
(2026.2.8 Vatican News Kielce Gussie)
教皇レオ14世は年間第五主日の8日、正午の祈りに先立つ説教で、前の主日で読まれた「八つの幸せ」に続くイエスの言葉について考察。
「イエスとの出会いが、私たちの日常生活に真の喜び、味わい、光をもたらす」とされ、「たとえ落ち込んでいる時でさえ、父なる神は、私たちの名前と唯一無二の存在を大切にされているのです」と強調された。
説教で教皇は、「真の喜びが、人生の暗い部分に味わいと光を与えます… この喜びは、望み、選び取らねばならない生き方、すなわち地に住み、共に生きる方法から湧き出るものです」と指摘。
そして、「この新たな生き方は、イエスとその言葉と行いの中に輝いています… 謙虚で、柔和で、心清く、正義を渇望するイエスに出会った人は、味気なく退屈な生活には戻れません。この出会いによって、変革と和解の力としての慈悲と平和が解き放たれるのです」と説かれた。
続けて教皇は、預言者イザヤの書の朗読箇所を引用する形で、不正を克服する具体的な方法を列挙され、「飢えた人とパンを分かち合い、貧しい者と宿のない人をわが家に迎え入れ、裸の人に衣を着せ、隣人やわが家の人を見捨てないことです… これらの行いを成し遂げた時、預言者はこう告げます。『そうすれば、あなたの光は夜明けのように輝き、あなたの癒しは速やかに現れる』(58章8節)と」。
そのうえで、この言葉の二面的な深みを指摘され、「一方では、太陽のように闇を追い払う隠すことのできない光があり、他方では、かつて燃えさかっていた傷が癒やされつつあるのです」と述べられた。
さらに教皇は、「味わいを失い、喜びを放棄することは、痛ましいことですが、心にこのような傷を負うことはあり得ます」とされる一方、「福音書の箇所では、イエスは聴衆に対し、諦めないよう警告されているように見えます。『味わいを失った塩は、もはや何の役にも立たず、捨てられて人の足で踏みにじられる』と語られます。そして、多くの人々、おそらく私たち自身も、『自分には価値がない』、あるいは『壊れている』と感じているでしょう。まるで自らの光が隠されてしまったかのようです」と語られた。
「しかし」と教皇は続けられた。「イエスは希望の宣言をなさいます。神は決して私たちを捨てたりはなさらない。神は、私たちの名前をご存じで、一人ひとりの独自性を大切にされているのです。どんなに深い傷を負っていても、主の祝福の言葉を受け入れ、福音の道へと立ち返ることで癒されるのです」と強調された。
そして、「他者への開かれた姿勢と配慮という具体的な行動が、人生における喜びを再び燃え上がらせる助けとなります。しかし、そうした行為の単純さゆえに、私たちは世の中と対立する立場に立たされることもあるでしょう」とされたうえで、「イエスは、荒野で誘惑に遭われ、異なる道を選び、ご自身の正体を明かすよう迫られましたが、『真の味を失う道』を拒まれた。その真の味とは、毎週日曜日に裂かれるパンの中に私たちが発見するものであり、それは捧げられた命であり、静かな愛なのです」と説かれた。
最後に、教皇は「イエスとの交わりによって養われ、照らされるように」と信者たちに勧められ、「そうすれば、私たちは、丘の上に築かれた町のように、単に目に見えるだけでなく、他者を招き入れ、歓迎する存在となるでしょう。その町は『神の都』であり、誰もが心の奥底で、そこに住み、平安を見出したい、と願う場所なのです」と語られた。
そして、聖ペトロ広場に集うすべての人々に、天の門であるマリアに祈りを託し、「御子の弟子となり、そのままでいられるよう助けていただくことを強く願われた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)