「主は生きておられる、喜びを告げ知らせよう」ご復活の徹夜ミサで


教皇フランシスコによる復活徹夜祭、バチカン・聖ペトロ聖堂 – AP

(2017.4.16 バチカン放送)教皇フランシスコは聖土曜日の4月15日の夜、バチカンの聖ペトロ大聖堂で「復活の聖なる徹夜祭」のミサを主宰され、その中の説教で次のように話された。

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 「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(マタイ28,1)。
彼女たちの歩く様子が想像できるでしょう。墓場に向かう人たちが持つ歩み、頭が混乱し、疲れきった、すべてがこういう形で終わってしまったことに納得がいかない人の意気消沈した歩みです。彼女たちの青白く涙にぬれた顔が見えるようです。私たちはここで問うのです。「愛が死ぬ、ということが一体ありうるのか」と。

 弟子たちと違い、彼女たちはそこにいました。師の十字架上での最後を見届け、イエスを埋葬するアリマタヤのヨセフに付き添ったように、二人の婦人は逃げずに持ちこたえ、ありのままの人生と向き合い、不当な出来事の苦い味に耐えることができました。そして今、彼女たちは墓の前に立ち、苦しみと、こんな風にすべてが終わってはいけないという、諦めきれない気持ちの板挟みになっていました。

 もし、私たちが想像力を働かせるならば、彼女たちの顔に「多くの非人道的な不正の重みと苦しみに耐える、大勢の母や祖母の顔、子どもや若者の顔」を見いだすことができるでしょう。「街を歩きながら感じる、貧困の苦しみ、搾取され売買される人々の苦しみ」が映し出されているのを見るでしょう。そこに「移民として、祖国、家、家族を持たないゆえに侮蔑を受ける人々の顔」を見、「皺だらけの手を持ち、孤独で見捨てられた人々の眼差し」と出会うでしょう。

 「自分の子どもたちが腐敗の重みに押しつぶされ、権利を取り上げられ、多くの希望が粉々になる」のを見て、「生活の中のエゴイズムが多くの人の希望を十字架に付けて葬り去り、麻痺した不毛な形式主義が物事の変化を許さないこと」を見て、泣く母たちの顔を見るでしょう。そして、二人の婦人の苦しみの中に、「街を歩きながら、尊厳を十字架につけられた人たちの顔」を見るのです。

 この二人の女性の顔の中には、多くの人たちの顔があり、そこにはあなたの顔、私の顔もあるかもしれません。彼女たちのように、私たちもまた、物事がこのように終わっていいはずがないと、歩みを促される気がします。

 そうです、私たちは心に神の忠実さに対する期待と確信を持っています。一方で、私たちの顔は、傷や、不忠実、虚しい試みや、諦めを物語っています。「物事はもっと違う形にすることができるはずだ」と知っていても、私たちの心は、大抵は無意識のうちに、「墓場や欲求不満との共存」に慣れてしまいます。さらには「これが人生というものだ」と自分を納得させるに至り、自分を麻痺させる様々な気晴らしを通して、神が私たちの手に握らせた希望を、ますます消耗させてしまうのです。

 多くの場合、私たちの歩みはこのようなものです。この二人の婦人のように、神に対する願望と悲しい諦めの間を歩いています。死ぬのは師だけではありません。師と一緒に、私たちの希望も死ぬのです。

 「すると、大きな地震が起こった」(マタイ28,2)。突然、二人の婦人は強い揺れを、何かが、誰かが、彼女たちの足元を揺らすのを感じました。主の天使は婦人たちに「恐れることはない」と言い、さらに「あの方はかねて言われていたとおり、復活なさったのだ」 (マタイ28,6)と告げました。

 この知らせは、何世代にもわたって、聖なる夜が私たちに贈ってくれるものです。

 「兄弟たち、恐れることはない。あの方はかねて言われていたとおり、復活なさった私たちに恵み、贈り物、新しい水平線として差し出されました。復活の主の鼓動は、私たちに与えられると同時に、それを変化の力、新しい人類のパン種として、私たちもまた、他人に与えるように、と招いています。

 復活を通して、キリストは墓石をはねのけただけではありません。不毛な悲観主義や、生活とかけ離れた計算だけでできた抽象的世界、自分の安全の確保の飽くなき追求、他人の尊厳までをも犠牲にしかねない果てしない野望など、私たちを閉じ込めるすべての囲いをも、はねのけたいと願っておられるのです。

 ローマ人たちと共謀した大祭司や長老たちが、「すべては計算可能だ。物事の決着をつけるのはいつも自分たちだ」と信じた時、神が介入し、すべての決まりを覆し、新しい可能性を与えます。神は再び新しい時を制定し固めるために、私たちのもとに来られます。その新しい時とは、いつくしみの時です。これは忠実な民のために、神から常に約束されたもの、差し出される驚きです。喜びなさい、あなたの命には復活の芽が隠されています。それは目覚めを待つ命の贈り物です。

 これが、この夜、私たちに「告げるように」と命じられたことです。

 復活の主の鼓動、キリストは生きておられる!これが、マグダラのマリアともう一人のマリアの歩みを変えました。これが、婦人たちを急いで墓から立ち去らせ、弟子たちに告げるために走らせたのです(参考:マタイ28,8)。これが、婦人たちの歩みと眼差しを取り戻させ、彼女らは他の弟子たちに会うために町に戻りました。

 私たちも彼女たちと一緒に墓に入り、一緒に町に帰り、自分たちの歩みと眼差しを取り戻すよう、皆さんに呼びかけたいと思います。彼女たちと一緒にこの知らせを告げに行きましょう。墓がすべての終わり、「死だけが最後の答え」と思われるすべての場所に行きましょう。告げ、分かち合い、真理を明らかにするために行きましょう。

 主は生きておられる!主は生きておられ、希望や夢や尊厳を葬った多くの人たちの顔を再び上げさせたいと望んでおられます。聖霊にこの道を導かれるのを、私たちが拒むなら、私たちはキリスト者とは言えません。

 行きましょう。このいつもと違う夜明けに目を見張り、キリストだけが与えることのできる新しいものに驚きましょう。キリストの優しさと愛に、私たちの歩みを励まされ、キリストの心臓の鼓動に、私たちの弱い鼓動を変えていただきましょう。

 

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2017年4月16日