フォード財団の理事長がある時、こう語った。「研究助成をした場合、その成果だけが必要。いかに金銭を使ったか、領収書の添付など、要求したりしない。それに対して日本では、公的な助成を受けた場合、1銭1厘まで領収書の添付が要求される」。
あるアメリカ人学者も、私にこう訴えたことがある。相手は国際交流基金だ。研究助成金交付の公募に応じて、見事成功した。それを受け取る一種儀式めいたことがあり、財団の理事長に挨拶した。そして数年後、研究成果の報告書を提出した。アポイントを取って挨拶に伺った。
「口頭で研究の概要をお話しするつもりだったが、びっくりしたことに、愛想よく迎えてくれたものの、研究成果の報告には全く興味を示さず、だらだらと世間話に終わってしまった」そうだ。随分と無駄な金を使っているのではないか、との印象を受けたという。
教育の話は、もう50余年も昔になる私自身が体験したことである。プリンストンの大学院で勉学中、岳父が危篤、との電報で急きょ家族ともども帰国することになったが、為替の問題もあり旅費を用意することが出来ない。指導教授に相談すると、総務の事務員がやってきて、私の手に1000ドルを握らせた。「借用書を書きましょう」と言うと、「いいのです」との返事。
「だってそうでしょう。わが大学は貴方に来てもらって勉学してもらっているのです。緊急なご帰国をお助けするのは当然のことでしょう」という説明だった。
凄い。日本の文科省官僚に聞かしてやりたい金銭感覚だ、と感じたものだ。(2018・8・31記)
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)