・愛ある船旅への幻想曲(56) 率直に意見を述べた信徒を”追放”するような教会が、”シノドスの道”を歩めるだろうか

 日本開催の世界陸上競技選手権大会も終わった。100m走、ハードル、走り高跳びそしてリレー選手として高校まで(ピアノの先生に叱られながら)続けた私である。

 今、中学生の孫が私と全く同じ競技を練習し、沖縄で開かれた第52回全日本中学校 陸上競技選手権大会で110mハードルに出場した。高校生活ではラグビーと陸上の両立は無理だろう。団体競技と個人競技、さてどちらを選ぶのか。1年半前から始めた陸上を真剣に極めたという孫であるが。何事にも真面目に取り組み、前を向いて歩む事が学生には必要だ。中3の孫もコーチとの関係、男女問わずチームメイトとしての友情も育み成長できたことに感謝である。仲間を励まし、互いの努力を認めあうことで信頼関係も生まれ、人間として生きて行く上で、「経験に勝るものなし」である。

 男3人の孫たちは、未信者ではあるがカトリック幼稚園でお世話になった。帰省時は、今も食前の祈りを共にする。私としてはそれで良しである。

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 亡くなった司教が、これからの司祭像を私に尋ねた。私の答えを聞いた司教の反応に、私は笑ってしまった。そして、これからのシスター像も熱弁された。流石に社会をご存知な司教様である。答えをここで書くことは控えさせていただき、ご想像にお任せしたい。もっと長く生きてて欲しかった司教である

 日本ではほとんど進んでない”シノドスの道”の歩みだが、昨秋の世界代表司教会議(シノドス)総会の最終文書は、何度読んでも「分からない!?」というのが私の印象である。ここに書かれている事を、世界の、日本の教会が、どこまで真剣に分かち合いを進める気があるのか。何よりも、「全ての教会の問題は、同じではない」ことが分かっているのか、疑問である。

 文書に書かれたほとんどの事例を”経験し終わった”教会もあるだろう。そして、某教区で、既に教会を離れた信者たちの中には、はっきりと自分の意見を述べたために、司教から「そのような信徒は教会に必要ありません」と一方的に”通告”された方が実際にいる。(「分かち合い」などなかったのだ)。

 一部の若者たちも、その中にいる。そして今、彼らはプロテスタントの教会に通っている。神から離れられない故の決断であり、時すでに遅し状態である。某教区では教区の方針として、このような信徒は「カトリック信者」としてカウントされない、という事実もある。。

 そうした中でも、今の教会に何の問題も感じることなく、信者生活を送っている方々もいる。これが教会であろう。そして、それぞれの信仰がそこにある。

 もし、言葉が通じない国に行き、毎週日曜日には必ず教会に行きミサに与るとする。言葉が分からないから当然、司祭の説教も理解できないだろう。「だが、それはそれで幸せかもしれない」と考える、今日この頃の私である。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2025年9月29日