(2018.12.24 VaticanNews Devin Watkins)
主の降誕を祝う夜半のミサが現地時間24日夜、バチカンの聖ペトロ大聖堂で行われ、教皇フランシスコはミサ中の説教で「飼い葉桶でのイエスの誕生は、私たちに、助けを求めている兄弟姉妹とともに生きるよう、教えておられます」とお話しになった。
*イエスは「命のパン」
まず、教皇は「ベツレヘムで、私たちは、神が命を奪うのではなく、お与えになることに気づかされます」と述べ、イエスのお生まれになった場が、歴史の転換点を示している、とされた。
そして、「ベツレヘム (Bethlehem)は『パンの家』を意味します」としたうえで、(注:その村の馬小屋で)マリアはイエスを飼い葉桶に寝かせた。「それは、あたかも、イエスが『私はここにいます。あなたのパンとして』とおっしゃりたいかのようです」と語られ、「イエスは、まさにご自身を私たちにお与えになり、新たな生き方をするように、私たちをお諭しになるのです-『溜め込んだり、人を悩ますのではなく、分かち合い、与える生き方をするように』と。私たちは、イエス-命のパン-をいただき、愛において生まれ変わり、支配と貪欲の悪循環を打ち破るのです」と強調された。
続いて、「聖書には、人間の原罪は禁断の食物を採って、食べたこと、としています。人類は強欲で、飽くことを知らないもの、となりました」「現在も、わずかな人しか素晴らしい食物を口にしないことが多く、とても沢山の人は、生きるために十分なパンさえもとらずにいます」と指摘し、「飼い葉おけの前に立って、私たちは、命の食物が『物質的な豊かさではなく、愛。暴飲暴食ではなく、慈しみ。けばけばしさでなく、単純素朴』であることを知るのです」と諭された。
*皆と分かち合う
また教皇は、イエスは、私たちが日々の糧を必要としていることを知っておられ、日々、私たちに命であるご自身をお与えくださった、とし、「今日も、この祭壇の上で、イエスは、私たちのために裂かれたパンとなられます。私たちの扉をたたかれ、家の中に入られ、私たちと食事をされます」。
そしてもし、私たちが、自分の心に神をお迎えし、留まっていただくなら、歴史は変わる、とされ、「イエスが私たちの心にお留まりになるならば、人生の核心は『貪欲で利己的な私自身』ではなく、『愛のために生まれ、生きておられる方』になるのです」と説かれた。さらに、「イエスはこのクリスマスで、私たちが食卓の席から立ち上がり、他の人々に奉仕するように、パンを持っていない人に分けるように、招かれています」と話された。
*恐れないで
続けて教皇は、ベツレヘムはまた、「ダビデの町」とも呼ばれているとし、王になる前に、ダビデは、神がご自身の民を世話し、導くように選ばれた羊飼いだった、と指摘。「クリスマスの夜、羊飼いたちは、この世でイエスを歓迎し、天使が現れて、彼らに言いました。『恐れるなと』と。私たちは聖書の中で、この言葉を何回も聞きます。なぜなら、私たちが自分の罪のために恐れていることを、神はご存知だから」。
「ベツレヘムは、その恐れの救済。なぜなら、人が『いいえ』を繰り返すのにもかかわらず、神はいつも『そうだ』と言われるから。彼はいつも、私たちと共にある神となるでしょう」。そして「神は、私たちを怖がらせないために、ご自身を小さな幼子になさいます」と説明された。
*待っか、それとも、求めるか
羊飼いたちは、天使が現れた時、眠っていなかった。夜通し、羊の番をしていた。教皇は「私たちの人生は、待っているか、求めているかによって、特徴づけられていると言ってもいいでしょう」とし、「もしも、私たちが、いろいろ問題を抱えて塞ぎ込むなかで、神を待つなら、私たちは神の命をいただくでしょう」。だが、利己的な欲望のままに人生を過ごすだけなら、「すべて大事なのは自分の強さと能力だ」ということなら、「私たちの心は、神の光が入ってくるのを妨げたままになります」。
羊飼いたちはすぐさま、その場を離れ、羊たちを無防備なままにして、神のためにリスクを引き受けた。イエスと会った後、彼らはその誕生を賛美しながら帰って行った。「羊の番をする、場を離れる、リスクをおかす、素晴らしさを語る-これらすべては愛の行為です」と教皇は言われた。
*私たちの兄弟姉妹を愛しなさい
最後に、教皇は次のように締めくくられた。
「クリスマスを迎えて、私たちは皆、ベツレヘムに上ることを希望します。今日もまた、その道は上り坂です。私たちの利己的な行いの高地を、乗り越える必要があります。足を踏み外し、世俗の欲と消費万能主義に落ち込んではなりません。私たちは主に信頼して身を委ね、「私をあなたの肩に乗せてください、良き牧者よ。あなたに愛されて、私は、私の兄弟姉妹を愛し、彼らの手を取ることができるでしょう」。
(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)