・「平和は”小さくなる勇気”から生まれる」-「 福音への回心」をテーマに教皇付き説教師による四旬節説教始まる

教皇レオ14世出席のもと行われた、教皇付説教師パソリーニ神父による四旬節の説教 2026年3月6日 バチカン・パウロ6世ホール教皇レオ14世出席のもと行われた、教皇付説教師パソリーニ神父による四旬節の説教 2026年3月6日 バチカン・パウロ6世ホール  (@Vatican Media)

(2026.3.6  Vatican News   Benedetta Capelli

 教皇レオ14世出席のもと、教皇庁関係者を対象にした教皇付き説教師ロベルト・パソリーニ神父による四旬節の説教が6日、バチカンのパウロ6世ホールで始まった。

誰でもキリストにあるなら、新しく造られた者(コリントの信徒への手紙二 5章17節)。聖フランシスコによる福音への回心」福音への回心」をテーマにした今年の説教は27日まで、毎週金曜日、4回にわたって行われる。

 

 

*「平和は不可能と思える時でさえ、対話を選ぶ時に生まれる」 

The preacher of the Papal Household offers his first Lenten meditation in the Paul VI Audience Hall

 

 6日の第一回の黙想の主題は「回心:謙遜の道を歩む主イエスに従うこと」で、パソリーニ神父はまず、「痛みと暴力に彩られたこの時代に、小ささについて語るのは抽象的な議論、ほとんど”霊的贅沢”のようにさえも思えるかもしれません。しかし実際には、それは世界の運命と結びついた実践的な責任なのです」と強調。

 そして、「平和は、政治的合意や外交・軍事戦略から生まれるだけでなく、自らを小さくする勇気を見い出す男女から生まれます… それは人々が一歩退き、あらゆる形態の暴力を放棄し、復讐や支配への誘惑に屈せず、状況が不可能と思える時でさえ対話を選ぶ時に生まれます」と続けた。

*「福音的回心とは、第一に神の働きかけ、恵への応答」

 

 パゾリーニ神父はこれを「厳しい日々の課題」と呼び、「それは自らを神の子と自覚し、この心の回心が自らの責務だと知る者すべてに関わる課題なのです」と述べた。

 そして、聖フランシスコの生涯に関連した考察に移り、「福音の炎に貫かれた人物であり、私たち一人ひとりの内に聖霊による新たな命への渇望を再び燃え上がらせる力を持つ者」と評したうえで、「フランシスコの『回心』とは具体的に何を意味するのでしょう?この問いは、出発点を誤れば、脆い土台の上に築く危険があるがゆえに、私たち自身が問わねばならない」と指摘。

 「福音的回心とは、まず第一に神の働きかけであり、人間は完全な自由の中でそれに参与するよう招かれています。それは、私たちの人間性の最も深い所で起きる。そこには神の姿が刻印されており、再び目覚めるのを待っているのです」と強調した。

 続けて、「聖フランシスコは回心の道に入る際、『悔い改めを行う』と語っています。それは『感性の転換』を指し、『福音の光を通して他者を憐れみをもって見る方法』であり、『多くの物に満たされながらも本質的な価値を欠いた人生の苦味を一掃するもの』です」とし、「『悔い改めを行う』ことは、『物事の新たな味わい』を守る戦いの始まりを意味し、同時に神が各人の心に置かれた種を忠実に育むこと。回心とはもはや、『自らの力で人生を正そうとする試み』ではなく、『私たちの知覚・判断・欲望の在り方の枠組みを再定義した恵みへの応答』なのです」と説いた。

 

*「あらゆる罪が”単なる症状”に過ぎなくなれば、人間の自由の偉大さと責任を失う危険」

 神父は、「回心は、罪が私たちに刻んだ溝の深さと結びついています。だが、『罪』という言葉は今日、消え去ったかのように思われます」とし、「集団意識において、時には教会の生活においても、あらゆることは脆弱性、傷、限界、条件付けとして説明され、罪に言及される場合でも、しばしば小さな過ちや弱さに矮小化されるようになっている。あらゆる罪が”単なる症状”に過ぎなくなれば、私たちは本質的なもの―人間の自由の偉大さとその責任-を失う危険があります」と警告。

 さらに、「真の悪の可能性が失われれば、真の善の可能性も信じられなくなる。罪が消え去れば、聖性もまた抽象的で理解不能な運命となるのです… 罪において、人間は『自らの自由が現実のものであり、それによって他者を、世界を築き上げたり破壊したりできる』と認識してしまう」と述べ、「神との関係を取り戻すには、『深い癒し』、『愛と自由の中で生きること』を繰り返し選び、たとえ困難に直面しても、それは無益ではなく『すでに自らの生きる意味と価値を垣間見た者たちの忠実さの表れ』として耐え忍ぶことが必要です」と説いた。

*「『謙遜』は、人間を自分自身へ引き戻し、真の偉大さを回復させる」

 また、「聖フランシスコは『貧しさの聖人』として知られますが、彼を『謙遜』から切り離すことも不可能です。両者は受肉の神秘に根ざしているからです。これらは人間が神に似るために生きるよう招かれている、神そのものの特性なのですから」とし、「『謙遜』とは、キリストにおける命の恵みを完全に受け入れるために、洗礼を受けた者すべてが歩むべき道。それは、世界と人間関係を生きる方法であり、膨れ上がった自己像を縮小し、真実へと回帰させます。フランシスコは、これを『修練の行い以前に、聖霊の賜物だ』と語りました」と述べた。

 しかし「『謙遜』は人間を貧しくしません。人間を自分自身へと引き戻します。人間を小さくするのではなく、真の偉大さを回復させるのです。『謙遜』は『回心』と深く結びついている。原罪はまさに『謙遜の拒絶』から生まれる。有限で神に依存する人間としての自己を受け入れようとしないことから、生まれるのです。ですから、回心もまた、謙遜への回帰として理解されねばなりません」と指摘した。

  また神父は、「人間の偉大さは、その小ささを通して現れます… アッシジの聖人は、最も小さな者たちを抱擁することで、主が選ばれた『特権的な場所』であることを理解しました。福音書に語られる『力』が彼らに現れる。それは神の子となる力である、と」と語り、「父に物事を求めることを恥じない子供は、特別な力、すなわち他者に善を促す能力を経験する。小さな者たちは、その脆さによって慈悲を呼び覚ます。それはおそらく、世界で最も貴重なエネルギー、他者への寛容を必要とする徹底的な開放性です。小さくなることは、キリスト者であるための本質的な側面です」と説明。

 さらに「神の小ささを認識し、『神に受け入れられ、愛されている』と感じたからこそ、小さくなることを選ぶ(小ささのままでいるのではない)とき、この選択は、退行や放棄の形ではなく、洗礼が私たちに回復する新しい人間の姿なのです」と強調した。

*「回心は決して終わらない、私たちは罪人であり続ける」

 

 最後に必要なこととして神父は、『回心は決して終わらないこと』を認識することです。私たちは罪人であり続け、常に聖霊による聖化を求めます。回心とは、心の動きを絶えず新たに始めること。それによって私たちの貧しさが神の恵みに開かれるのです。自己像を縮小することに抵抗を感じつつも、継続的な内面的作業を通じて、自由かつ具体的に奉仕する姿勢を保つことによって」と語った。

 そして、聖パウロに注目し、「彼は、弱さは克服すべきものではなく、『キリストにおける自らの命の形そのもの』であり、『洗礼の命の形』であることを理解していました。しかし私たちは往々にして、福音的な小ささは、全てが順調な時にのみ可能だと考えてしまいます。実際は逆です。紛争や困難の中にこそ、この小ささは一層必要とされる。自己防衛や自己主張が本能として働く時こそ、十字架の福音を真に学んだかどうかが試される。光は、全てが明瞭な時ではなく、闇が支配する時にこそ、その力を示すのです」と強調した。

 この日の黙想は聖フランシスコの祈りと「御子イエス・キリストの足跡に従う」という招きをもって締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2026年3月7日