2026年3月14日 (土)週刊大司教第248回:四旬節第4主日A
四旬節も後半、第四主日となりました。
米国とイスラエルによるイランへの攻撃以来、すでに混乱していた世界は、さらに暴力の支配による混乱によって翻弄されています。改めて忍耐と対話による信頼醸成を基礎とした平和構築を呼びかけ、神からの賜物である命が暴力的に奪われることのない世界の実現に努めることを、特に政治のリーダーたちに求めたいと思います。
第二次世界大戦後、その悲劇的な体験から多くを学んだはずの人類は、例えば国連憲章などを通じて、国家が武力によって現状変更することを否定してきたはずでした。すでにこの数年の暴力的な混乱と戦争の状況で、国連自体が力を失い、国連憲章は忘れ去られようとしています。国連憲章の第2条4項には次のように明記されています。
「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇または武力の行使を、いかなる国の領土保全または政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」
残念ながら、こう定められた理念は、全く非現実的な定めとなってしまいました。
以下、14日午後6時配信、週刊大司教第248回、四旬節第四主日のメッセージです。
【四旬節第四主日A 2026年3月15日】
ヨハネ福音は、イエスが安息日にシロアムの池で、生まれつき目の見えない人の視力を回復するという奇跡を行い、それに対してファリサイ派の人々が、安息日の掟を破ったとして、イエスの示される神の真理に自ら目を塞いでしまった話を記しています。
この物語から私たちは、「見える」という言葉が、「実際に目で見ること」と「心の目で見ること」の二つの意味があることを知ることができます。そしてイエスが強調しているのは、目で見えることに心を惑わされずに、心の目で真理を見い出すことの重要性です。
福音の終わりに記されている、視力を回復した人とイエスとの会話は象徴的です。視力を回復した人は、実際に目でイエスを見ており、その人がこの奇跡を起こされたことを十分に知っているにもかかわらず、イエスに対して「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と問うています。その心に向かってイエスは語りかけます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。その言葉によって、心の目を開かれたこの人は、「主よ信じます」と信仰を告白します。奇跡を起こされた神の真理に触れることができたゆえの、信仰告白です。
ファリサイ派の人たちは、自らの前に枠を設けているかのように、「見たいものしか見ない」態度を象徴しています。福音は、ファリサイ派の人たちと視力を回復した人とのやりとりを記しています。不可思議な病気の治癒が起こったからこそ、この人を呼び出したにもかかわらず、ファリサイ派の人たちは、自分たちの枠組みでしか、この世界を見ることができません。枠からはみ出すものは、存在しないも同様です。ですからその枠に収まらない奇跡的な出来事を目前にして理解することができず、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と、逆ギレして見せます。自分の価値観に基づいた枠を設けている限り、私たちは、心の目を通して神の真理に到達することはできません。
私たちは、目の前で展開する現実に対して謙遜でありたいと思います。現実は私たちの思い通りにはなりません。何でも自分でコントロールできるわけでもありません。謙遜に、目前に展開する現実と対峙し、そこに響いている真理の声に耳を傾けたいと思います。心の目で見るためには、謙遜にまっすぐに耳を傾けることが必要です。
教皇様は今年の四旬節メッセージで、回心における「耳を傾ける」ことの重要性に触れて次のように記しておられます。
「燃える柴からご自分をモーセに現された神ご自身が、耳を傾けることがご自身の存在の特徴であることをお示しになっています… このように耳を傾ける内的な態度をもつとは、今日、神から、神と同じように耳を傾けることを学ばせていただくことです。そこから私たちは、『貧しい人々の状況が上げる叫び声が、人類の歴史を通じて、私たちの生活、社会、政治・経済体制、とりわけ教会にたえず問いかける』ことを認識します」。
心の目で真理を見出すことができるように、耳を傾け謙遜に学ぶ姿勢でありたい、と思います。
(編集「カトリック・あい」)
