殉教者の栄誉のために教皇は列聖を急ぐ(CRUX)  

 

(2017.4.23 CRUX ジョン・アレンJr)  世界中でキリスト教徒への迫害がますます広がり問題化している中で、教皇といえど、ただ魔法の杖を振って警察国家を作り武装化した暴徒やテロリストを消すことはできない。だが、教皇ならできることがある。それは新しい殉教者たちを迅速に列聖するという教皇だけがもつ権力を用いることだ。そして、教皇フランシスコのインド訪問に際しては、まさにそれを行う機会が浮かび上がっている。

  22日の教皇フランシスコの、教会の現代の新しい殉教者たちを記念するローマ・バルトロメオ教会への訪問は感動的なものだった。そこで、教皇は「今日の殉教者たちから,私たちは、平和と一致という遺産を受け継ぎます。殉教者たちは、横暴や暴力、戦争、に愛の力と温和さをもって対抗し、忍耐によって平和を実現することを私たちに教えてくれているのです」と説かれた。

  今日、キリスト教徒に対する迫害が、世界中でますます激化していることは、疑いの余地がない。それにどう対処するかが難しく、悲しいかな、教皇といえども取れる手段は限られている。多くのキリスト教徒が、北朝鮮や中国に見られるように、独裁的国家の犠牲となっている。また、コンゴ、コロンビアや他の国々で見られるように、正義を守る為に銃火の犠牲となり、また、中東やアフリカのイスラム系テロリストやインドのヒンズー教原理主義、ミャンマーの過激な仏教徒のナショナリストのような宗教的過激主義の犠牲となっている。

  もちろん教皇はそのような状況に対し、土曜日の、殉教者を記念するバルトロメオ教会訪問のような、世論を喚起するための行動をとることができる。また、問題の国々にやり方を変えるよう圧力をかけるためにバチカンの外交的影響力を使うこともできる。このようなことは教皇でなくでも可能だが、教皇にしかできないことが一つだけある。それは、新しい殉教者たちの持つ意味の大きさを強調することである。すなわち、迅速に列聖することだ。

  確かに、教皇フランシスコは列聖を加速している。よく知られているように、聖ヨハネ23世の列聖を含め、レオ13世(1878-1903)以来のどの教皇より、奇跡に代わる同等の列聖を推進している。2013年から2014年にかけても、名高い福音伝道者たちを列聖するために、奇跡要件を特免したケースが5件にのぼっている。 殉教者の場合、列福には奇跡要件はない。その死そのものが、恩寵の奇跡と考えられるからだ。

 列聖にはもう一つ、奇跡が必要だが、教皇フランシスコが示したように、教皇がそれなりの理由で列聖を認めようと望むときには、この要件もそれを邪魔だてするものではない。フランス人のジャック・アメル司祭はその先例だ。彼は昨年の7月26日、ノルマンディーの小教区で朝のミサをたてている最中にイスラム過激派組織「イスラム国」に忠誠を誓う二人の暗殺者に喉を切り裂かれた。その残虐さは世界中に衝撃の波を巻き起こし、明らかに教皇フランシスコを動かしたのだ。彼の死から3か月後の10月、バチカン列聖省は、彼の教区を所管するドミニク・レブルン・ルーアン大司教に、列聖を待つのために通常必要な5年間を教皇が免除した旨を告げた。

  教皇は9月にアメル司祭のためにミサをたてられた時、既にそれを決めておられた。殺害された彼の写真を祝福し、レブルン大司教に、教会の祭壇に写真を飾っておくように言われた。そして、「アメル神父は今や(聖人として)承認されています。もし誰かが、あなたにはそんな権利はない、と言ったら、教皇が許可してくれた、といいなさい」と言われた、とレブルン大司教は回想している。

  神学的にも霊的にも、殉教者の死の価値に変わりはない。しかしながら、シンボルとして見れば、アメル司祭はヨーロッパ人であり、今、圧倒的に多くの殉教者が出ているのは発展途上国・地域だ、ということを考える必要があるだろう。教皇に自然に機会が巡ってくる列聖迅速化のグループには、今日の現実が具体的に表れている。インドのKandhamalの殉教者たちだ。

 Kandhamalは、かつてオリッサとして知られたインド東部のオディーシャ州にあるが、2008年8月、貧しいキリスト教の少数民族が、ヒンズー教暴徒により襲撃された。ヒンズー教過激派による度重なる暴動で、およそ100人が殺され、何千人もが負傷し、いくつもの教会と6000戸の家屋が破壊され、およそ5万人が住まいを追い出され、多くは近隣の森に隠れ、さらに多くの住民が飢えやヘビに襲われて命を落とした。襲ったのは右翼の攻撃的ヒンズー教徒のしるしである黄色い鉢巻きの暴徒たちで、ヒンズーの神に勝利を意味する‘Jai shri ram!’と叫びながら、棒や三又、刀、銃、灯油、酸まで使って襲いかかった。

  信じがたいほどのことが起こった。キリスト教徒たちはたたき切られて惨殺され、戦利記念品のように腸が切り裂かれた。一人のカトリック修道女は集団強姦され裸で村を引き回された。キリスト教徒たちは酸で焼かれ、打たれ、生きたまま埋められた。バーナード・ディガル神父はもう一人の老司祭を助けようしている間に殴られ、死んだものと放置された。彼は何とか生き延びたが、その時かかった熱病がもとで、ムンバイの病院に搬送されたものの、ひと月後に死亡した。

  Kandhamalの殉教者たちは、現代の殉教の典型だ。キリスト教徒であることに加え、貧しく、虐げられた少数民族で、ほとんど教育を受けておらず、忘れ去られた人々である。カトリック教徒も英国国教徒もアングリカンも福音主義者もペンテコステ派も共に死んだ、それは、またエキュメニカルな犠牲なのだ。

  この秋、教皇フランシスコはインドを訪問する。その機会に、Kandhamalの殉教者たちを列聖するという計画を発表し、そのための日程を組むなら、彼らの記憶に最大のスポットライトの光をあてることとなり、キリスト教徒の苦難の全景をさらに広げる光をあてることとなるだろう。教皇はキリスト教徒への迫害を魔法の杖で追い払うことはできないが、また、無力でもない。現代の新しい殉教者たちを聖人に引き上げるという教皇だけが持つ権力を使うことは一つの力強い道具でありKandhamalは教皇フランシスコにとってまたとない貴重なチャンスなのだ。

(翻訳「カトリック・あい」岡山康子)

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2017年5月1日