「サン・ダミアーノの十字架」に描かれた百人隊長の話から、なかなか先に行けないのですが、この機会に、もう少しだけ、考察したことを分かち合いたいと思います。
マタイとルカ福音書の、イエスに子(僕)の癒しを願う百人隊長の言葉は、世界中のミサ典礼において、司祭が掲げるご聖体を前にして、司祭と会衆が共に聖体拝領の招きに答えるという、重要な場面で使われる言葉でもあります。そういう観点から、百人隊長のエピソードを見直してみます。
両福音書とも、百人隊長は、二つの場面に登場します。イエスに子(僕)の癒しを願う場面と、イエスの十字架のそばに立ってイエスへの信仰を告白する場面です。後者の場面は、マルコ福音書も記載しています。これらの場面に登場する百人隊長が同一人物かどうかは別にしても、百人隊長の言葉には、信仰における2つのステージを見ることができます。
イエスに子(僕)の癒しを願う場面では、「私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとに来ることはできない」(ヨハネ福音書6章44節)とイエスが言われた通り、百人隊長は、御父の引き寄せる力によって、イエスのもとへ来ることができました。そして、その信仰によって、イエスに病気の子(僕)を癒していただいたのです。これは信仰における第1のステージです。
一方、イエスが十字架にかけられた場面のマルコ福音書には、「イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、『まことに、この人は神の子だった』と言った」(マルコ福音書15章39節)と書かれています。ここでの百人隊長は、「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」(ヨハネ福音書12章32節)というイエスの言葉を実証していると考えられます。これが信仰における第2のステージです。
信仰におけるこれら2つのステージを実際に体験することのない未来の私たちには、最期の食卓で、イエスが御言葉と業によって制定していってくださった、ご聖体がおられます。「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ福音書6章40節)と言われたイエスの言葉の、「子を見て信じる者」とは、ご聖体が、「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(6章35節)と言われたイエス・キリストご自身であることを信じる者です。
「カトリック教会のカテキズム」(1997年規範版)には、「この秘跡の偉大さを前にして、信者はただ百人隊長の次の言葉を謙虚にまた熱烈な信仰をもって繰り返す以外にはありません。『主よ、私はあなたをお迎えできるような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、私の魂は癒されます』」(1386項)と書かれています。
しかし、この百人隊長の言葉は、御父に引き寄せられてイエスの傍に来た第1のステージのものであって、「私は地から上げられる時、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」とされたイエスの言葉によって引き寄せられ、イエスの傍に来た私たちキリスト者とは、ステージが異なっている、と言えます。私たち聖霊降臨後の信者は、地上から上げられたイエス、すなわち十字架上のイエスに引き寄せられるのです。
「カトリック教会のカテキズム」は、これに続いて、聖ヨハネ・クリゾストモの聖典礼での祈りの言葉を紹介しています。それは、イエスと共に十字架にかけられた盗賊の、「主よ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください」という叫びを含んでいます。この叫びは、いわば、十字架上のイエスに引き寄せられた最初の人の叫びだということができます。聖ヨハネ・クリゾストモの聖典礼は、確かに十字架上のイエスに向かう応答を含んでいますが、この場面は、聖霊が降臨した後の使徒言行録の記述にある百人隊長の場面に行き着くことはないのです。
そこには、「敬虔な人で、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」(使徒言行録10章2節)という百人隊長の姿が描かれています。そして、この百人隊長と使徒ペトロとの関りから(10章1~48節参照)、教会が異邦人の宣教に向かうきっかけが生まれました。
百人隊長のエピソードが伝える信仰の軌跡には、私たち信者が目指す教会の発展が映し出されているのです。同じカテキズムに、「ミサは十字架上のいけにえが永続する記念であると同時に、主の体と血に与る聖なる会食でもあります。感謝のいけにえの祭儀は、聖体拝領(コムニオ)によるキリストと信者たちとの親密な一致に向けられたものです。聖体拝領とは、私たちのために命を捧げられたキリストご自身をいただくことです」(1382項)と書かれています。
そのように、私たち信者は、ご聖体という、「この秘跡の偉大さを前にして」する応答に、「本当に、この人は神の子だった」という百人隊長の第2のステージの言葉を応用すべきではないでしょうか。
「ローマ・ミサ典礼書」による司祭の聖体拝領への招きの言葉は、「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」です。「世の罪を取り除く神の小羊」は、洗礼者ヨハネが自分の方へ来るイエスを見て言った言葉です(ヨハネ福音書1章29節参照)。ゆえに「神の小羊の食卓」は、イエスの最期の食卓を指しています。「サン・ダミアーノの十字架」に明確に描かれているのは、実はここに招かれた人の「幸い」なのではないかと思うのです。
(横浜教区信徒 Maria K. M)