、全会衆に届けるための形を見出すことが出来るでしょう-日々の生活の中で、継続的に、朗読、聖書を深めること、聖書とともに祈ることの大切さを浮き立たせるために-「霊的読書(レクチオ・ディビナlectio divina)」への特別な言及とともに-。
4.イスラエルの民の、バビロン捕囚後の母国への帰還は、律法の書の朗読によって、意味深い方法で印されました。聖書は私たちに、ネヘミヤ記の中で、その時の感動的な描写を差し出しています。民はエルサレムの水の門の前の広場に集まり、律法の書に耳を傾けました。この民は、追放によって離散されていましたが、今、聖書の周りに、あたかも「一人の人(un solo uomo)」のように集まりました(ネヘミヤ記8章 1節)。
聖なる書の朗読に、民は「耳を傾け」ました(同3節)-この言葉の中に、経験した出来事の意味を見出す(回復する)ことが出来ると知りながら-。これらの言葉の宣言への反応は、感動と涙でした:「[レビ人たちが]神の律法の書を読み、それを訳し、説明したので、1 Cfr AAS 102 (2010), 692-787. 2 「こうして、みことばの秘跡的性格を、聖別されたパンとぶどう酒の形態のもとでのキリストの現実の現存との類比によって理解することができます。私たちは、祭壇に近づき、聖体の会食にあずかることにより、本当にキリストの体と血にあずかります。典礼において神の言葉が朗読されることにより、キリストご自身が私たちとともにいて、私たちに語りかけ、ご自分の言葉に耳を傾けることを望んでおられることを私たちに悟らせてくれます(『主のことば』56項)。
民は朗読された事を理解した。総督ネヘミヤと、祭司であり律法学者であるエズラと、民に説明したレビ人たちは、民全体に向かって言った、『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日である。嘆いたり、泣いたりしてはならない』。律法の言葉を聞いて、民はみな泣いていたからである。[…]『悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力である』」(ネヘミヤ記8章8-10節)。