教皇、「カトリック原理主義者」をやんわり批判-ドイツ週刊紙との会見で(Crux)

「私はバーク枢機卿を敵とは見ていない」

(2017.3.8 Cruxバチカン特派員 Inés San Martín)教皇フランシスコが使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」で示した離婚・再婚者に対する聖体拝領への対応をきっかけに米国のレイモンド・バーク枢機卿をリーダーとする保守派との確執が伝えられているが、教皇は8日付けの独週刊紙Die Zeit のインタビューで、この質問に答え、「私はバーク枢機卿を〝敵″と見ていません」と言明した。その一方で、「彼らの自信がイエスを否認する直前の聖ペトロを思い起こさせます」という表現で〝カトリック原理主義者″をやんわりと批判した。

 教皇はまた、バーク枢機卿について、幼児性的虐待で訴えられたグアムの大司教の教会法上の裁判を指揮するため現地に派遣したことを〝追放″を意味するものとする見方を否定し、「彼の派遣は、現地で起きている酷い出来事のためです。彼にはとても感謝している。優れた法律家です。現地での仕事は間もなく終わります」と述べた。

 また最近、欧米の新聞をにぎわした(「かとりっく・あい」注・慈善活動の一環としてミャンマーでコンドームを配布した問題をめぐる)マルタ騎士団事務総長の解任、再任事件と同組織の指導司祭であるバーク枢機卿の役割については、米国人高位聖職者(バーク枢機卿を指す)が関与できなかった問題がある、としつつ、「彼はマルタ騎士団の支援者であり続ける」との見方を示した。

 ただし、教皇が〝原理主義者のカトリック教徒″としている、同枢機卿がしばしば関わっていたグループについてはやんわりと非難し、「信仰の危機の中で信者が互いにどのように助け合うことができでしょうか」と問われた教皇は「危機は人生と信仰が育つために欠かせません」とし、新約聖書から、パウロが、絶対に否認しないと誓った後で、キリストを三度、否認した箇所を取り上げた。そして、「イエスがペトロが必ずそうすると思われた場面は、たくさんの原理主義者のカトリック信徒のことを私に考えさせます」。なぜなら、ペトロは「イエスを否認し、大きな危機を招き、そして教皇にされたのです!」と述べた。

女性助祭の可能性-「時間」が教えてくれる

 インタビューはこのほかにも多岐に及び、その一つに、教皇が最近設置した、教会における女性助祭の歴史的役割について研究する委員会については、(早期に実現するという期待に水を差すような姿勢が教皇にある、という見方もあるが、との問いに)「女性たちが過去に教会で何をしていたか、聖職者として叙階されていたのか否かをはっきりさせる委員会を、なぜ作らなかったのか、と質問されたことがあります。

 私は『作らなかったのが、どうしていけないのですか』と聞き返しました。」。「委員会はこの問題を探求するもので、扉を開くものではない・・委員会が何を見つけるか、時間が教えてくれるでしょう。委員会は3月中に三回目の会議を開く予定で、そこで私はどこに立脚点を置くか聞いてみようと思います」と説明した。

 今年の外国訪問の予定については、エジプト訪問ができないか作業中であることを明らかにする一方、可能性が言われていた南スーダンとコンゴ共和国、コンゴ民主共和国への訪問は年内実現の可能性がほぼなくなった。ロシア訪問も「訪問する場合はウクライナも対象とする必要」があることなどから不可能、とした。インドとバングラデシュの訪問は準備中だが、具体的な日程は未定。ポルトガルのファティマ巡礼は5月中旬に実現する見通しだ。

 バチカン内部などから受ける教皇批判が個人的に彼を傷つけているか、との問いには答えなかったが、「教皇に選ばれた時以来、一度も心の平静を失ったことはありません」と語り、「私の行動様式を好かない人がいるであろうことは理解します。批判の根拠もわかります。たくさんの考え方がありますが、許されています。人間的であり、豊かささえあると言えるのです」と述べた。

聖トマス・モアのユーモアのセンスに学ぶ

 そして最近、ローマ市内の至ることろに教皇批判のポスターが貼られたり、バチカンの機関紙の偽物が出たりしていることに対しては、後者には〝豊かさ″が全く感じられないが、ポスターはそうではない、とし、「ポスターにある Romanesco(イタリアの方言)は素晴らしい。文化を大事にする人が書いたのでしょう」。記者の「バチカンの人ですか」との問いに、教皇は「違います。文化を大事にする人ですよ」と笑いながら答えた。

 教皇は、関連して、自分は聖トマス・モアのユーモアのセンスを願う祈りを毎日唱えていることを明らかにし、「主は心の平安を私から取り去らず、たっぷりのユーモアのセンスをくださるのです」と説明した。

 教皇はまた自分自身について聞かれ、就任当初のインタビューで語ったように、自分は罪びとであること、イエスにいらだつ時があることを自覚しており、なぜあることが起こるのか、自身が作ることも含めて理解できないこともある、「それは私自身の罪によるものです。私は罪びと、いら立ち・・それが慣れっこになっています」と答えた。

 さらに、自分が「例外的な人間」とは思っておらず、自分自身に対する期待が誇張されすぎているのは正しくない、としたうえで、「私はつまらない男ではありませんが、できることをする、普通の人間です。誰かが私に『そうではない。あなたは・・』などと言うことは、決して私にとっていいことではありません」と強調した。(翻訳・南條俊二)

 

 

委員会は3月中に三回目の会議を開く予定で、そこで私はどこに立脚点を置くか聞いてみようと思います

◇聖トマス・モアのユーモアのセンスに学ぶ

誰かが

このエントリーをはてなブックマークに追加
2017年3月11日