春、日本では新しい一年の始まりだ。カトリック教会も人事異動が発表され、各小教区の反応もそれぞれだろう。心静かに復活祭が迎えられるように神に祈りたい私である。
2007年に故森一弘司教が発行された本『世界と日本と民主主義のありようを考える』の“新しい流れを前にして”の冒頭で「わたしたちも時の流れに敏感でなければならないでしょう。その流れの何が問題になるのか、冷静に見極めていくことは、大事なことのように、わたしには思えます。」とある。
「憲法改正の問題、靖国神社参拝問題など、政府および自民党を中心にして進められていく政治の動きを見ていきますと、そこに、新たな国家主義、民族主義を高揚させようとする意図の働いていることが明らかに見てとれます。またそれに呼応するかのように、その方向に世論をあおり立てようとする一部マスコミ、メディアの動きも顕わになってきています… 憲法改正が政治日程に上げられるようになった今、わたしたち日本の教会は、新たな動きを展開しようとする日本社会に、どう向き合い、どうかかわったらよいのか、第二バチカン公会議を生きる教会としての真価が問われる時を迎えているのではないかと思います」(抜粋)。
約20年前に森司教が危惧し語っておられた状態が今まさしく日本社会にあてはまり、日本の教会の生き方が問われているのではないか、と私は思っている。
私は、第二バチカン公会議後のカトリック教会のミサしか知らないが、今もトリエント・ミサに与りたい60代の男女信徒をも存じている。カトリック信者にとってミサはイエス・キリストの死と復活を記念する重要な祭儀であり、聖体拝領はキリストと一つになる場面だ。各信者の聖体拝領への思いは計り知れなく、他人が介入できない問題である。
ミサの中心は何なのか、カトリック教会の中心は何なのか。どれだけのカトリック信者がキリスト教を正しく理解しているのだろう。
キリスト教の歴史を知らずしてカトリック宗教を語ることはできず、社会との共存もできない、と私は思っている。そして、トリエント公会議後と第二バチカン公会議後の教会の姿はどのような違いがあるのか。それを正さねば、「現代世界憲章」が作成された意図そして重要ポイントを読み解くことはできないだろう。各憲章は社会で生きる信徒として知る権利がある。そのためには、教会に真摯に向き合い、社会の流れに沿った意見を熱く語る指導者が今も必要である。
以下は、森司教の『結び』からの抜粋。
「じっくり考えれば、権利の背後には、その根拠となる人間の尊厳、人間の深い神秘性とかけがえのない価値があるはずです。こうした価値に関して、キリスト教には、豊かな光があります。直面している問題がどこにあるのかを明確に識別し、それにこたえていく光を提供し、人びとの良心に訴えていく役割が、教会の役割ではないかと考えるものです」。
(西の憂うるパヴァーヌ)