(2025.11.25 Vatican News Isabella Piro)
バチカン教理省が25日、教義覚書『Una caro In Praise of Monogamy(一つの肉- 一夫一婦制を讃えて)』を発表した。結婚のもつ「排他的な結合と相互帰属」としての価値を強調。「夫婦間の慈愛と貧しい人々への配慮の重要性」を重視し、「身体的、心理的、あらゆる形態の暴力」を非難。「個人主義と消費主義の時代において、若者は、愛を責任と相手への信頼として理解するよう教育されねばならない」としている。
教義覚書は結婚を「an indissoluble unity(解くことのできない結合)」と定義し、「exclusive union and mutual belonging(排他的な結合と相互帰属)」と呼んでいる。そして、「完全、かつ完全に互いを捧げ合えるのは二人だけだ。そうでなければ、その捧げ物は不完全なものとなり、相手の尊厳を尊重しないことになる」としている。
*文書作成の背景
覚書の本文は三つの主要な懸念から構成されている。第一に、ヴィクトル・マヌエル・フェルナンデス教理省長官が序文で指摘するように、現在の「技術的権力の拡大という世界的状況」だ。これは人間を「限界なき存在」と見なさせ、結果として一人の人間にのみ捧げられる排他的愛の価値から遠ざける。
また、一夫多妻制に関するアフリカ司教団との議論にも言及し、「アフリカ文化の深い研究」が、「一夫一婦制が現地では例外だ」という通説を否定している、と指摘。西洋における「ポリアモリー」、つまり公然とした非一夫一婦制の結合形態の台頭にも触れている。
*夫婦の結合とキリストと教会の結合
こうした文脈において、覚書は「恵みの助けによって」キリストと愛する花嫁である教会との結合を映し出す「夫婦の結束」の美しさを強調。主に司教レベルの聖職者に向けた覚書は、同時に、若者や婚約者、夫婦に対して、キリスト教的結婚の「豊かさ」を理解し、この主題について「静かな省察と持続的な深化」を促すことも目的としている。
*自由な同意に基づく帰属
七つの章と結論で構成される覚書本文は、一夫一婦制が「制限を設けるものではなく、永遠へと開かれた愛の可能性」であることを繰り返し述べている。二つの決定的な要素として、「相互帰属」と「婚姻」」を挙げ、「相互帰属」は、配偶者の「自由な同意に基づく」ものであり、三位一体の交わりを反映し、「結合の安定性に対する強力な動機」となる。これは「神のみが見る心の帰属」であり、神の自由とアイデンティティを乱すことなく、神のみが入り得る領域だ、としている。
*相手の自由を侵害しないこと
このように理解される「排他的な相互愛に固有の相互帰属」は、「繊細な配慮と、同じ尊厳、したがって同じ権利を持つ相手の自由を侵害することへの聖なる畏れ」を必要とするとし、「愛する者は、相手を自らの欲求不満を解消する手段として利用してはならない」こと、そして自らの内面の空虚を「相手に対する権力行使によって満たしてはならない」ことを知っている、としている。
また、覚書は「露骨あるいは微妙な暴力、抑圧、心理的圧力、支配、そして最終的には窒息へと至る不健全な欲望の数々」を嘆き、「これらは、他者の尊厳に対する敬意と畏敬の念の欠如からくるもの」と指摘。
*結婚は所有ではない
対照的に健全な「私たち二人」とは、「決して侵害されない二つの自由が互いに選択し合い、決して越えてはならない境界線を常に保つ相互関係」を意味する。これは「個人が関係の中で自己を失わず、愛する者と融合しない」時に実現する。健全な愛の本質は「相手を吸収しようとしない」ことを尊重するからだ、という。
さらに覚書は、夫婦が互いの内省の時や孤独・自律を求める要求を「理解し受け入れる」必要性を付記する。結局のところ「結婚は所有ではない」し、「完全な平穏の要求」でもなければ、孤独からの完全な解放でもない(人間の内なる空虚を埋められるのは神のみだからだ)。むしろそれは信頼であり、新たな挑戦に立ち向かう能力である。同時に、配偶者同士は互いを遠ざけてはならないと促される。「距離が頻繁になりすぎると、『私たち二人』が消え失せる危険がある」からだ、としている。
*祈り:愛を育む貴重な手段
相互の帰属は、配偶者が互いの人格的成長を支え合う姿勢にも表れる。ここで祈りは、夫婦が聖化され愛を深めるための「貴重な手段」となる。こうして、祈りの中で求められ、秘跡の生活によって養われる「結束の力」であり「神の賜物」である夫婦の愛は、結婚において互いに近く寄り添う二つの心、互いを愛し合い、互いの中に「居場所」を見出す「隣人」同士の「最高の友情」となる、という。
*性と実り
愛の変容する力によって、性は「肉体と魂において」理解される。単なる衝動や発散ではなく、「神の驚くべき賜物」として、各人が自己を捧げ、相手の人格の豊かさの中で善へと向かうように導くものである。夫婦の愛は実りをも通じて表現されるが、「これは全ての性行為が明示的に生殖を目的とすべきだという意味ではない」。子供がいない場合でも、結婚は本質的な性格を保つ。この覚書はまた、自然な不妊期間を尊重することの正当性も確認している。
:ソーシャルメディアと新たな教育アプローチの必要性
性と結婚の結合的意味を否定する「ポストモダンな消費主義的個人主義」の中で、忠実な愛はどう守られるのか?文書は、その答えは教育にある、忠実な愛をどう守れるか?文書は教育に答えがある、と述べている。
「慎みが消え、象徴的・性的暴力が蔓延するソーシャルメディアの世界は、新たな教育法の緊急性を示している」。新世代は愛を単なる衝動ではなく、責任への呼びかけであり「人間全体を巻き込む希望の能力」として、深い人間の神秘として受け入れる準備をしなければならない、とも述べている。
*貧しい者への配慮:自己閉塞への「解毒剤」
夫婦の結合における慈愛は、自己の個人主義に閉じこもらず、「共同体と世界のために美しいことを成す」という共有のプロジェクトに取り組むカップルにも見られる。なぜなら「人は他者や神との関係に入ることで自己実現する」からだ、とし、さもなければ、愛は自己中心性、自己参照、自己閉鎖へと堕する。この態度は、例えば夫婦が共に公益のために働く中で「社会的感覚」を育むことで対抗し得る。その核心は貧しい人々への配慮であり、教皇レオ14世が言うように、彼らはキリスト教徒にとって単なる「社会問題」ではなく「家族の問題」なのだ、と指摘している。
*無限の約束としての夫婦愛
覚書は結論として、「あらゆる真正な結婚は、他者と共有できないほど親密かつ包括的な関係を必要とする、二つの個人から成る一体性」ということを再確認。「したがって、婚姻の絆が持つ二つの本質的特性—一体性と不可解性—のうち、不可解性を支えるのは一体性だ。それによって初めて、夫婦の愛は『無限の約束』に根ざし、時を経て絶えず成長し発展するよう召された、動的な現実となり得る」と結んでいる。
*創世記から教皇の教えまで
覚書は、一夫一婦制のテーマについて広範に概観している。創世記から始まり、教父たちや主要な教会の公式文書を経て、ついに二十世紀の哲学者や詩人たちに至る。それは「私たち二人」という言葉に込められた帰属意識を深める。聖アウグスチヌスが言ったように、「愛する心を与えよ。そうすれば私の言うことを理解するだろう」と。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)