・愛ある船旅への幻想曲(62)「自分を『人間』と思っていない司教の下で”シノドスの道”を歩めますか?」

   主のご復活の月に入った。  桜も満開で春爛漫の景色は明るく、とても嬉しくなる。  復活されたイエスは、今の世をどのように生きておられるのだろうか

 先日、6年振りに、カトリックとプロテスタントの信仰一致祈願の集いに参加した。案の定というか、カトリック司祭の参加はゼロ。プロテスタントの信者さんがほとんど。カトリックからは会場提供教会の信徒5人だけでした。「こんなことになっているんだ…」と寂しい思いをした。

 説教を担当された牧師が「世界中のキリスト教会が減る一方です」と率直に教会の現状を認めるところから始まった説教は素晴らしく、感銘したが…。

  キリスト教は日本では少数派の宗教と言われている。そうした中で、「カトリック教会は敷居が高い」「昔は、カトリック教会はプロテスタント教会の信者を聖堂に入れてくれなかった」などと言う話を、信仰一致の集まりや巷で聞いたが、私には全く理解できなかった。「カトリック教会は弱い人、貧しい人へ積極的に呼びかけている」「分け隔てなく全ての人を受け入れるのが、カトリック教会」などと、反論したい思いがあった。

 だが、今は良く分かる。カトリック信者以外の人から見たカトリック教会は、教義や倫理規定が難しい云々ではなく、そこにいる人間から受ける印象で判断されているのではないか。そう感じる場面によく遭遇する。

   外の人にそういう印象を与えているのは、当然、内部に問題があるからだろう。いつの頃からか、私たち一般信徒は、司教ともなかなか対話ができなくなっているようだ。これもまた、教会のあるべき姿との大きな矛盾である。そうした中で、フランシスコ教皇が始められた『シノドスの道』をどのように理解すれば良いのだろうか。

 カトリック教会が”伝統”として持ち続けている教皇―司教―司祭という位階制は決して衰えることがないようだ。「カトリック・あい」によれば、教皇レオ14世も3月25日の「第二バチカン公会議を学び直す」の連続講話で、教会の位階制は「教会の誕生に付随する根本的な側面」と言明されている。

    以前、ある司教が、前後の流れもなく「人間になりたい」と言われたことがある。それを聞いた信仰の薄い私は「この司教は、自分を人間と思っていないのだろうか。そもそも、こちらの認識不足なのか。だから、人間とは話さない。話し合いができない。そう思っているなら、はっきり言ってください!」と心の中で叫びたくなった。

   故溝部司教は、「愛し愛される関係の中でこそ、人間として成長できる」と強調されていた。まともな「人間司教」と出会えたことは、私の宝物である。

(西の憂うるパヴァーヌ)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2026年3月29日