
教皇フランシスコ、6月7日、バチカンでの一般謁見 – ANSA
まず、ルカ福音書の「弟子たちから『祈りを教えてください』と求められたイエスが、祈り方を教える場面」を取り上げられた。イエスは朝晩、静かな場所に退いて一人で祈っていたが、そのイエスの祈りに魅了された弟子たちは「自分たちにも祈りを教えて欲しい」と願った。そこでイエスが教えた祈りは、キリスト教の最高の祈り、「主の祈り」として伝えられることになった。
教皇はイエスの「主の祈り」について、マタイ福音書の祈り(6章9節-13節)に比べ、ルカ福音書の祈り(11章2節-4節)は、「父よ」という呼びかけで始まるなど、若干短くなっている点を指摘したうえで、「キリスト教の祈りのすべての神秘は、まさに神を『父よ』と勇気をもって呼ぶことにあります」と語られた。そして、「私たちは神の超越性を尊び、高く仰ぎ見るような名で神を呼ぶこともできますが、神を『父よ』と呼ぶのは、自分が父親から愛されていることを知る子どもが父に話しかけるような神との信頼に満ちた関係に、私たちを置くことになるのです」と強調。さらに「神の神秘は、私たちを常に惹きつける同時に、私たちを小さな存在に感じさせますが、神を『父』と呼ぶことで、もはや神を前にした恐れや、圧迫感、苦悩はなくなります」と話された。
続いて、ルカ福音書の「放蕩息子のたとえ」(15章11節-32節)を思い起こし、イエスがそこで示す「愛」以外の何ものでもない父親像を取り上げ、その愛にあふれた父は「傲慢な息子を罰せず、財産を分けてあげるだけでなく、遠くに旅立たせることもできる父」であり、その息子があらゆる体験を経て、ようやく家に戻ってきた時にも、人間的基準で裁くことをせず、「まず何よりも『赦し』の必要を感じ、抱擁を通して、彼の不在が自らの愛にとってどれだけ辛いものであったか、を悟らせる父」であったと指摘された。
最後に、「私たちは決して一人ではありません。人が神から離れ、敵対し、無神論者だと公言しても、イエス・キリストの福音は『神は私たち無しではいられない方』という神秘を明らかにしてくれます」「これが『主の祈り』のすべての祈願の中にある『私たちの希望の源泉』です。私たちが助けを必要とする時、イエスは『あきらめて、自分の中に閉じこもりなさい』ではなく、『御父に、信頼をもって願いなさい』とおっしゃいました。御父はいつも私たちを愛のうちに見つめ、決して私たちを見捨てることはありません」と力を込められた。そして、参加者と共に、信頼と希望をもって「主の祈り」を唱えられた。