・「愛ある船旅への幻想曲」(60)「頭で考えるだけの宗教」では、社会との共存は難しい

 今、日本は受験シーズンを迎え次のステージへの挑戦にあたふたしている子供たちもいることだろう。勿論、その子供たちの家族も落ち着かない。試練と忍耐の厳冬である。そんな中、衆議院解散だ。
 日本に初めて女性総理大臣が誕生した時、喜んだ国民が大勢いる、との報道だが、現状は賛否両論。日本の未来が心配である。いまだに“女性の役割”を問い続けているカトリック教会は、だいぶ現代社会から遅れをとっているようだが、唯一、社会情勢と”共存”できるのは、急速な少子高齢化と信徒減少(人口減少)についてであろう。
 前回のコラムで某トップ聖職者たちとの出会いに安堵した、と明記したのだが、後日談を述べねばならない。
 聖職者には、社会で生きる人と人とのルール、時間をかけて丁寧に話し合い、築き上げた信頼関係の大切さが、理解できないようだ。カトリック教会での地位は日本社会では簡単に通用しないこと、現場を知らない交渉のやり方は無謀さしか残らないことを思い知る出来事があった。一般社会に人間への尊重を教えねばならないトップ聖職者が人間を無下に扱うようでは、イエスも神も、そこには、おいでにないだろう
 今回の選挙で、ある党首は『人間の尊厳』の政治理念を核としていた。教皇フランシスコも『人間の尊厳』を尊重することを私たちに望まれた。バチカンの教理省宣言として、『無限の尊厳 ― 人間の尊厳』文書も出たはずだ。カトリック信者として『人間の尊厳』は一番大切であり、デリケートな問題と、私は思っている。
 しかし、「『カトリック教会は、社会とかけ離れた立ち位置の存在』と互いが見なしている限り、人間をも知らず、『人間の尊厳』の意味さえも「自分中心の狭い世界だけの主張」と受け取られかねないだろう。カトリック教会の高位聖職者たちが、相手の人間に対して「尊重と愛」を持たない扱い方を社会の現場で示すようでは、今ある教会への誤解は解けないのではないだろうか。
 カトリック教会の組織、人間関係、位階制度は独特である。それに、胡座をかいているような信者たちの集う宗教に未来はあるのだろうか。教皇フランシスコの回勅『兄弟のみなさん』は、人間の尊厳を擁護し、推進する”大憲章”と言われている。
 だが、人間として社会で必死に生き、経験を積まねば、キリスト教の核である“愛”を理解することはできない。よって『人間の尊厳』をも理解できない。「頭で考えるだけの宗教」では、社会との共存は難しいと、はっきり結論付けられた私の厳冬である。
 教皇フランシスコの確信の言葉-「私は、世界中のすべての人に、私たちのものであるこうした尊厳を忘れないように、と訴えます。この尊厳を私たちから奪い取る権利は、誰にも無いのです」(教理省宣言『無限の尊厳 ―  人間の尊厳について』)
(西の憂うるパヴァーヌ)
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2026年2月1日