・バチカンで教皇レオ14世はじめ高位聖職者による6日間の四旬節黙想会始まる

(2026.2.23 バチカン放送)

 教皇レオ14世が参加されて、バチカンでの四旬節の黙想会が22日午後から始まった。黙想を指導するエリク・ヴァーデン司教

バチカン宮殿のパオリーナ礼拝堂で、教皇と共に行われるこの黙想会は、ローマ在住の枢機卿や、教皇庁で働く高位聖職者たちが対象。厳律シトー修道会(トラピスト会)会員でノルウェーのトロンハイム司教、エリク・ヴァーデン師によって指導される。 初日は、「四旬節に入る」をテーマに最初の黙想を行った。

黙想は連日、午前と午後に一回ずつ。午前の黙想の後には昼の祈りが、午後の黙想の後には聖体礼拝と晩の祈りが行われ、27日午後まで続く。その間、教皇は黙想と祈りに専念されるため、水曜恒例の一般謁見をはじめ、各種謁見は基本的に行われない。

(写真は、黙想を指導するエリク・ヴァーデン司教 =@Vatican Media)

(2026.2.23  Vatican News)

   エリク・ヴァーデン司教の黙想での言葉の概要は以下の通り。

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 メアリー・ウォード、17世紀の偉大なキリスト教教育者は、姉妹たちにこう語っていました― 「最善を尽くせば、神が助けてくださいます」と。

神が私たちの苦境において助けてくださる、という考えは、聖書的信仰において自明の真理です。それはアブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわちキリスト・イエスにおいて憐れみ深い御子となられた神を、哲学における不動の動者とは一線を画すものです。

詩編90項は「わが主よ、あなたは代々に我らの住まい」という句で始まります。聖ベルナールは、神は確かに「住まい」と呼ぶにふさわしい、と述べています。それは私たちが生き、動き、存在できる支えとなる現実を形成するからです。神の助けは私たちにとって一時的なものではありません。家が燃えている時や誰かが車に轢かれた時、私たちが999番に電話するように、時折呼び出す緊急サービスのようなものではありません。

では、神を畏れる人々が天に向かって叫んでも、何の応答も得られず、ただ自らの声の寂しい反響だけが聞こえるような状況はどうでしょうか。

聖書におけるそのような苦境の典型がヨブです。その荘厳な書は三つの楽章からなる交響曲として捉えることができます。内臓から湧き上がる嘆きから始まり、脅威の展開を経て、全く予想外の恵みの体験へと至るのです。

ヨブは友人の合理的な説明を受け入れません。神が彼の人生を貸借対照表のように計算しているだけだと仮定することも拒みます。助けを得られない中で、彼は苦難のただ中に神の存在を見出そうと決意し、英雄的に叫びます。「もし神でないなら、いったい誰がそうなのか?」

信者として、私たちはあるレベルで自らの信仰を”保険契約”のように考えるかもしれません。神の助けの中で生き延びると確信し、危険から逃れられた、と思い込むかもしれません。しかし災いが襲う時―いや、必ず訪れる時―世界は崩れ去るように感じられるのです。

私が丹念に築いた”特注の防護柵”が崩れるような試練に、どう向き合えばよいのでしょう?神との関係は物々交換のようなもので、苦難の時こそ、ヨブの頑固な妻の助言に従い「神を呪って死ね」と考えるようになるのでしょうか?それとも、より深い次元で生きるのでしょうか?

神は、私たちが世界そのものだと思い込んでいた壁、実際には窒息しかねない壁を打ち壊した後、新たな世界を生み出すお力をお持ちです。

聖ベルナールが私たちに求めたように、神の助けの中で生きることは、安易な安心を”売り歩く”ことではありません。それは嘆きと脅威を通り抜け、より深い次元で恵み深く生きるための道なのです。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2026年2月24日